第59話 白き守護
ユグレシアでの暮らしが始まってから、幾度も朝を迎えた。
朝は森を歩き、薬草を採る。
昼は里の者たちを手伝い、夕暮れには世界樹を眺めながら静かな時間を過ごす。
旅を続けていた頃とは違う。慌ただしさはなく、一日一日がゆっくりと積み重なっていた。
気が付けば、ユグレシアで暮らし始めて数週間が過ぎていた。
「今日は随分と早いですね。」
世界樹へ続く道で、セレスが歩み寄ってくる。
「少し目が覚めた。」
「せっかくだから歩こうと思ってな。」
「でしたら、ご一緒してもよろしいでしょうか。」
「ああ。」
二人は朝露の残る森を並んで歩く。
鳥の声だけが静かに響き、朝の冷たい空気が心地よい。
その時だった。
ふわり、と一陣の風が吹き抜ける。同時に、小さな精霊たちが木々の間から姿を現した。
一体、二体ではない。十を超える精霊たちが、楽しそうに風へ乗って舞い始める。
「今日は多いな……。」
カゲツが空を見上げる。
精霊たちは世界樹の奥へ向かうように飛び、時折こちらを振り返るように光を揺らしていた。
セレスもその様子を見つめる。
「こんなことは……。」
小さく呟いた、その時。
森の奥から、ゆっくりと何かが姿を現した。
白銀の毛並み。朝日に照らされて淡く輝く大きな角。静かな足取りで歩くその姿には、一切の威圧感がない。
それでも、一歩進むたび森の空気が変わる。
「……。」
カゲツは静かに立ち止まる。セレスも同じように足を止め、深く頭を下げた。
「白き守護……。」
その呼び名だけが、静かな森へ溶けていく。白き守護は二人の前で立ち止まった。黄金色の瞳が、静かにカゲツを見つめる。
しばらく見つめ合う時間が流れた。やがて白き守護はカゲツの傍まで歩み寄る。
鼻先を軽く肩へ寄せると、小さく息を鳴らした。
「……歓迎されているようですね。」
セレスが微笑む。
「そうなのか。」
「はい。」
「白き守護が、自らここまで近付くことは滅多にありません。」
カゲツは白き守護の首筋へ、そっと手を添えた。
柔らかな毛並み。ほんのりと温かい。大きな身体とは対照的に、とても穏やかなぬくもりだった。
白き守護は嫌がる様子もなく、静かに目を細める。
その姿を見て、セレスは少し驚いた表情を浮かべた。
「初めて見ました……。」
「何がだ。」
「白き守護が、自ら身体へ触れさせるところを。」
「そうなのか。」
「はい。」
「長老方ですら、ここまで近付かれることはほとんどありません。」
カゲツは白き守護を見る。相変わらず穏やかな瞳だった。
その瞳には警戒も敵意もない。あるのは静かな信頼だけだった。
「不思議な奴だな……。」
その一言に応えるように、白き守護は小さく首を動かした。
すると、周囲を舞っていた精霊たちが一斉に集まり始める。
白き守護の周りを楽しそうに飛び回り、風と光が重なり合う。幻想的な光景だった。
「まるで森そのものですね。」
セレスが思わず見入る。白き守護はゆっくりと歩き始める。
数歩進むと立ち止まり、振り返った。まるで「来い」と言っているようだった。
「……俺たちを呼んでいるのか。」
セレスも静かに頷く。
「そのように見えます。」
カゲツは白き守護を見つめ、小さく息を吐いた。
「行ってみるか。」
白き守護の後を追い、カゲツとセレスは森の奥へ歩き続けた。
人が踏み固めた道は、いつの間にか途切れている。
それでも白き守護は迷うことなく進み、精霊たちはその周りを楽しげに舞っていた。
森は静かだった。
鳥のさえずりも、小動物の気配もある。
だが、不思議と物音は耳障りにならない。すべてがこの森の一部として溶け込んでいるようだった。
「こんな場所があったのか。」
セレスが周囲を見渡す。
「私も初めて来ました。」
「初めて?」
「はい。」
「世界樹の周辺には、私たちでも足を踏み入れない場所があります。」
「ここも、その一つです。」
カゲツは白き守護の背を見つめる。
「それでも連れて来た。」
「そういうことか。」
セレスは静かに頷いた。
「白き守護が自ら誰かを導くこと自体、伝承にもほとんど残っていません。」
やがて森が開ける。そこには小さな泉があった。
泉の水は底まで透き通り、水面には世界樹の枝葉が映り込んでいる。
周囲には色とりどりの花が咲き、小さな精霊たちが水面を跳ねるように飛び回っていた。
「綺麗だな……。」
カゲツは思わず足を止める。白き守護は泉のほとりまで歩くと、ゆっくりと腰を下ろした。
精霊たちも、その周りへ集まる。セレスは小さく息を呑んだ。
「ここは……。」
「知ってるのか。」
「話だけは。」
「世界樹の恵みが最も濃く集まる『静泉』と呼ばれる場所です。」
「実際に見たのは初めてですが……。」
白き守護は静かに泉を見つめている。
その姿には、長い年月を生きてきた者だけが持つ落ち着きがあった。
カゲツも白き守護から少し離れた場所へ腰を下ろす。
風が吹く。泉の水面に小さな波紋が広がった。
その時だった。
ふわり、と一体の精霊がカゲツの肩へ舞い降りる。
続いてもう一体。
白き守護はその様子を静かに見つめ、小さく目を細めた。
「……。」
ゆっくりと立ち上がる。
そしてカゲツの前まで歩み寄ると、その大きな額をそっとカゲツの額へ寄せた。
突然のことだったが、不思議と驚きはなかった。温かな気配だけが静かに伝わってくる。
「白き守護……?」
セレスが小さく声を漏らす。
次の瞬間。
カゲツの意識へ、穏やかな何かが触れた。言葉ではない。音でもない。
それでも確かに、誰かの意思が伝わってくるような感覚だった。
カゲツは静かに目を閉じる。その感覚は一瞬だけだった。
白き守護はゆっくりと額を離し、何事もなかったように泉の方へ向き直る。
「……今のは。」
カゲツが小さく呟く。
「何かございましたか?」
セレスが尋ねる。カゲツは少しだけ考え、首を横に振った。
「いや……。」
「何かを伝えようとしていた。」
「そんな気がしただけだ。」
セレスは不思議そうな表情を浮かべたが、それ以上は聞かなかった。
白き守護は再び静かに歩き出す。帰るようだった。精霊たちも後を追うように風へ舞い上がる。
カゲツは最後にもう一度だけ泉を振り返った。
胸の奥には、まだ先ほどの温かな感覚が残っている。言葉にはならない。
だが、あれは決して気のせいではなかった。
「また来よう。」
その一言に、白き守護は歩みを止めることなく、小さく耳を動かした。それが返事だったのかは分からない。
それでもカゲツは、不思議とそうだったような気がした。
静かな風が吹き抜ける。
その風に乗って舞う精霊たちを眺めながら、二人は白き守護の後を追い、ゆっくりと里への道を歩き始めた。




