19話 雨音
雨は夜になっても止まなかった。 休憩小屋の屋根を、一定の調子で雨粒が叩いている。
ざぁぁ……という音が、静かに空間を満たしていた。 商人たちは既に眠り始めている。
冒険者たちも、交代で見張りをしながら休息を取っていた。 焚き火の火は小さい。 湿気のせいで薪も燃えにくいらしい。
「……静かだな」
クルトがぽつりと呟く。 壁際へ座り、湯を飲んでいた。 フィナは毛布へ包まりながら、少し眠そうにしている。
「たまにはこういう日も悪くないですね」
「まぁ、魔物に追い回されるよりはな」
クルトが苦笑する。 その視線の先。 カゲツは窓際へ座ったまま、外を眺めていた。 相変わらずだった。
「ほんと雨好きだなぁ……」
ルークが呆れたように言う。 カゲツは少しだけ視線を向けた。
「音が落ち着く」
「俺は湿気嫌いだ……」
「髪跳ねてますもんね」
「うるせぇ」
小さな笑いが起こる。 穏やかな空気だった。
その時。 不意に、カゲツの耳が僅かに動く。
「……?」
「どうした?」
バルクが気付く。 カゲツは少しだけ目を細めた。
「歌か」
「歌?」
皆が耳を澄ます。 すると確かに。 雨音の向こうから、微かに歌声が聞こえていた。 優しい声だった。
子守唄のような。 どこか懐かしい旋律。
「外か?」
クルトが窓を見る。 だが姿は見えない。 雨が強すぎるのだ。
その時。
「あぁ、あれか」
年配の商人が口を開いた。
「知ってるのか?」
「この辺じゃ時々聞こえるんだよ。“雨歌”って呼ばれてる」
「雨歌?」
商人は頷いた。
「昔からある話さ。雨の日になると、どこからか歌声が聞こえるってな」
「なんだそれ。怖ぇな」
ルークが顔を顰める。 だが商人は笑った。
「別に害は無ぇよ。むしろ聞こえた日は安全だって話だ」
「安全?」
「旅人を導く精霊の歌だとか、そんな昔話さ」
その言葉に、何人かがカゲツを見る。 銀髪。 精霊族。
最近その手の話題が増えていた。
「なんだその目は」
カゲツが静かに言う。
「いや別に?」
「精霊様の仲間かなーって」
「違う」
即答だった。 クルトが笑う。
「最近そればっかだな」
だがその時。 フィナがふと小さく呟いた。
「……でも、少し分かるかもしれません」
「何がだ?」
「カゲツさんって、静かな場所似合いますし」
雨音。 夜。 窓際。 銀髪の青年。 確かに妙に絵になっていた。 カゲツ本人は理解していない顔だったが。
「そういうものか?」
「そういうもんです」
フィナは笑う。
その時。 外で風が吹いた。 雨が窓を叩く。 だが歌声は消えない。 優しく。 静かに。 夜へ溶け込むように続いていた。
カゲツはその音を聞きながら、ふと昔を思い出す。
前世。 雨の日。 道場の軒先。 木刀を振る音。 弟子たちの笑い声。 老いた自分。
そして、最後に見た空。
「……懐かしいな」
ぽつりと漏れる。 誰へ向けた言葉でもなかった。 だがクルトは何となく聞かなかった振りをした。
カゲツには、時々こういう瞬間がある。 遠くを見るような目。 今ではないどこかを見ている顔。
それが少しだけ寂しそうで。 同時に、酷く静かだった。
「カゲツ」
バルクが低く声を掛ける。
「なんだ」
「お前、昔どんな人生送ってきたんだ?」
小屋の空気が少し静かになる。 クルトもフィナも視線を向けた。 カゲツは少しだけ考える。
そして。
「……長かった」
静かな返答。 それだけだった。
だが。 その一言だけで、誰も軽く聞き返せなかった。
雨音が続く。 歌声もまだ聞こえている。 夜は静かに更けていった。
