54話 世界樹の導き
世界樹の根元へと続く道を、カゲツたちは静かに歩いていた。
足元には幾重にも張り巡らされた巨大な根が大地を抱くように広がり、その隙間を縫うように細い道が続いている。 周囲には誰一人として無駄口を叩く者はいない。
長老たちでさえ、世界樹の傍では自然と声を潜めていた。
やがて、一行は大きく開けた場所へ辿り着く。
そこには、世界樹の幹が圧倒的な存在感を放ちながら静かに佇んでいた。
近くで見上げると、その大きさは想像を遥かに超えている。
幹の表面には長い年月を刻んだ深い紋様が浮かび上がり、見上げても枝先は空の彼方へ消えていた。
「ここが……」
長老の一人が静かに口を開く。
「世界樹の根元です」
カゲツは黙って頷いた。森全体を包む魔力とは違う。ここには、より穏やかで澄み切った空気が流れている。
息を吸うだけで心が静まっていくようだった。
「こちらで少々、お待ちください」
長老の言葉に、一同はその場で足を止める。
すると、世界樹の反対側から一人の女性がゆっくりと歩いてきた。
長い銀髪を揺らし、白を基調とした衣を纏うハイエルフ。その姿を見たカゲツは、小さく目を細めた。
「……セレス」
名を呼ばれた彼女は柔らかく微笑む。
「お久しぶりです、カゲツ様」
王都で別れて以来の再会だった。
「無事に到着されたようで安心いたしました」
「先に戻っていたんだな」
「はい。皆様へ事情をご説明し、お待ちしておりました」
その言葉に長老たちも静かに頷く。
「セレスから話は聞いております」
「あなたがローヴェンでなされたことも、王都での出来事も」
「そして……あなたが精霊族であることも」
カゲツは驚く様子もなく頷いた。
「隠すつもりはありません」
「いずれ知られることでしたから」
長老たちは穏やかな笑みを浮かべる。
「だからこそ、お迎えしたのです」
「長き時を経て、再び我らの同胞がこの地へ帰って来られた」
「それだけで十分なのです」
その言葉に、カゲツは少しだけ困ったように笑う。
「帰ってきた……か」
「俺には故郷という実感はまだない」
「それでも構いません」
セレスが静かに答える。
「今日から少しずつ知っていただければ、それで十分です」
穏やかな空気が流れる。その時、一人の長老が世界樹へ向き直った。
「カゲツ殿」
「お願いがございます」
「何でしょう」
「世界樹へ、その手を添えていただけませんか」
突然の願いだった。
「私がですか」
「はい」
長老はゆっくりと頷く。
「世界樹は言葉を話しません」
「ですが、自ら認めた者には静かに応えてくださいます」
カゲツは世界樹へ視線を向けた。巨大な幹は変わらず静かにそこにある。ただ、不思議と拒まれているような感覚はなかった。
「……分かりました」
ゆっくりと歩み寄る。
一歩。また一歩。
世界樹の目前まで来ると、カゲツは右手を静かに伸ばした。
そして、そっと幹へ触れる。
――その瞬間。
森を吹き抜ける風が、ふわりと強くなった。森を吹き抜けた風は、世界樹の枝葉を大きく揺らした。
ざわり、と葉擦れの音が森全体へ広がる。それはただ風に揺れる音ではなかった。
世界樹を中心に、森そのものが静かに応えているような、不思議な響きだった。
その瞬間。
カゲツの掌に触れていた幹が、淡く光を帯びる。
細い光の筋はゆっくりと幹を這い上がり、太い枝へ、そして無数の葉へと広がっていった。
青白い輝きが世界樹全体を包み込み、森の空気まで柔らかく染めていく。
「……まさか。」
長老の一人が思わず声を漏らした。誰も動けない。目の前で起きている出来事が信じられなかった。
これまで何度も世界樹を見守ってきた長老たちでさえ、このような反応を目にしたことは数えるほどしかない。
光はなおも穏やかに揺れている。激しさはない。
力を誇示するような輝きでもない。
まるで長い年月を経て再会した相手を迎えるように、優しく包み込む光だった。
カゲツは静かに目を閉じる。掌から伝わる感覚は温もりではない。どこまでも澄み切った静けさだった。
胸の奥にあった僅かなざわめきが消えていく。剣を握り続けた百年。戦場で積み重ねた数え切れない命。
転生してからも旅を続け、ようやく辿り着いたこの場所。
その全てを世界樹が静かに受け止めているような感覚だった。
(……不思議だ。)
初めて触れたはずなのに、拒まれている気がしない。
それどころか、ずっと昔からここにいたような錯覚すら覚える。やがて光はゆっくりと弱まり始めた。
枝を照らしていた輝きは葉へと溶け込み、最後には幹へと戻っていく。
森を吹き抜けていた風も次第に穏やかさを取り戻した。
静寂が戻る。カゲツはゆっくりと手を離した。
「終わったようですね。」
その一言で、止まっていた空気が動き出す。
「信じられぬ……。」
最年長の長老が静かに呟く。
「ここまで穏やかな反応は、古い記録の中でも数えるほどしか残されておらぬ。」
別の長老も深く頷いた。
「拒絶どころか、歓迎しているようであった。」
「世界樹が自ら応えた……。」
小さな声が次々と漏れる。誰の表情にも驚きが浮かんでいた。セレスもまた、その光景を静かに見つめている。
その横顔には安堵と喜びが入り混じっていた。
「カゲツ様。」
「何でしょう。」
「世界樹へ触れた時、何かお感じになりましたか。」
カゲツは少し考え、小さく首を傾げる。
「景色が見えたわけでも、声が聞こえたわけでもありません。」
「ですが……。」
「ですが?」
「懐かしい、と感じました。」
その一言に、その場の空気が変わる。長老たちは互いの顔を見合わせた。驚きよりも、確信に近い表情だった。
「懐かしい……。」
最年長の長老が静かにその言葉を繰り返す。
「やはり。」
短く漏れたその言葉に、他の長老たちも無言で頷いた。カゲツはその様子を見て首を傾げる。
「何か心当たりが?」
「ございます。」
長老はゆっくりと答えた。
「ですが、この場でお話しすることではありません。」
「世界樹の前では、必要以上に言葉を交わさぬのが我らの習わし。」
「詳しい話は長老の間でお聞かせいたします。」
カゲツは静かに頷いた。
「分かりました。」
長老は世界樹へ一礼する。それに続き、他の長老たちも深く頭を下げた。
セレスも胸の前で静かに両手を重ね、世界樹へ感謝を捧げる。
カゲツもそれに倣い、一度だけ世界樹を見上げた。枝葉は穏やかに揺れ、先ほどまでの輝きはもうない。
それでも、この森全体がどこか優しく感じられた。
「参りましょう。」
長老の言葉に一行は歩き出す。
世界樹から少し離れるにつれ、神聖な静けさは少しずつ日常の森の空気へと戻っていく。
しかし、誰一人として先ほどの出来事を忘れる者はいなかった。
長老たちの胸には、古い伝承が蘇っていた。世界樹が静かに迎えた一人の精霊族。
その意味を知る者は、今この森にいる長老たちだけだった。
そしてカゲツはまだ、自分がその伝承の中心に立っていることを知らなかった。




