第55話 長老の間
長老たちの先導で、一行は世界樹の根元を後にした。
世界樹から離れても、その圧倒的な存在感は背中越しに伝わってくる。
森を歩くエルフたちは皆、自然と世界樹へ一礼してから持ち場へ戻っていく。
それは誰かに教えられた作法ではない。
長い年月の中で根付いた、当たり前の習慣なのだろう。
「世界樹は、いつもあのように静かなのですか。」
歩きながらカゲツが尋ねる。最年長の長老が穏やかに頷いた。
「ええ。」
「季節が巡ろうとも、大雨が降ろうとも、世界樹は滅多なことでは反応いたしません。」
「我らが祈りを捧げても、何も起こらぬ日の方が多いのです。」
「では、先ほどは。」
「特別だった……ということです。」
短い返答だった。
だが、その一言だけで十分だった。長老たちの表情を見れば分かる。
先ほどの出来事は、彼らにとっても予想外だったのだ。
しばらく歩くと、大きな建物が見えてきた。
一本の巨木を削り出すように造られた建物で、屋根には蔦が絡み、壁には精霊を象った彫刻が刻まれている。
豪華さはない。
しかし、長い歴史を感じさせる落ち着いた佇まいだった。
「こちらが長老の間です。」
扉が静かに開かれる。中へ足を踏み入れると、木の香りがふわりと漂った。
広い室内には円形の机が置かれ、その周囲に椅子が並んでいる。
壁には古い地図や木彫りの紋章が飾られ、長い年月を積み重ねてきたことが一目で伝わってきた。
「どうぞ、お掛けください。」
勧められるまま席へ着くカゲツ。長老たちもそれぞれ席に腰を下ろした。最後にセレスが扉を閉める。室内は静寂に包まれた。最年長の長老が、ゆっくりと口を開く。
「まずは改めまして。」
「ユグレシアへようこそ、カゲツ殿。」
「歓迎いたします。」
その言葉と共に、長老たちが一斉に頭を下げる。
カゲツは慌てて立ち上がった。
「頭を上げてください。」
「俺は歓迎されるようなことは何も。」
「ございます。」
長老は優しく微笑んだ。
「精霊族は長き時を生きます。」
「ですが、その数は決して多くありません。」
「我らエルフですら、一生のうち一度も精霊族に出会えぬ者がほとんどです。」
「そのような存在が、この森へ自ら足を運んでくださった。」
「それだけで十分なのです。」
カゲツは少し困ったように笑う。
「そう言われると、照れますね。」
その言葉に、室内の空気が少しだけ和らいだ。セレスも小さく笑みを浮かべる。
「カゲツ様らしいですね。」
「何がだ。」
「世界樹が応えたというのに、ご本人はいつも通りです。」
「騒いでも仕方ないだろう。」
「分からないことを考え続けても答えは出ない。」
「確かに。」
セレスは苦笑する。王都でもそうだった。
どれほど驚くような出来事が起きても、カゲツは決して浮かれない。
だからこそ周囲は安心し、自然と信頼を寄せてしまうのだ。
最年長の長老は机の上へ一冊の古びた書物を置いた。
革で綴じられた厚い本。角は擦り切れ、何度も読み返されてきたことが分かる。
「これは、ユグレシアへ代々受け継がれてきた記録です。」
「世界樹に関する出来事も、この中へ記されています。」
カゲツは興味深そうに書物を見る。
「先ほどの反応も載っているのですか。」
「いえ。」
長老は静かに首を振った。
「同じ出来事は一つとしてございません。」
「世界樹は、相手によって応え方が異なると伝えられています。」
「光を放った者。」
「風が吹いただけの者。」
「何も起こらなかった者。」
「様々です。」
「ですが。」
長老は一度言葉を区切った。
「今日のように、世界樹全体が穏やかな光を宿したという記録は、ごく僅かしか残っておりません。」
部屋の空気が再び引き締まる。
「その記録に共通していることが、一つだけあります。」
「何でしょう。」
「世界樹が認めた者は、決して森の敵とはならなかった。」
「……。」
「それだけです。」
拍子抜けするほど短い答えだった。未来を示す予言でもなければ、使命を課す言葉でもない。
ただ、それだけ。
カゲツは静かに息を吐いた。
「安心しました。」
その一言に、長老たちは不思議そうな顔をする。
「安心……ですか。」
「ええ。」
「もし『世界を救え』などと言われたら、どうしようかと思っていました。」
一瞬の静寂。
そして。
「はっはっはっ!」
長老たちの笑い声が部屋に響いた。普段は厳かな雰囲気を纏う長老たちが、声を上げて笑っている。
セレスも思わず口元を押さえた。
「本当に、そのような方なのですね。」
「何かおかしかったか。」
「いえ。」
最年長の長老は笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「あなたは噂以上のお方でした。」
「だからこそ、世界樹も応えられたのかもしれませんな。」
その言葉に、カゲツは照れくさそうに頭を掻いた。
自分では何も変わったことをした覚えはない。
ただ、触れてみてほしいと言われたから触れただけだ。
それだけだった。
しかし、その何気ない行動が、この森に新たな一歩を刻んだことだけは、誰の目にも明らかだった。
長老たちの笑い声が静かに収まる。
