51話 境界の森
「ここから先は、人が軽々しく入って良い場所ではない 森の空気が、更に静まった。
その言葉を最後に、互いに口を閉ざす。 風が梢を揺らし、木漏れ日が二人の間へ静かに差し込んだ。
目の前に立つエルフの女性は、弓こそ下ろしているものの、その手はいつでも矢を放てる位置に添えられている。
森へ溶け込むような立ち姿。隙がない。
一方、カゲツも動かなかった。
敵意を向ける訳でもなく、構える訳でもない。
ただ、静かに女性を見つめている。
その様子に、女性は僅かに違和感を覚えた。
(動じない……)
ここまで来た外の者は、これまでにも何人かいた。
迷い込んだ旅人。 欲に目が眩んだ冒険者。珍しい薬草を求める採集者。皆、同じだった。弓を向ければ怯える。
怒鳴れば言い訳をする。逃げ出す者も少なくない。
だが、この銀髪の青年だけは違った。恐れていない。かと言って、挑発する様子もない。
まるで、この状況すら受け入れているようだった。
静寂を破ったのは、女性だった。
「名は」
短い問い。カゲツは一拍置いて答える。
「カゲツ」
「姓は」
「今は名だけでいい」
女性は少しだけ眉を寄せた。
隠している訳ではない。
そう感じる。
だが、それ以上踏み込ませない空気があった。
「……私はまだ名乗るつもりはない」
「構わない」
それだけだった。
普通なら不満を口にする。
しかしカゲツは頷くだけ。その反応が、また女性を戸惑わせた。野兎がカゲツの足元を小さく回る。女性はその姿へ目を向けた。
「その兎は」
「旅の途中で付いて来た」
「飼っている訳ではないのか」
「違う」
「逃げないのか」
「逃げないな」
野兎は女性を見ると少しだけ身を縮めた。
だがすぐに、カゲツの足へ身体を寄せる。
女性はその様子を黙って見つめる。
(森の獣が……)
あり得ない。
この辺りに棲む獣は、人の気配を嫌う。ましてや、ここは境界の森。普通の森ではない。
それなのに、この野兎は安心しきっている。それだけではない。
先ほど。
森の守護たる白き精霊獣までもが、この男の前へ姿を現した。
長くこの森を守ってきた自分でさえ、滅多に目にすることはない存在だ。それが何故。外から来た旅人の前へ。
考えれば考えるほど分からない。
「……目的は」
女性が改めて尋ねる。今度は先ほどより静かな声だった。カゲツは真っ直ぐ女性を見る。
「旅だ」
「その旅の終着点が、この森なのか」
「いや」
短く首を横へ振る。
「旅はこれからも続く」
「なら、何故ここへ来た」
少しだけ間が空いた。カゲツは森の奥へ視線を向ける。
「会いたい人がいる」
女性の瞳が僅かに細くなる。
「……誰だ」
「セレス」
その名が森へ静かに落ちた。一瞬だった。女性の表情が変わる。驚き。困惑。
そして警戒。
「……今、何と言った」
「セレスだ」
「その名を……どこで知った」
「王都アルヴェリアで会った」
女性は息を呑む。
王都。あり得ない。確かにセレスはしばらく里を離れていた。だが。
戻ってきた時、長老へ何かを報告していたことまでは知らされていない。
それが、この男と関係しているのか。
「セレスは、お前に何を話した」
「ユグレシアのことを少し」
「……」
「いつか来るなら歓迎すると言われた」
女性は何も言えなかった。
セレスが、外の者へそんな言葉を掛けるとは思えない。
だが。
目の前の男は嘘をついているようには見えなかった。むしろ、不器用なほど正直だった。
森へ再び沈黙が訪れる。風が吹き、枝葉が揺れる。女性は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
(……私の手には余る)
この男を追い返す。それだけなら出来る。だが、それで済む話ではない。
白き精霊獣。森の反応。そして、セレスの名。
どれも長老へ報告すべき出来事だった。
女性はゆっくりとカゲツを見た。
