52話 里への報せ
森の中を、一つの影が駆け抜ける。
枝から枝へ。音もなく。
深緑の外套が木々の間を滑るように揺れ、金色の髪が僅かに風を受ける。
境界を守る斥候は、一度も足を止めることなく森の奥を目指していた。
(急がなければ)
胸の鼓動は落ち着いている。焦っている訳ではない。
だが、長く斥候を務めてきた経験が告げていた。今日の出来事は、すぐに長老たちへ伝えるべきだと。
白き精霊獣。
境界で姿を現した守護の存在。
そして――銀髪の旅人。
どれもが、偶然では片付けられない。
森を駆けながら、女性は先ほどの光景を思い返す。若く見える青年。質素な旅装。腰に差した木刀。
それだけを見れば、どこにでもいる旅人だった。
しかし、その静けさだけは違った。弓を向けても慌てない。問い掛けても飾らない。
見栄を張ることも、自分を大きく見せようとすることもなかった。
何より。
森が彼を拒まなかった。
(あれほど自然に立っている外の者を、私は知らない)
女性は小さく息を吐く。
やがて木々の向こうに、大きな岩壁が姿を現した。
一見すれば、ただの断崖。
しかし近付くにつれ、岩肌には古い紋様が刻まれていることが分かる。女性は迷うことなく岩壁へ手を添えた。
淡い光が紋様を走る。静かな振動とともに、岩壁の一部がゆっくりと開いた。
その先には、さらに深い森が広がっていた。
空気が違う。
木々はさらに高く、幹は何人もの大人が手を繋いでも抱えきれないほど太い。
澄んだ水が流れ、小鳥が枝を渡り、柔らかな陽光が森全体を優しく照らしている。
ここが――ユグレシア。
外界から隔てられた、長命種たちの里だった。
女性は足を止めず、そのまま森の奥へ進む。途中ですれ違うエルフたちが一礼する。
「お帰りなさい。」
「巡回、ご苦労様です。」
女性は軽く頷くだけで通り過ぎた。普段なら一言二言交わす。だが今日は違う。伝えるべきことがある。
やがて森が開け、一際大きな樹々に囲まれた広場へ辿り着く。
その奥には、自然と調和するように建てられた木造の建物が並んでいた。
人工的な豪華さはない。
それでも、長い年月を重ねた風格が静かに漂っている。女性は一つの建物の前で立ち止まり、深く一礼した。
「長老様。」
しばらくして、中から穏やかな声が返ってくる。
「入りなさい。」
女性は静かに扉を開けた。室内には三人の長老が座していた。
皆、長い時を生きた者だけが持つ穏やかな雰囲気を纏っている。女性は膝をつき、頭を下げた。
「境界の巡回より戻りました。」
中央に座る長老が、ゆっくりと頷く。
「ご苦労でした。」
「何か変わったことでも?」
女性は顔を上げる。
「……ありました。」
その一言で、室内の空気が少しだけ引き締まる。
「境界で、一人の旅人と遭遇しました。」
長老たちは静かに耳を傾ける。
「銀髪の青年です。」
「森は彼を拒まず、白き守護までもが、その前へ姿を現しました。」
その報告に、一人の長老が静かに目を閉じた。そして、小さく呟く。
「……やはり。」
女性は驚いて顔を上げる。その反応は、まるで予想していたかのようだった。別の長老が穏やかに微笑む。
「セレスが話していた者でしょう。」
「王都で出会った、見知らぬ精霊族。」
「ついに、この森まで辿り着きましたか。」
女性は思わず息を呑む。
「では……長老様方は、ご存じだったのですか。」
中央の長老は静かに頷く。
「話だけは聞いていました。」
「いつか来るかもしれない、と。」
「ですが、本当に来るとは思っておりませんでした。」
しばらく静寂が流れる。やがて長老は穏やかな眼差しで女性を見た。
「その者は、今どこに。」
「境界で、お待ちいただいております。」
「そうですか。」
長老は静かに立ち上がった。
「ならば、迎えに行きましょう。」
その一言に、室内の空気がわずかに変わる。
長き時を生きる長老たちもまた、この日を静かに待ち続けていたのだった。
一方、その頃――。
境界の森。
カゲツは斥候の女性を見送ったあと、近くの切り株へ腰を下ろしていた。
