10話 金貨と静かな夜
巨大狼の解体が終わったのは、日が完全に沈んだ頃だった。 ローヴェンの夜は静かだ。
昼間の喧騒が嘘のように落ち着き、石畳には月明かりが淡く落ちている。
だが、ギルド裏手の解体場だけは未だ騒がしかった。
「おい、こっち運べ!」
「牙傷付けんなよ!」
「魔石は別だ!」
解体師たちが慌ただしく動き回っている。 その中央には、巨大狼の解体素材が並んでいた。
黒い毛皮。 鋭い牙。 太い骨。
そして、拳大ほどもある黒銀色の魔石。 どれも異常な質だった。
「……こりゃ本当に化け物だな」
年配の解体師が低く呟く。 周囲の解体師たちも頷いていた。
「毛皮の密度が普通じゃねぇ」
「魔石の純度も異常だぞ」
「王都クラスで売れるぞこれ……」
そんな声が飛び交う。
一方。
その少し離れた場所で、カゲツは静かに夜空を見上げていた。
まるで他人事だった。 クルトが呆れた顔で近付いてくる。
「……なんでそんな平然としてんだよ」
「何がだ」
「いや全部だよ」
クルトは頭を掻く。
「普通、上級異常個体倒したらもっとこう……達成感とかあるだろ」
「そういうものか?」
「そういうもんだよ!」
カゲツは少し考える。 前世では、もっと多くの死を見てきた。
人が死ぬ。 仲間が死ぬ。 敵が死ぬ。 だからだろうか。
一つの勝利に、大きな感情を抱くことが少なくなっていた。
「……あまり慣れるものでもない」
ぽつりと呟く。
「ん?」
「命のやり取りは」
静かな声だった。 クルトは数秒だけ黙る。 やはり時折、この男は妙に老いて見える。 若い見た目なのに。
長い時間を生きてきた者の空気がある。
その時だった。
「おーい!」
フィナが走ってくる。 その後ろにはヴァルド支部長もいた。
「査定終わったぞ」
「早いな」
「解体師共が興奮して寝る気配無ぇからな」
ヴァルドが苦笑する。 そして、小袋を放って寄越した。
カゲツが受け取る。 中から金属音が響いた。
「報酬だ」
「多いのか?」
「多いなんてもんじゃねぇ」
クルトが横から覗き込み、目を剥く。
「おい待て、金貨入ってるぞ!?」
「金貨?」
「普通の冒険者が簡単に見る額じゃねぇよ!」
フィナも驚いていた。 上級異常個体。 しかも素材状態も極めて良好。 その価値は莫大だった。
だが。 カゲツは袋を少し見て、それから普通に頷いた。
「そうか」
「反応薄っ!?」
クルトが叫ぶ。
ヴァルドも呆れていた。
「お前、本当に金に興味無いな」
「必要なら使う」
「貴族みてぇなこと言うな……」
カゲツには実感が薄かった。 前世では百年生きた。
金が必要なことも理解している。
だが、執着は無い。 食べて、眠れて、旅ができれば十分だった。
その時。 ヴァルドが少し真面目な顔になる。
「カゲツ」
「なんだ」
「お前、しばらくローヴェンにいる気はあるか?」
クルトとフィナが振り返る。 カゲツは少し考えた。
「急ぐ旅ではない」
「なら丁度いい」
ヴァルドは腕を組む。
「最近、森の異変以外にも妙な話が増えてる」
「妙な話?」
「魔力汚染の噂だ。しかもローヴェン周辺だけじゃない」
空気が少し変わる。 カゲツの目が細められた。
「広がっているのか」
「まだ断定はできねぇ。だが嫌な感じがする」
ヴァルドは低く続ける。
「だから、お前みたいな存在が街にいるのは助かる」
「買い被りだ」
「いや、買い被ってねぇよ」
クルトが真顔で言った。
「むしろまだ足りないくらいだ」
フィナも小さく頷いている。 カゲツは少しだけ困ったように目を伏せた。
こういう扱いには慣れていない。 前世では剣鬼と呼ばれたこともある。
だが、それはただ剣を振り続けた結果だ。 特別だと思ったことは無かった。
「……考えておこう」
「それで十分だ」
ヴァルドは頷いた。 そして踵を返す。
「今日は休め。ギルドでもお前の話で持ち切りだ」
「目立つな」
「今さらだ」
クルトが苦笑した。 月兎亭へ戻る頃には、夜も更けていた。
店内は既に落ち着いている。 酒を飲んでいる客も少ない。 マリアがカウンター越しに顔を上げる。
「お、帰ったかい」
「ああ」
「無事じゃなさそうな空気だけどねぇ」
マリアは苦笑し、それからクルトたちを見る。 二人とも疲れ切った顔だった。
「何があったんだい?」
「聞いたら絶対驚く」
「もう驚く準備はできてるよ」
クルトは遠い目をした。
「上級異常個体をカゲツが倒した」
沈黙。 マリアの動きが止まる。
「……は?」
「しかも空間収納持ち」
「…………は?」
カゲツは静かに席へ座った。
「何か食べ物はあるか」
「いやまず説明しな!?」
マリアが叫ぶ。 その反応に、クルトとフィナが思わず笑った。
ようやく少しだけ緊張が解ける。 カゲツはそんな二人を見て、小さく目を細めた。
