37話 長命種街区
長命種街区。 王都アルヴェリアの中でも、特に静かな区画。 本来なら。 そう呼ばれる場所だった。
だが今。 そこには異様な空気が流れていた。
「本当に現れたのか……?」
「あり得ん……」
「だが、あの風は……」
エルフたちがざわめく。 ハイエルフ。 長命種。 数百年を生きる者たち。 その彼らが、明らかに動揺していた。
一方。 街区中央では、一人の老ハイエルフが険しい顔をしている。
白銀の長髪。 長い耳。 深い皺。 数百年級の空気を纏う老人だった。
「……王城で風が吹いたと聞いた」
低い声。
「はい、長老」
周囲のハイエルフたちが頷く。
「しかも、“暖かい風”だったとか」
「間違いない」
老人が目を閉じる。
「古記録と一致しておる」
周囲が息を呑む。 古代文献。 伝承。 遥か昔の記録。 そこには確かに記されていた。
――“精霊族の周囲では、世界が揺らぐ”。
「まさか、この時代に……」
誰かが震える声で呟いた。
「随分騒がれているな」
長命種街区へ到着したカゲツが、ぽつりと呟く。 隣ではエルミナが少し苦笑していた。
「原因が原因ですから……」
王城からの騎士たちも同行している。 だが。 街区へ入った瞬間、空気が変わった。
「……っ」
「本当に……」
エルフたちの視線が、一斉にカゲツへ集まる。 普通の人族とは違う。 長命種たちは、もっと敏感だった。
風。 空気。 魔力。 目の前の銀髪の存在が、“世界へ溶け込んでいる”ことを本能的に感じ取っている。
そして。 中央の老人が、ゆっくり前へ出た。
その瞬間。 周囲のハイエルフたちが道を開ける。
「長老様だ……」
小さな声。 老人は、真っ直ぐカゲツを見ていた。
そして。 数秒。 何も言わない。 ただ、見ている。
一方。 カゲツも静かに視線を返した。 不思議な沈黙だった。 先に口を開いたのは、老人だった。
「……本当に、いたのだな」
震えるような声。 だが。 そこにあったのは敵意ではない。 畏れ。 そして、深い敬意だった。
「お主」
老人が一歩近付く。
「名は」
「カゲツ」
「姓は無いのか?」
一瞬。 周囲が静まり返る。 だが。 カゲツは静かに答えた。
「今は、カゲツとして生きている」
穏やかな返答。 その瞬間。 ふわり、と風が吹いた。 暖かな風だった。 木々が揺れる。 葉が舞う。
長命種街区の空気が、一瞬だけ澄んだ。
「……っ」
周囲のエルフたちが息を呑む。 老人の目が、大きく見開かれる。
「やはり……」
震える声。
「世界が、お主を歓迎しておる……」
一瞬。 街区が静まり返る。 誰も言葉を発せない。
ただ。 風だけが、静かに吹いていた。 その時だった。
「カゲツさん」
後ろから聞き慣れた声。 リュシエルだった。
だが。 普段冷静な彼女も、今は少しだけ表情が硬い。
「……大変なことになってますね」
「そうか?」
「そうです」
即答だった。 周囲のハイエルフたちが、一斉にリュシエルを見る。
「リュシエル」
老人が低く呼ぶ。
「お前は、この方と接していたのだな?」
リュシエルは静かに頷く。
「はい」
そして。 少しだけ困ったように笑った。
「……いつも通りでしたよ」
一瞬。 張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。 カゲツは静かに風を見上げていた。
最近。 本当に、世界が近い。 そんな感覚があった。
長命種街区には、静かな緊張が流れていた。 誰もが、銀髪の旅人を見ている。 精霊族。 伝説級種族。
文献でしか見たことのない存在。 それが今、目の前にいる。
一方。 カゲツは相変わらずだった。 静かに風を見ている。 まるで周囲の空気など気にしていない。 その自然さが、逆に異質だった。
「……信じられん」
若いハイエルフの男が呟く。
「本当に精霊族なのか……?」
「だが、あの空気は……」
「長老様が認めている」
周囲もざわついていた。 特に長命種ほど分かる。 目の前の存在が、“普通ではない”ことを。
長く生きた者ほど敏感だった。 魔力。 気配。 時間の重み。 そういうものが、カゲツだけ異質なのだ。
「……お主」
長老が静かに口を開く。
「何年、生きておる」
一瞬。 空気が止まる。 周囲のハイエルフたちも息を呑んだ。
一方。 カゲツは少しだけ考える。
「百を少し越えた程度だ」
静かな返答。 その瞬間。
「……は?」
若いハイエルフが声を漏らした。 周囲も困惑している。
「そ、それだけ……?」
「あり得ん……」
「だが、あの空気は……」
ざわめきが広がる。 数百年級のハイエルフたちですら、もっと“若い”。 目の前の精霊族は、百年程度とは思えなかった。 長老も静かに目を細める。
「……なるほど」
低い声。
「生きた年数ではないか」
「?」
「お主、“濃い”のだ」
その言葉に、周囲が静まる。
「濃い……?」
エルミナが小さく呟く。 長老は静かに頷いた。
「時間の積み方が違う」
視線がカゲツへ向く。
「戦い」
「死」
「別れ」
「迷い」
「そういったものを、お主は濃く生きておる」
風が吹く。 静かな風だった。
「だから、“古い”」
その瞬間。 周囲の長命種たちが息を呑む。 分かってしまった。 年齢ではない。 この精霊族は、“生き方”が違うのだ。
一方。 カゲツは少しだけ目を細めていた。 不思議だった。 否定する気にならない。
前世。 戦場。 剣鬼としての人生。 転生後の旅。 確かに、自分は濃く生きてきた。
「……そうかもしれんな」
穏やかな返答。 その瞬間。 また、暖かな風が吹く。
木々が揺れる。 葉が舞う。 長命種街区の空気が、静かに澄んでいく。
「……やはり」
長老が小さく呟く。
「世界が、お主を愛しておる」
一瞬。 若いハイエルフたちの顔色が変わる。 その言葉は、長命種にとって特別だった。 世界に愛される存在。
それは古い伝承の中でしか語られない。 自然と共に在る者。 精霊族。 その時だった。
「……長老様」
一人のハイエルフが、小さく声を漏らす。
「まさか、“精霊王”では……」
空気が止まる。 だが次の瞬間。
「馬鹿を言うな」
長老が即座に否定した。 珍しく強い声だった。
「その名を軽々しく口にするな」
「も、申し訳ありません……!」
若いハイエルフが青ざめる。 一方。 カゲツは少し首を傾げた。
「精霊王?」
聞き慣れない言葉だった。 すると。 長老が静かにカゲツを見る。
「……古い伝承です」
その声音には、僅かな緊張が混ざっていた。
そして。 風が、静かに吹いていた。




