4話 月兎亭
夜の街は賑やかだった。 酒場から響く笑い声。
肉の焼ける匂い。 行き交う人々の喧騒。
その全てを眺めながら、カゲツは静かに歩いていた。
前世では、こうした場所に来る機会はあまり無かった。
剣ばかりの人生だった。 戦場。 道場。 静かな家。
酒を飲むことはあっても、こうして街を歩くことは少なかった。
だからだろうか。 今は妙に新鮮だった。
「ここです!」
フィナが指差す。 通りの角に建つ二階建ての宿屋。
木製の看板には、“月兎亭”と書かれていた。
窓から暖かな灯りが漏れている。
「お、まだ空いてそうだな」
クルトが扉を開けた。 瞬間、酒と料理の匂いが広がる。
店内には冒険者や商人らしき客が並び、賑やかな空気に満ちていた。
だが。 カゲツが入った瞬間、空気が止まる。
「……は?」
「なんだあれ……」
「銀髪……?」
視線が集まる。 カゲツは小さく息を吐いた。
「やはり目立つな」
「そりゃそうだろ……」
クルトが苦笑する。 奥から、恰幅の良い女性が出てきた。
四十代ほどだろうか。 赤毛を後ろでまとめた、威勢の良さそうな女性だった。
「おかえり、クルト――って」
女性の視線がカゲツで止まる。
「……あんた、何者だい?」
「旅人だ」
「その見た目で?」
「問題あるか?」
女性は数秒だけ黙った後、大きく笑った。
「ははっ、面白い坊やだね!」
その豪快な笑い声で、張り詰めていた空気が少し和らぐ。
「私はこの店の主人、マリアだ。まぁ座んな」
「感謝する」
三人は空いている席へ座る。 すぐに料理とスープが運ばれてきた。 温かい匂いが広がる。 カゲツは静かにスープを口へ運んだ。
「……美味いな」
「だろ?」
クルトが笑う。 前世でも様々な料理を食べてきた。
だが異世界の料理はまた違う。 香辛料の匂いも、肉の味も少し違っていた。
そんなことを考えていると、マリアが腕を組む。
「で、泊まるのかい?」
「そのつもりだ」
「銀貨二枚」
カゲツは止まった。 数秒沈黙する。 それから静かにクルトを見る。
「……銀貨とはなんだ?」
「え?」
「あと、俺は金を持っていない」
再び沈黙。 クルトが固まる。 フィナが目を丸くする。 マリアは数秒だけ呆然とした後、吹き出した。
「ははははっ!」
豪快な笑い声が店内へ響く。
「無一文の旅人かい!」
「そうなるな」
カゲツは真顔で頷いた。 前世なら財布くらい持っていた。 だが今の自分は、本当に何も持っていない。
剣すら無い。 クルトが頭を抱える。
「あんたよく街まで来れたな……」
「歩けば着いた」
「そういう問題じゃねぇ」
フィナが苦笑している。
だがカゲツ自身は特に困っていなかった。
「なら働こう」
「……は?」
マリアが瞬きをする。 カゲツは静かに続けた。
「宿代分、何か仕事をすればいい」
その声音は自然だった。 当然のように。
前世でも、食うために働くことは普通だった。 百年も生きれば、妙なプライドなど消えている。
マリアは少しだけ目を細める。
「坊や、見た目よりずっと大人だね」
「見た目ほど若くはない」
「クルトから少し聞いたよ。変わった奴だとは思ってたけどねぇ」
マリアは少し考え、それから顎で裏口を指した。
「なら薪割り頼めるかい? 力仕事が溜まっててね」
「分かった」
カゲツは立ち上がる。 裏庭へ出ると、大量の薪が積まれていた。 斧も置いてある。
クルトたちも後ろから付いてきた。
「結構あるな……」
「これ明日やる予定だったんですけど……」
フィナが呟く。 カゲツは斧を手に取った。 軽く重さを確かめる。
「ふむ」
そして。 一歩、踏み込む。 瞬間。 風が鳴った。
「――え?」
クルトの目が見開かれる。 斧が消えたように見えた。
次の瞬間。 積まれていた薪が、一斉に崩れ落ちる。 全て綺麗に割れていた。
静寂。 カゲツは何事も無かったように斧を戻す。
「これでいいか?」
クルトが口をぱくぱくさせる。
フィナも固まっていた。
やがて背後から、マリアの引き攣った声が聞こえる。
「……坊や、本当に何者だい?」
「だから旅人だ」
穏やかに答えるカゲツ。だがその姿を見ながら、クルトは確信していた。
この銀髪の青年は。