悪くない。 こういう時間も。 前世では、あまり無かった。
戦いばかりだった人生。 だからだろうか。
こうした静かな夜が、妙に心地よく感じられる。
窓の外では、月が静かにローヴェンを照らしていた。
その光を眺めながら、カゲツは静かに茶を口へ運ぶ。
長い旅の始まりとしては。 悪くない夜だった。
翌朝。
ローヴェンの空は澄んでいた。 窓から差し込む朝日が、静かに部屋を照らしている。 カゲツはゆっくりと目を開けた。 前世からの癖で、目覚めは早い。
百年近く染み付いた習慣というものは、転生しても簡単には消えないらしい。
静かな部屋だった。 月兎亭の客室は思っていたより落ち着く。
木の香り。 微かな朝の冷気。 遠くから聞こえる街の音。 カゲツはゆっくりと身体を起こした。
ふと、自分の手を見る。 白い。 若い。 未だに不思議な感覚だった。 前世では皺だらけだった手。
剣を振り続け、傷だらけだった身体。 だが今は違う。
若く。 軽い。 そして、恐らく老いることすらほとんど無い。
「……永命、か」
ぽつりと呟く。 ヴァルドの言葉を思い出す。
“歴史の向こう側”。
確かに、そうなのかもしれない。 百年ですら長かった。
なら、その先はどうなるのだろう。 二百年。 五百年。
千年。
自分は何を見て、何を思うのか。 そこまで考え、カゲツは小さく息を吐いた。
「考えても仕方ないか」
今はまだ、旅が始まったばかりだ。 静かに身支度を整え、一階へ降りる。 月兎亭の朝は早かった。
既にマリアが厨房で動き回っている。 香ばしい匂いが広がっていた。
「あら、今日は早いねぇ」
「昔から朝は早い」
「年寄りみたいなこと言うね」
「年寄りだからな」
マリアが吹き出した。
「その見た目で言われると笑うしかないよ」
カゲツは静かに席へ座る。 窓際。 自然とそこを選んでいた。
外を眺められるからだろう。 街の人々が動き始めている。 店を開ける者。 掃除をする者。 眠そうに歩く冒険者。
それぞれの朝がある。
「ほら、朝飯だよ」
マリアが皿を置く。 焼いたパン。 肉。 温かなスープ。
「美味そうだ」
「美味いよ」
カゲツは静かにスープを口へ運ぶ。 温かい。 それだけで、少し落ち着く。 前世でもこういう時間は嫌いではなかった。
ただ、戦争の時代は静かな朝など少なかったが。
「……平和だな」
ぽつりと漏れる。 マリアが少しだけ目を細めた。
「坊や、時々変なこと言うねぇ」
「そうか?」
「まるで戦場でも見てきたみたいだ」
カゲツは少しだけ止まる。 そして小さく笑った。
「似たようなものは見てきた」
嘘ではない。 だがマリアは、それ以上追及しなかった。
人には事情がある。 長く宿屋をやっていれば、それくらい分かる。
その時だった。 扉が勢いよく開く。
「カゲツ!」
クルトだった。 後ろにはフィナもいる。
「朝から騒がしいな」
「騒ぐだろ!」
クルトが机へ手をつく。
「ギルドが大変なことになってる!」
「?」
カゲツは首を傾げた。 フィナが苦笑する。
「昨日の件、街中に広まっちゃって……」
「早いな」
「そりゃ上級異常個体討伐ですから!」
クルトが叫ぶ。
「しかも精霊族! 空間収納! 意味分かんねぇ強さ!」
「全部広まってるのか」
「広まるよ!」
マリアが横で笑っていた。
「昨夜だけで何人も聞きに来たよ。“銀髪の化け物みたいな冒険者がいる”って」
「化け物ではない」
「そこじゃないと思うけどねぇ」
クルトは頭を抱える。
「今ギルド、依頼人まで来てるぞ」
「依頼人?」
「お前を指名したいって奴ら」
カゲツは少し考える。 まだ冒険者になったばかりだ。 それなのに指名依頼とは、不思議な話だった。
「断れるのか?」
「断れるけど……ヴァルドさんは一回来て欲しいって」
カゲツは静かに茶を飲む。 急ぐ旅ではない。 なら、行くのも悪くない。
「分かった」
「早っ」
「別に嫌ではない」
クルトとフィナが顔を見合わせる。 本当に変わっている。 普通なら名誉だ何だと騒ぐ。
だがカゲツは違う。 必要だから動く。 ただそれだけ。
その時。 月兎亭の窓際へ、小鳥が一羽止まった。
青い羽を持つ小さな鳥。 そのままカゲツの肩へ乗る。
「……またか」
カゲツが小さく呟く。 鳥は嬉しそうに鳴いた。
フィナが目を輝かせる。
「すごい……!」
「完全に懐かれてるじゃねぇか……」
クルトも引き気味だった。 マリアは笑っている。
「本当に精霊様みたいだねぇ」
カゲツは肩の鳥を見る。
小さな命。 温かい。
その感触に、ほんの少しだけ目を細めた。
「……悪くない」
窓の外では、朝日がローヴェンを照らしていた。
街は今日も動き始める。 そしてカゲツもまた。
静かに、この世界を歩いていくのだった。




