第60話 森が認める者
白き守護に導かれた静泉から戻って以来、カゲツの日常は少しだけ変わっていた。
朝、森を歩けば精霊たちが姿を見せる。
昼、里を歩けば子どもたちが笑顔で駆け寄ってくる。
夕暮れには世界樹を眺めながら静かな時間を過ごす。
そんな穏やかな日々が続き、いつしか季節はゆっくりと歩みを進めていた。
ユグレシアへ滞在してから、一か月ほどが過ぎようとしていた。
「最近、精霊たちがよく集まりますね。」
朝食を終えた後、セレスが温かい茶を差し出しながら言った。
「ああ。」
カゲツは湯気の立つ木の器を受け取る。
「前は遠くから見ているだけだった。」
「今では近くまで来る。」
まるで返事をするように、小さな精霊が一体、器の縁へ舞い降りた。温かな湯気を不思議そうに眺めると、小さく羽を震わせる。
「可愛いですね。」
セレスが思わず笑う。
精霊はカゲツを見上げるように揺れた後、ふわりと風へ乗って飛び立った。
「あの子も、最近よく見かけます。」
「同じ精霊なのか。」
「見分けられないですが……何となく、そんな気がします。」
カゲツも空を見上げる。旅をしていた頃なら考えられない光景だった。精霊を見ることもなければ、こうして近くへ来ることもない。
静かな朝だった。
その時。
「セレス様!」
若いエルフの女性が走ってくる。
「長老がお呼びです。」
「何かありましたか。」
「白き守護が……。」
そこまで言って女性はカゲツを見る。
少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、小さく首を振る。
「詳しくは長老から、と。」
セレスは頷いた。
「分かりました。」
二人は長老の家へ向かう。扉を開けると、長老たちはすでに揃っていた。その表情は深刻ではない。
どこか穏やかな空気だった。
「お呼び立てして申し訳ありません。」
最年長の長老が口を開く。
「何かあったのか。」
「はい。」
長老は静かに頷く。
「ここ数日、白き守護が毎朝里の近くまで姿を見せています。」
カゲツは少し考える。
「珍しいことなのか。」
「ええ。」
「普段は世界樹の周辺で静かに過ごしておられます。」
「里まで来られることは、ほとんどありません。」
「理由は分からない。」
「私どもにも。」
長老は苦笑する。
「ですが……。」
そこで一度言葉を切り、カゲツを見る。
「どうやら、あなたが里へ来られてからです。」
部屋が静かになる。カゲツは困ったように頭を掻いた。
「俺に聞かれても分からない。」
「もちろんです。」
長老も笑う。
「原因を探そうという話ではありません。」
「ただ、一度ご一緒いただけないかと思いまして。」
「俺が。」
「はい。」
「白き守護が何を望んでいるのか。」
「もしかすると、あなたなら何か分かるかもしれません。」
カゲツは少しだけ考えた。静泉で感じた、あの不思議な感覚。言葉ではない。
それでも確かに伝わってきた何か。あれを思い出していた。
「分かった。」
「行こう。」
長老たちは安堵したように微笑む。
「ありがとうございます。」
その時だった。
開け放たれた窓から、一陣の風が吹き込む。同時に、数体の精霊が部屋の中へ舞い込んできた。
長老たちには見えていない。
だがカゲツには見える。
精霊たちは楽しそうに部屋を飛び回ると、一斉に窓の外へ向かって飛び出していく。
「……呼びに来たのか。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
セレスはその視線を追い、小さく微笑んだ。
「きっと、そうですね。」
二人は顔を見合わせる。長老の家を後にしたカゲツとセレスは、精霊たちが飛び去った方角へ歩き始めた。
里を抜ける頃には、小さな精霊たちが再び姿を現していた。
一体。また一体。風に乗るように森の奥へ飛んでは、時折振り返る。
「案内しているようですね。」
セレスが静かに呟く。
「ああ。」
カゲツも頷いた。
「急かしているわけじゃない。」
「来られるなら来い……そんな感じだ。」
二人は精霊たちの後を追う。歩き慣れた森だった。
だが、進む道は前回とは違う。やがて、大きく枝を広げた一本の古木が見えてきた。
その根元に、白き守護は静かに佇んでいた。朝日に照らされた白銀の毛並みが、淡く輝いている。
「白き守護……。」
セレスが小さく頭を下げる。白き守護はゆっくりとカゲツへ近付く。
そして、その大きな身体を静かに寄せた。
「……。」
カゲツは何も言わず、その首筋をゆっくりと撫でる。白き守護は静かに目を閉じた。
その穏やかな様子に、セレスは思わず息を呑む。
「こんな姿は……。」
「見たことがないか。」
「はい。」
「まるで、昔から一緒にいたかのようです。」
その時だった。
森の奥から数頭の鹿が姿を現す。普通の鹿だ。白き守護より一回り以上小さい。
警戒する様子もなく近付いてくると、白き守護の周りで草を食み始めた。
「野生の鹿まで……。」
セレスは驚きを隠せなかった。
「白き守護がいる場所には、他の生き物も安心して集まると言われています。」
「初めて実際に見ました。」
カゲツは静かに周囲を見渡す。鳥が枝へ止まり、リスが木を駆け上がる。小さな精霊たちは花の上を楽しそうに飛び回っていた。
争うものは何一つない。
森そのものが、一つの命のように穏やかに息づいていた。
「ここは、不思議な場所だな。」
思わず漏れた一言だった。
その瞬間。
白き守護がゆっくりと顔を上げる。黄金色の瞳が、真っ直ぐカゲツを見つめた。同時に、風が静かに吹き抜ける。
――また、あの感覚だった。
言葉ではない。
音でもない。
穏やかな意志が、心へ触れる。
『…………。』
届きそうで届かない。何かを伝えようとしている。
だが、まだ形にならない。カゲツは静かに目を閉じる。
無理に理解しようとはしない。
ただ、その感覚を受け止める。しばらくすると、風は止んだ。白き守護も静かに目を閉じる。
「今……。」
セレスが不思議そうにカゲツを見る。
「何かございましたか。」
「まだ分からない。」
カゲツは静かに答えた。
「言葉じゃない。」
「何かを伝えようとしている。」
「そんな気がする。」
「やはり……。」
セレスは白き守護を見つめる。
「白き守護は、カゲツ様だけに何かを伝えようとしているのでしょうか。」
「分からない。」
「焦ることでもない。」
カゲツはそう言って白き守護の首を軽く叩いた。
「そのうち分かるなら、それでいい。」
白き守護はゆっくりと耳を動かす。
まるで、その答えで十分だと言うようだった。やがて白き守護は向きを変え、森の奥へ歩き始める。
精霊たちも後を追い、風の中へ溶けていく。
「帰るようだな。」
「あまり無理に追わない方が良さそうですね。」
「ああ。」
カゲツもそれ以上は追わなかった。今はまだ、その時ではない。そんな気がしていた。
里へ戻る道すがら、セレスが静かに口を開く。
「長老方も驚かれると思います。」
「白き守護が、これほどカゲツ様を受け入れていることを。」
「受け入れているのかどうかは分からない。」
「ただ、一緒にいると落ち着く。」
その言葉に、セレスは柔らかく微笑んだ。
「きっと白き守護も、同じなのでしょう。」
森を吹き抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎる。その風の中では、小さな精霊たちが楽しそうに舞っていた。
そして、誰にも気付かれないまま。
森のさらに奥深くで、白き守護は一度だけ足を止める。
静かに振り返り、遠く離れたカゲツの方角を見つめると、小さく目を細めた。
その黄金の瞳には、穏やかな期待の色が宿っていた。




