33話 森の異変
王都北西の森。 そこへ足を踏み入れた瞬間。 カゲツは静かに目を細めた。
「……濃いな」
ぽつりと漏れる。 森の空気が重い。 湿っている訳ではない。
だが。 何かが淀んでいる。 風の流れも不自然だった。
「本当に変だ……」
同行してきたギルド職員の男が顔を青くする。 本来なら案内だけの予定だった。
だが、森へ入った瞬間から空気が違う。 肌が粟立つ。
息苦しい。 そんな感覚があった。
一方。 カゲツは静かに森を見ていた。
木々。 土。 風。 そして。 “流れ”。
「……泣いているな」
小さな呟き。
「え?」
ギルド職員が振り返る。
だが。 カゲツはそれ以上言わなかった。 代わりに、静かに歩き始める。 足音が妙に軽い。
まるで森へ溶け込んでいるようだった。 ギルド職員は思わず息を呑む。 これまで多くの冒険者を見てきた。
だが。 こんな風に森を歩く者は初めてだった。
“進んでいる”というより。
“森に拒まれていない”。
そんな感覚。
「……精霊族」
思わず呟く。 カゲツは振り返らない。 ただ静かに奥へ進んでいく。 森の奥へ進むほど、異常は強くなっていた。
木々が枯れている。 魔物の死骸。 荒れた地面。
だが奇妙なことに。 強い魔物の気配だけが、綺麗に消えていた。
「……喰われてるな」
カゲツが静かに言う。 しゃがみ込み、地面へ触れる。
「何にです?」
「まだ分からん」
だが。 嫌な気配だった。 森そのものが怯えている。
そんな感覚。 その時だった。
ゾワリ――。
空気が揺れる。 ギルド職員の顔が青ざめた。
「っ!?」
森の奥。 巨大な影が動いた。 木々より大きい。 黒い毛皮。 異様な赤い目。
そして。 全身から漏れ出る濁った魔力。
「な、なんだあれ……!」
上位種。 それも普通ではない。 森の空気そのものが歪んでいた。 獣が低く唸る。
地面が震えた。 ギルド職員が腰を抜かす。
「む、無理だ……!」
だが。 カゲツだけは静かだった。
木刀を握る。 その瞬間。 森の空気が僅かに変わる。
風が止む。 木々が揺れる。
まるで。 森そのものが、銀髪の精霊族へ視線を向けたようだった。
「……落ち着け」
静かな声。 誰へ向けた言葉なのか。
獣か。 森か。 それとも、自分自身か。
次の瞬間。 黒い巨獣が地面を砕きながら突進する。
速い。 普通の冒険者なら反応すら出来ない。
だが。 カゲツは動かなかった。 ただ。 一歩だけ前へ出る。
そして。 木刀が振られた。
――静かだった。
轟音も。 派手な魔力も無い。
だが。 巨獣の身体が、一瞬で横へ吹き飛ぶ。
「――え?」
ギルド職員の声が漏れる。 木々を砕きながら、巨獣が転がる。 あり得ない。 上位種だ。 それを木刀一本で。
しかも。 何が起きたのか分からなかった。 カゲツは静かに木刀を下ろす。 その銀髪が、風に揺れていた。
「……まだ荒れている」
穏やかな声。 その瞬間。 森の奥から、更に濃い気配が現れる。 空気が軋む。 ギルド職員の顔が凍り付いた。
「ま、まだいるのか……!?」
だが。 カゲツは静かに奥を見る。
そして。 ほんの少しだけ目を細めた。
「……ようやく、本体か」
その声は、不思議なほど静かだった。
空気が重い。 ギルド職員は、まともに息も出来なくなっていた。
魔力。 圧。 ただ存在しているだけで、本能が警鐘を鳴らす。
「……う、そだろ……」
震える声が漏れる。 木々の奥。 ゆっくりと“それ”が姿を現した。
巨大だった。 黒い外殻。 歪に膨れた肉体。
獣とも虫ともつかない異形。 赤黒い魔力が、煙のように漏れ出している。 周囲の木々が腐っていた。
根のような触手が地面へ食い込んでいる。
「こんなの……」
ギルド職員の顔から血の気が引く。
「《蝕森獣グラヴォル》……!?」
その名を聞き。 カゲツが静かに目を向ける。
「知っているのか」
「災害指定候補です……!」
掠れた声だった。
「まだ完全に災害級認定はされてませんが……」
普通の上位種ではない。 森を侵食し、周囲の魔力を喰らいながら成長する変異個体。
放置すれば、本当に災害級へ至ると言われている。
「なんでこんなのが王都近くに……」
職員の声が震える。
一方。 カゲツは静かにグラヴォルを見ていた。
「……森を喰っているのか」
ぽつりと呟く。 異形が咆哮した。 森が震える。 空気が裂ける。 その瞬間。 ギルド職員は、膝から崩れ落ちた。
「っ……!」
立っていられない。
だが。 カゲツだけは違った。 静かに木刀を構える。
すると。 風が変わった。 森の空気が、ほんの少しだけ澄む。 グラヴォルが低く唸る。
まるで警戒しているようだった。
「……怖がるな」
カゲツが静かに言う。
「もう終わる」
次の瞬間。 グラヴォルが突進した。 地面が砕ける。
木々が吹き飛ぶ。 圧倒的な質量。
だが。 カゲツは動かない。 ただ、一歩。 静かに踏み込む。
――森が、揺れた。
ギルド職員の目には、そう見えた。 木々。 風。 空気。 全てが、一瞬だけ銀髪の精霊族へ流れた気がした。
「――――」
木刀が振られる。 音は、小さい。
だが。 次の瞬間。 グラヴォルの巨体が、斜めに裂けた。
「……え?」
ギルド職員の思考が止まる。 グラヴォルが崩れる。 赤黒い魔力が霧散していく。 あり得ない。
災害指定候補だ。 それを、木刀で。
しかも。 あまりにも静かに終わった。 カゲツはゆっくり木刀を下ろす。 その銀髪へ、森の風が触れていた。
「……静かになったな」
穏やかな声。 先程までの禍々しさが消えている。 森の空気が戻り始めていた。
その時だった。 グラヴォルの死骸が、微かに崩れ始める。 濁った魔力が漏れ出す。
カゲツは静かに近付き――。
何もない空間へ手を伸ばした。
次の瞬間。 空間が揺らぐ。
「っ!?」
ギルド職員が目を見開く。 グラヴォルの死骸が、音もなく消えた。 まるで空間へ呑み込まれたように。
「い、今のは……」
「収納だ」
カゲツは普通に答える。 だが。 職員は完全に固まっていた。 高位収納術。
それも、この規模。 災害指定候補の魔物を丸ごと収納した。 普通ではあり得ない。
カゲツは気にした様子もなく周囲を見る。 森が静かだった。 風が流れている。
先程までの淀みが、少しずつ消えていく。
「……落ち着いたか」
ぽつりと呟く。
その瞬間。 森の奥から、風が吹いた。 優しい風だった。 ギルド職員は思わず息を呑む。
まるで。 森そのものが、この精霊族へ礼を言っているようだった。
一方。 カゲツは静かに空を見上げる。
そして。
「帰るか」
穏やかに言った。 まるで、散歩でも終えたかのように。