きっと、自分たちの想像を遥かに超える存在なのだと。
翌朝。 月兎亭の一階は、既に賑わっていた。
朝だというのに酒を飲んでいる冒険者もいる。
大声で笑う者。 依頼書を眺める者。 鎧の手入れをしている者。 様々だった。
カゲツは窓際の席で静かに茶を飲んでいた。
朝の光が銀髪を照らしている。 その姿は妙に絵になっていた。
「……なんか貴族みてぇだな」
クルトが苦笑する。 カゲツは首を傾げた。
「そうか?」
「そうだよ。というか、そこらの貴族より綺麗だ」
「またそれか」
カゲツは小さく息を吐く。 どうにもこの身体は目立つらしい。
前世では百を超えた老人だったというのに、不思議な感覚だった。
フィナがパンを齧りながら笑う。
「でも昨日、街の人みんな見てましたよ?」
「見られて嬉しいものでもない」
「慣れてください」
「努力しよう」
そんなやり取りを見ながら、店主のマリアが笑う。
「坊や、本当に変わってるねぇ」
「よく言われる」
カゲツが茶を飲んだ、その時だった。
月兎亭の扉が乱暴に開く。 大柄な男たちが数人入ってきた。 革鎧。 大剣。 いかにも荒くれ者という雰囲気。
冒険者だ。
先頭の男は周囲を見渡し――カゲツを見て止まった。
「……なんだぁ?」
嫌な空気だった。 クルトが顔を顰める。
「げ……ガロン達か」
「知り合いか?」
「まぁ……悪い意味で」
ガロンと呼ばれた大男は、にやにや笑いながら近付いてくる。 酒臭かった。
「随分綺麗なガキがいるじゃねぇか」
周囲の冒険者たちが視線を逸らす。 面倒事を避けているのだ。
ガロンはこの辺りでは有名な荒くれだった。 実力もあり、喧嘩も強い。 だから誰も止めない。
ガロンはカゲツの前へ立つ。
「坊主。ここはガキの来る場所じゃねぇぞ?」
カゲツは静かに茶を置いた。
「そうか」
「……は?」
「別に構わんだろう。茶を飲んでいるだけだ」
穏やかな声だった。
だが、それが気に入らなかったのか、ガロンの眉が吊り上がる。
「舐めてんのか?」
空気が悪くなる。
クルトが立ち上がろうとした、その瞬間だった。
カゲツが顔を上げる。 ただ、それだけ。 視線が合う。
「――ッ」
ガロンの身体が止まった。 息が詰まる。 背筋が凍る。
そこにいたのは、美しい少年ではなかった。
戦場だった。 血。 死。 殺気。
積み重なった無数の死。
一瞬だけ。 本当に一瞬だけ、ガロンはそれを見た。
「……ぁ」
声が漏れる。 足が、震えていた。 カゲツは静かに言う。
「騒ぐな」
それだけだった。 だがガロンは反射的に後退る。
周囲の冒険者たちも息を呑んでいた。
今の一瞬で理解したのだ。
――この銀髪は危険だ。
本物だ。 しかも、桁が違う。 ベテラン冒険者の一人が小さく呟く。
「……戦場の目だ」
その言葉に、空気が変わる。 戦場を知る者だけが持つ目。 人を斬り、生き残ってきた者だけが持つ空気。
若い見た目では絶対にあり得ないもの。
ガロンは額に汗を浮かべながら後退った。
「……悪かった」
そう言って席へ戻る。
店内は静まり返っていた。 カゲツは再び茶を飲む。
「……なんだ?」
不思議そうな声だった。 クルトが引き攣った顔で呟く。
「いや、“なんだ”じゃねぇよ……」
フィナも青ざめている。
「今、すごく怖かったです……」
カゲツは少し考えた。
「別に何もしていないが」
「してたんだよ……」
クルトは深く息を吐く。 やはりこの男はおかしい。
穏やかで静かなのに。 時折、本当に恐ろしい何かが見える。
その時だった。 マリアがぽん、と手を叩く。
「そうだ坊や」
「なんだ」
「そんなに強いなら、冒険者登録でもしたらどうだい?」
カゲツは目を細める。
「冒険者?」
「魔物退治とか護衛とかを請け負う仕事さ。旅するなら金も必要だろ?」
カゲツは静かに考える。 確かに必要ではある。
この世界を歩くなら、金は要る。
そして何より。
「……世界を見られるのか?」
その問いに、マリアは笑った。
「そりゃ色んな場所へ行けるさ」
カゲツは小さく頷く。
「なら、悪くない」
その静かな言葉を聞きながら、クルトは苦笑した。
きっとこの男は。 強さにも、名誉にも興味が無い。
ただ。 世界を見て歩きたいだけなのだ。