「……ここで待て」
その声は、先ほどまでとは少しだけ違っていた。警戒は残っている。
だが、その中に迷いも混じっていた。
「……少し待っていろ」
今度の声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
命令ではない。
一人では判断できないと決めた者の声だった。
カゲツは静かに頷く。
「分かった」
その一言だけだった。理由を尋ねることもなければ、先を急ごうとする様子もない。女性はその様子を見て、小さく目を細めた。
(……本当に待つつもりか)
外の者は、自分の目的を優先する。ここまで来た者ならなおさらだ。だからこそ、少しでも目を離せば先へ進もうとする。そんな者を、彼女はこれまで何人も見てきた。
しかし、目の前の青年には焦りがなかった。長い旅路の途中で、ほんの少し立ち止まる。それくらいの時間は何でもない。
そんな空気をまとっている。女性は改めてカゲツを見る。
旅装は質素だった。長い旅を物語る外套。腰には一本の木刀。豪華な装備も、高価な装飾品も見当たらない。
だが、不思議と弱くは見えなかった。自然に立っているだけなのに隙がない。
長年鍛え続けた者だけが持つ静かな重みが、その立ち姿から伝わってくる。
その時。
野兎がぴょん、と跳ねてカゲツの足元へ戻ってきた。女性はその姿を見つめる。森の獣は敏感だ。危険な者には決して近寄らない。
まして、この境界の森に棲む獣ならなおさらだった。
それなのに、この野兎は安心しきった様子で青年の隣へ座っている。
先ほど姿を現した白き精霊獣もそうだった。守護たる存在が、自ら外の者の前へ姿を見せた。
そんな話は、里の古い記録にも残っていない。
(……やはり長老様へ報告するべきだ)
彼女は心の中で決断する。自分一人では判断できない。この青年を追い返して終わる話ではない。
「一つだけ確認する」
女性が静かに口を開く。
「何だ」
「セレス様は、お前と何を話した」
カゲツは少しだけ考える。王都で出会った長命種の女性。
穏やかな物腰だったことは覚えている。
だが、長く話した訳ではない。
「少し話をしただけだ」
「……それだけか」
「ああ」
女性は黙って続きを待つ。
「俺が旅をしていること」
「王都へ来た理由」
「そのくらいだ」
「ユグレシアという名は」
「セレスから聞いた」
その一言で、女性の表情が変わる。
「……そうか」
短い返事だった。だが、その瞳には迷いが浮かんでいた。セレスが外の者へユグレシアの名を明かした。それだけでも十分な出来事だった。
まして、目の前の青年は森に拒まれていない。
白き精霊獣は姿を現し、野兎までもが寄り添っている。
偶然とは思えなかった。女性は小さく息を吐く。
(私では判断できない)
追い返すことはできる。
しかし、それで済ませていい相手ではない。長老へ報告すべきだ。その結論に至るまで、それほど時間は掛からなかった。女性は真っ直ぐカゲツを見る。
「……ここで待っていてくれ」
先ほどよりも落ち着いた声だった。
「長老様へ報告する」
「長老か」
「ああ。この森で判断を下せるのは、あの方だけだ」
カゲツは静かに頷く。
「分かった」
それ以上は何も聞かない。女性も、それ以上は何も話さなかった。踵を返す。
二歩、三歩と歩き出したところで、その姿は木々の陰へ溶け込むように消えていく。
やがて気配まで完全に消えた。見事な身のこなしだった。再び森は静寂に包まれる。カゲツは近くの苔むした切り株へ腰を下ろした。
急ぐ旅ではない。ここまで何か月も歩いてきた。
あと少し待つ時間など、長い旅路の中ではほんの一瞬に過ぎない。
足元では野兎が丸くなり、小さく欠伸をした。
カゲツはその姿を見て、ふっと笑みを浮かべる。
「……もう少しか」
誰に向けた言葉でもない。
その呟きは、境界の森の静けさへ溶け込むように消えていった。