森は静かだった。だが、その静けさは王都近くの森とは違う。
耳を澄ませば、小川のせせらぎが聞こえる。遠くでは小鳥が鳴き、木々の葉が揺れる音が重なっていた。
どこか懐かしい。そんな空気だった。
「……」
カゲツは何も考えず空を見上げる。
枝葉の隙間から差し込む陽の光は柔らかく、時間だけがゆっくりと流れていた。
急ぐ理由はない。ここまで来るのに一年以上歩いた。
王都で鍛冶師となり、夜凪を打ち、ギルドで依頼を受け、旅へ出た。
村を巡り、街道を歩き、野営を重ね、小さな出会いを積み重ねながら、この森まで辿り着いた。
あと少し待つだけなら、長い旅路の中ではほんの一瞬だった。
その時。
足元へ小さな温もりが寄ってくる。野兎だった。丸くなりながら、小さく欠伸をする。
「眠いのか」
野兎は耳だけをぴくりと動かした。カゲツは小さく笑う。
「お前も、ここまでよく付いて来たな」
王都を出た頃は、数日でどこかへ帰ると思っていた。
それが今では、野営をすれば隣に居るのが当たり前になっている。不思議な縁だった。
しばらくして。
森の奥から、複数の気配が近付いてくる。足音はほとんど聞こえない。だが、隠すつもりもないらしい。カゲツはゆっくり立ち上がった。
やがて木々の間から、数人のエルフが姿を現す。先頭には、先ほどの女性。その少し後ろには、三人の老人が歩いていた。
老人と言っても、人間とは違う。背筋は真っ直ぐ伸び、歩みに衰えはない。
長い銀髪。深い緑の法衣。
そして、その瞳には長い年月を生きた者だけが持つ穏やかさが宿っていた。
カゲツは自然と一礼する。三人も静かに頷き返した。しばらく誰も口を開かない。
互いに相手を見つめる時間だけが流れる。最初に口を開いたのは、中央に立つ長老だった。
「初めまして。」
落ち着いた声だった。
「私は、この里で長老を務める者です。」
カゲツも静かに名乗る。
「カゲツです。」
その名を聞き、三人は小さく頷いた。
「セレスから話は聞いております。」
「王都で、見知らぬ精霊族に出会った、と。」
カゲツは静かに答える。
「俺も、あの人には世話になりました。」
「そうですか。」
長老は穏やかに微笑む。
「では、ようやく会えましたな。」
その言葉には、どこか安堵も滲んでいた。
「失礼ながら。」
別の長老が一歩前へ出る。
「少し、お近くへ。」
カゲツは頷き、その場を動かず待つ。長老はゆっくりと近付き、銀髪の青年を見つめた。
髪。
耳。
瞳。
纏う魔力。
呼吸。
その全てを静かに確かめる。やがて、目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……間違いありません。」
隣の長老が尋ねる。
「やはり。」
「ああ。」
「この方は、人間ではありません。」
その言葉に、斥候の女性は小さく息を呑む。予想はしていた。それでも、長老の口から告げられると重みが違う。
「精霊族。」
中央の長老が静かに呟く。
「しかも、我らの里に記録のない御方です。」
誰も驚きの声は上げない。ただ、静かに受け止めていた。
長い時を生きる者たちだからこそ、感情を大きく表へ出さない。
だが、その瞳だけは隠せなかった。
興味。
驚き。
そして、僅かな喜び。それらが静かに宿っていた。中央の長老は改めてカゲツを見る。
「カゲツ殿。」
「はい。」
「長旅、お疲れ様でした。」
その一言に、カゲツは少しだけ目を細める。
王都を発ってから、多くの人と出会った。
だが、「旅、お疲れ様でした」と言われたのは初めてだった。長老は穏やかに微笑む。
「どうか、ユグレシアへお越しください。」
「我ら一同、あなたを歓迎いたします。」
その言葉を聞いた瞬間。カゲツはゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます。」
一年以上続いた旅は、ようやく一つの目的地へ辿り着こうとしていた。
銀髪の精霊族は、長老たちと共に、静かにユグレシアへの一歩を踏み出した。