百年を生きた剣鬼は、雨の向こうを眺めながら、ただ静かに茶を飲んでいた。
翌朝。 目を覚ますと、雨は止んでいた。
休憩小屋の外には、澄んだ空気が広がっている。 草には雫が残り。 木々は朝日に照らされて輝いていた。
「晴れたぁ……」
クルトが外へ出ながら伸びをする。
「やっと進めますね」
フィナも少し嬉しそうだった。 雨の足止めは、思った以上に身体へ疲れが溜まる。 特に商隊は人数も多い。
狭い小屋で一夜を過ごすのは中々大変だった。
一方。 カゲツは既に外にいた。
小屋近くの木へ凭れ、静かに空を見ている。 雨上がりの風が、銀髪を揺らしていた。
「朝からまた外か」
バルクが苦笑する。
「空気が綺麗だ」
「まぁ、それは分かる」
雨の後独特の匂い。 湿った土。 濡れた草木。 確かに嫌いではない。
その時。 カゲツの足元へ、小鳥が降りてくる。
「……ん?」
クルトが目を丸くした。 逃げない。 それどころか、小鳥は普通にカゲツの近くを歩いていた。
「なんで懐いてんだ?」
「知らん」
カゲツ本人も分かっていない顔だった。 フィナが小さく笑う。
「精霊族だからじゃないですか?」
「便利な言葉だな、それ」
「実際便利ですし」
小鳥は少しだけ鳴くと、そのまま飛び立っていった。 カゲツはそれを静かに見送る。 穏やかな朝だった。
朝食を終えると、商隊は再び出発準備へ入った。 濡れた荷の確認。 馬具点検。 車輪の状態確認。
人数が多い分、準備にも時間が掛かる。
「よし、問題なし!」
エドガーが声を上げる。
「では、本日も出発します!」
商隊が動き始める。 ぬかるみは残っているが、昨日ほど酷くはない。 空も青かった。
街道には、雨上がり特有の静けさがある。 鳥の声だけが響いていた。
「なんか平和すぎて逆に怖ぇな」
ルークがぼやく。
「お前は少し休め」
バルクが呆れる。 だが実際、ここ数日は濃すぎた。
異常個体。 襲われた村。 巨大熊。 普通の護衛依頼ではまず起きない。
だからこそ、今の静けさが不思議だった。 その時。
「カゲツさん」
フィナが隣へ来る。
「なんだ」
「昨日の歌、まだ気になってるんですか?」
カゲツは少しだけ空を見る。
「……少しな」
あの歌声。 どこか懐かしかった。 精霊の歌。
そう呼ばれていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「綺麗でしたよね」
「ああ」
短い返答。 そして少しだけ目を細める。
「前世でも、歌は嫌いではなかった」
「へぇ」
クルトが興味深そうに振り返る。
「どんなの聞いてたんだ?」
カゲツは少し考える。 前世。 戦争の時代。 だが、歌が消えた訳ではない。 祭りも。 子守唄も。
道場帰りに聞こえる民謡もあった。
「静かな歌だ」
ぽつりと呟く。
「人が生きている歌だった」
その言葉に、フィナは少しだけ優しく笑った。
「カゲツさんらしいですね」
「そうか?」
「はい」
クルトも頷く。
「なんかさ」
「なんだ」
「お前って、“生きてる人”見るの好きだよな」
風が吹く。 カゲツの銀髪が揺れた。 その問いに、カゲツはすぐには答えなかった。
ただ。 街道を歩く商人たちを見る。 笑う冒険者。
馬車で眠る子供。 穏やかな空。
そういうものを静かに眺めてから。
「……そうかもしれんな」
とても穏やかな声だった。 百年。 戦い続けた人生。
だからこそ今は。
誰かが笑って生きている景色が、少し眩しく感じるのかもしれない。
街道は続いている。 王都までは、まだ遠い。
だがその旅路は、確かにカゲツの中で何かを変え始めていた。




