第57話 ユグレシアの日常
昼食を終えた広場には、穏やかな時間が流れていた。
談笑する者。食器を片付ける者。
子どもたちは広場の端で楽しそうに走り回っている。その光景を眺めながら、カゲツは静かに立ち上がった。
「もう少し里を歩いてもいいだろうか。」
長老は穏やかに頷く。
「もちろんです。」
「ユグレシアは、あなたを歓迎しております。」
「ありがとうございます。」
軽く頭を下げると、カゲツはセレスと共に広場を後にした。昼を過ぎた森は、朝とはまた違う表情を見せている。
木漏れ日は柔らかく、風には草木の香りが混じっていた。
「食事はいかがでしたか。」
「美味かった。」
「素材の味がよく分かった。」
「旅では、ああいう料理はなかなか食べられない。」
その言葉に、セレスは嬉しそうに微笑む。
「皆も喜びます。」
「料理を作った者たちは、朝から張り切っておりましたから。」
二人はゆっくりと歩く。急ぐ理由はない。長命種の里らしく、時間そのものが穏やかに流れていた。
その時。ふわり、と一陣の風が吹く。
カゲツは何気なく視線を向けた。木々の間を、小さな淡い光が横切る。親指ほどの大きさしかない、小さな存在。
半透明の羽を震わせながら、陽の光を受けて淡く輝いていた。
「……。」
カゲツは足を止める。
その小さな存在は、こちらを見たように一瞬だけ宙で静止すると、また風へ溶けるように飛んでいく。
「どうかなさいましたか。」
セレスが尋ねる。
「いや……。」
カゲツは小さく目を細めた。
「あそこに、小さな精霊がいた。」
その一言に、セレスは驚いたように目を見開く。
「ご覧になれたのですか。」
「やはり精霊だったのか。」
「はい。」
セレスは光が消えた方角を見つめる。
「森の精霊です。」
「普段は滅多に姿を見せません。」
「見える者も、多くはありません。」
「そうなのか……。」
カゲツは再び森へ目を向ける。確かに見えた。見間違いではない。
小さな光のような存在は、生き物のように自由に飛び回っていた。
「世界樹に近付くほど、精霊たちは姿を見せやすくなります。」
「ですが、それでも見ることができる者は限られます。」
「長老方でも見えない方はいらっしゃいます。」
「なるほど。」
カゲツは静かに頷く。不思議ではあるが、驚きはなかった。
自分は精霊族だ。見えるものが少し違っても、おかしくはない。その時だった。先ほどとは別の小さな光が、木の枝へちょこんと腰掛ける。
こちらを窺うように揺れたかと思うと、また風へ乗って飛び去っていく。
「……随分と好奇心旺盛だな。」
思わず呟く。
セレスは小さく笑った。
「きっと、カゲツ様が気になるのでしょう。」
「世界樹での出来事は、精霊たちも感じ取っておりますから。」
「そういうものか。」
「ええ。」
「精霊たちは言葉ではなく、風や光で意思を伝えると言われています。」
カゲツはもう一度だけ木々を見渡した。今度は姿は見えない。
だが、どこか近くで見守られているような、不思議な気配だけが残っていた。
「悪い気はしない……。」
静かな一言だった。その言葉を聞き、セレスも穏やかに微笑む。
「きっと、精霊たちも同じ気持ちですよ。」
森を抜ける風は、優しく枝葉を揺らした。
その音は、まるで小さな精霊たちが楽しそうに笑っているようにも聞こえた。
森を吹き抜ける風は、穏やかに枝葉を揺らしていた。
木々の隙間から差し込む陽の光が、小川の水面をきらきらと照らしている。
その静かな景色の中を、小さな光がふわりと横切った。
「まただ……。」
カゲツは自然と視線を向ける。
羽を持つ小さな精霊が、風に乗るように木々の間を舞っていた。
一体だけではない。
気が付けば、二体、三体と姿を現し、互いに追いかけ合うように飛び回っている。
「随分と賑やかになったな。」
「珍しいことです。」
セレスは嬉しそうに精霊たちを見上げる。
