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足利十三代将軍・義輝の隠居宣言は当初御所の中でも質の悪い冗談だと思われていた。
しかし当の本人はそのための動きを始めていた。
(千歳丸も決して悪い人材ではない、でもなあ……)
なんせ弟がものの見事に失敗してるのを見せられてるので任せることに不安があった。
吉良・今川から任せるに足る人材を連れて来るにしても、二年前の桶狭間で海道一の弓取りと呼ばれた当主を失った今川の混乱を受けて吉良家も大混乱の渦中にある。
一番任せたいと思うのは織田信長か徳川家康だが、任せるに足る根拠がまだ少ないのが難点か。
極端な話、全部適当に丸投げしてしまうと言う手もあるがそれでは彼岸の父に叱られてしまう。
とりあえず、聞いておくべき相手がいることには変わりない。
「まずは南都に文を出してみるとするか」
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そんな訳で、永禄5年(1562年)秋。
奈良・一乗院の一角に将軍・義輝からの文が届いたのは紅葉の美しい日の事であった。
「覚慶様宛の文が届きました」
その文を受け取ったのは一乗院覚慶、かつては千歳丸・歴史においては足利義昭と呼ばれる義輝の弟であった。
南都・奈良の誇る名刹の主として修業に明け暮れる日々を送っていた一乗院覚慶はその文が兄からのものであると気づくと「そうか」と穏やかに受け取った。
元々兄弟仲はそこまで悪いものではないし、時折手慰みに書いたらしい文を貰うことはよくあった。
なんせ兄は武家の棟梁である。他愛もない話に付き合ってくれるものがそう多くないのだろうと思ったし、小坊主の頃は兄や母から来る手紙が心の支えでもあった。
手紙の内容自体は実に他愛のないもので、京の様子や母・慶寿院のことなどがつらつらと書かれている。
そして手紙の後半部でこんな話がつづられていた。
『もし私が父のように武家の棟梁の責を担えぬ体になったとして、誰が代わりに引き継いでくれるだろうと思うときがある。足利の家や天下国家を憂いてすべての責務を背負い立つものはいるのだろうか?』
その文を読み終えての感想は、子を失った事で兄は随分と気落ちしているのだなという事だった。
嫡男を亡くしたことは母からの手紙で知ってはいたがそのような事を考えるところまで至っていたとは思わなかった。
仏門に在る己には想像する他ないが、子を亡くす親の哀しみだけは伝わってくる。
返事を書くため筆を執って一番に書いたのは兄への慰めであった。
そして手紙はあの疑問への返事になる。
『兄上は善き将軍にございます、ですのできっとその志を継ぐ者が現れましょう。私はその者を陰ながら支えて参ります』
それは兄の隠居宣言を知らなかったからこそ出てきた答えでもあった。
後世において歴史学者はよく、こんな話をする。
「もし覚慶が兄の隠居宣言を知っていたら、陰ながら支えると答えず自分が継ぐと答えたのではないか?」
「知っていても知らなくても陰ながら支えると書いたと思いますよ」
この問いに答えはない。
けれどもこの答えによって、彼は最後の将軍・足利義昭にならずに済んだことだけは間違いのない事だった。