張り詰めていた空気は和らいだものの、部屋にはまだ厳かな雰囲気が残っていた。
最年長の長老は一度深く息を吐くと、机の上の古い書物へ手を添える。
「では、本題に入りましょう。」
その一言で、室内の空気が再び引き締まった。
「先ほど世界樹が見せた反応。」
「あれは、我らにとっても特別な出来事です。」
長老はゆっくりと書物を開く。
黄ばんだ紙には古い文字が整然と並び、所々には手書きで書き加えられた跡も残っていた。
「この書は、初代長老の時代から書き継がれております。」
その一言で、室内の空気が再び引き締まった。
「先ほど世界樹が見せた反応。」
「あれは、我らにとっても特別な出来事です。」
長老はゆっくりと書物を開く。
黄ばんだ紙には古い文字が整然と並び、所々には手書きで書き加えられた跡も残っていた。
「この書は、初代長老の時代から書き継がれております。」
「世界樹に起きた出来事も、その都度記されてきました。」
カゲツは静かに耳を傾ける。
「その中で、世界樹が自ら光を巡らせた記録は六度。」
「今日で七度目となります。」
「七度……。」
思っていたより少ない。
世界樹は何千年もの時を生きているはずだ。
その長い歴史で七度しかないという事実に、カゲツは驚きを隠せなかった。
「その七人には、何か共通点があったのですか。」
長老は静かに頷く。
「ございました。」
「ですが、種族も、生き方も、それぞれ異なります。」
「英雄と呼ばれた者もいれば、一介の旅人もおりました。」
た。
「王となった者もおります。」
「名も残らず生涯を終えた者もおります。」
「共通していたのは、ただ一つ。」
長老は真っ直ぐカゲツを見る。
「世界樹が拒まなかったこと。」
「それだけです。」
カゲツは少し考え込む。
「つまり、何か使命を与えられるわけではない、と。」
「ええ。」
「少なくとも、そのような記録は残っておりません。」
その答えに、カゲツは小さく息を吐いた。
「それなら安心です……。」
またしても同じような反応だった。長老たちは互いに顔を見合わせ、苦笑する。
「普通なら、もっと驚くものなのですがな。」
「驚いてはいます。」
カゲツも苦笑した。
「ですが、分からないことを考えても仕方ありません。」
「俺は今まで通り生きるだけです。」
その言葉を聞き、セレスは静かに微笑む。
「そのお考えは、きっと変えないのでしょうね。」
「変える理由がありませんから。」
あまりにも自然な返答だった。
飾ることもなく、力むこともない。だからこそ長老たちも納得する。世界樹が応えた理由は分からない。
だが、目の前の青年が特別な力を誇示する人物ではないことだけは、短い会話だけで十分に伝わっていた。
最年長の長老は書物を閉じた。
「もう一つ、お伝えしておきたいことがあります。」
「何でしょう。」
「あなたが精霊族であることは、この森では隠す必要はございません。」
「ですが。」
長老は言葉を選ぶように続ける。
「森の外では、これまで通り軽々しく明かさぬ方がよろしいでしょう。」
「王都での話は、セレスから聞いております。」
「既に各国が長命種へ関心を強めている時代。」
「余計な争いを招かぬためにも、その方が賢明です。」
カゲツは静かに頷いた。
「俺も、そのつもりです。」
「必要がなければ話しません。」
その返答に、長老たちは安堵したように表情を緩めた。
「ありがとうございます。」
「それだけでも十分です。」
しばらく穏やかな時間が流れる。窓の外では、小鳥のさえずりが聞こえていた。森は先ほどまでと変わらず静かだ。
世界樹も、もう何事もなかったかのように風へ枝葉を揺らしている。
その時。
一人の若いエルフが部屋の外から静かに扉を叩いた。
「失礼いたします。」
「どうした。」
「昼食の支度が整いました。」
長老は小さく頷く。
「分かりました。」
若いエルフは一礼し、静かに下がっていく。
「もう、そのような時間でしたか。」
最年長の長老は柔らかく笑った。
「難しい話ばかりでは疲れてしまいますな。」
「まずは食事にいたしましょう。」
「ユグレシア自慢の料理をご用意しております。」
カゲツも立ち上がる。
「ありがとうございます。」
「楽しみにしています。」
「きっと気に入っていただけます。」
セレスが嬉しそうに微笑んだ。
「森で採れた木の実や山菜、それに川魚を使った料理です。」
「派手さはありませんが、素材の味を大切にしています。」
「それは楽しみだ。」
戦場でも、旅の途中でも、食事は大切にしてきた。
その土地の料理を知ることは、その土地を知ることでもある。カゲツはそう考えていた。
長老たちも席を立つ。
重苦しかった空気はすっかり消え、部屋には穏やかな笑顔が戻っていた。
「では参りましょう。」
扉が開かれる。その先には、昼の柔らかな陽光が差し込んでいた。
カゲツは一度だけ振り返る。
長老の間。
そして、その奥に静かに佇む世界樹。
今日この森で起きた出来事の意味は、まだ誰にも分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
この日を境に、カゲツとユグレシアとの縁は、誰にも切ることのできないものとなった。