「普段は姿を見せても一瞬です。」
「こうして集まることは、私もほとんど見たことがありません。」
「俺が珍しいだけかもしれない。」
カゲツがそう言うと、セレスは首を横に振った。
「それだけではありません。」
「精霊たちは警戒心が強いのです。」
「興味がなければ近寄ることもありません。」
小さな精霊の一体が、カゲツの肩ほどの高さまで近付く。
しばらくこちらを見つめると、くるりと一回転して風の中へ消えていった。
「見られている気分だな。」
「ふふっ。」
セレスは思わず笑みをこぼす。
「きっと挨拶をしていたのでしょう。」
二人は小川に沿って歩き続ける。
澄んだ水の中では小魚が群れを作り、岸辺には色とりどりの花が咲いていた。
「この花も自然に。」
「ええ。」
「手入れはしますが、無理に増やすことはありません。」
「森が育てたい場所へ咲く。」
「それを見守るのも私たちの役目です。」
カゲツは足を止め、咲き並ぶ花を眺める。
「自然に任せる、か……。」
「俺には思い付かない考え方だ。」
「旅をしていると、どうしても効率を考えてしまう。」
「ユグレシアでは、時間が一番の味方ですから。」
長命種らしい答えだった。急がない。競わない。森と共に生きる。
その考え方が、この里の穏やかな空気を作っているのだろう。
その時。
「きゃっ!」
少し離れた場所から、小さな悲鳴が聞こえた。
二人が振り向くと、一人の幼いエルフの少年が木の根につまずいて尻もちをついていた。
その近くには、枝先に赤い木の実が実っている。
どうやら木の実を取ろうとして転んだらしい。カゲツはゆっくりと歩み寄った。
「怪我はないか。」
「だ、大丈夫です……。」
少年は少し恥ずかしそうに立ち上がる。膝や手に傷はない。
カゲツは安心したように頷いた。
「それなら良かった。」
少年は木の実を見上げ、小さく肩を落とす。
「あと少しだったんだけど……。」
カゲツも枝を見上げる。手を伸ばしても届かない高さだった。カゲツは静かに腰の木刀を抜く。
木刀の先を枝へそっと添え、少しだけ持ち上げる。
しなった枝から熟した木の実が三つ、ぽとり、ぽとりと地面へ落ちた。
木刀を鞘へ戻すと、木の実を拾い上げる。
「ほら。」
少年へ差し出すと、その顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「次は無理をするな。」
「届かない時は、大人を頼ればいい。」
「はい!」
元気よく返事をすると、少年は木の実を抱えて走っていった。その姿を見送りながら、セレスが微笑む。
「木刀を、そのように使われるとは思いませんでした。」
「これで十分だった。」
カゲツは静かに答える。
「剣は振るうためだけのものじゃない。」
「役に立つなら、それでいい。」
飾らない言葉だった。
だが、その一言には百年という歳月を剣と共に歩んできた者だけが持つ重みがあった。
セレスは静かに頷く。
「だから皆さん、カゲツ様を慕うのでしょうね。」
「そういうものか。」
「ええ。」
「王都でも、そしてこの里でも。」
「自然と人が集まっています。」
カゲツは少し照れくさそうに笑う。
「俺は何もしていない。」
「困っている者がいた。」
「それだけだ。」
その時、小さな精霊が木刀の柄へちょこんと舞い降りた。
羽を震わせながら、嬉しそうに身体を揺らす。
カゲツが静かに目を向けると、精霊はふわりと宙へ舞い上がり、仲間たちの元へ飛んでいった。
「気に入られたようですね。」
セレスが柔らかく笑う。
「ああ……。」
カゲツも木々の間を舞う小さな精霊たちを見上げた。風と共に現れ、風と共に姿を消す。
その光景は、この森だけが持つ穏やかな時間そのものだった。
旅はまだ続く。
だが、ユグレシアという場所は、いつかまた帰って来たいと思える場所になる。
そんな予感を胸に、カゲツは静かに歩き出した。




