第八話:因果の崩壊
ドクン。
地下数千メートルから響く鼓動が、俺の右目の暗黒と共鳴する。
視界はもはや二層に分かれていた。左目は現在を、そして焦点の合わない右目は「五秒後の絶望」を克明に映し出す。
「消えなさい、不確定要素」
神官の男が腕を振り下ろす。
物理法則を無視して加速する数千の水の針。現在(左目)ではまだ空中に浮いているそれが、未来(右目)ではすでに俺の全身を蜂の巣にしていた。
(――来る。だが、そこじゃない)
俺は一歩も動かない。
リコが「逃げて!」と叫ぶ声を、加速する意識の果てで聞き流す。
俺がジャックしたのは、自分を貫く「水の針」ではない。その針が描く「軌道」という名の情報の線、すなわち因果そのものだ。
座標の書き換え
「……ジャック・アウト」
俺が呟いた瞬間、右目の暗黒が奔流となって溢れ出した。
未来で俺を貫いていたはずの針が、着弾の直前、まるで磁石の反発を受けるように捻じ曲がる。
――ズガガガガガガッ!
針は俺を避けるように円を描き、背後の壁に突き刺さった。一本たりとも、俺のスーツには触れていない。
「なっ……未来を変えたというのですか!? この至近距離で!」
神官の男が初めて動揺を見せる。縫い合わされた瞼から、真っ黒な涙が溢れ出した。
だが、代償はすぐにやってきた。
「が、はっ……!」
右目から熱い鮮血が噴き出す。
確定した未来をねじ伏せる行為は、脳のニューロンを力任せに引き千切るに等しい。
意識が混濁する。現在と未来、自分と他人の境界が溶け、周囲の物質が情報のコードとして見え始める。
「預言者」の拒絶
「リコ……今だ。俺を、この下の『心臓』に繋げ……!」
「ダメだよおじさん! 今のあんたの脳波、もう人間が維持できる数値じゃない! これ以上やったら、あんたの意識はバラバラになって、ネットの海に溶けちゃう!」
リコは泣きながらキーボードを叩いていた。
彼女の画面には、俺の脳が「預言者」のメインサーバーと勝手に同期を始めている警告が赤く点滅している。
だが、俺には聞こえていた。
街の下で眠る「何か」の、巨大なすすり泣きを。
それは、管理局によって部品として埋め込まれた、数千人もの「異能者の残滓」だった。
「繋げろ……! あいつらを……自由にする……!」
俺の左手が、リコのデバイスに触れる。
その瞬間、俺の意識は下水道を抜け、コンクリートを透過し、地殻を突き破って、街の最深部へとダイブした。
崩壊の始まり
そこにいたのは、機械仕掛けの胎児だった。
巨大なカプセルの中に浮かぶ、無数の脳と神経。それがこの街の全交通、全経済、全個人のプライバシーを処理する「預言者」の正体。
俺は、その巨大な意識の塊(塊)を丸ごとジャックした。
『あ……あああ……あああああ!』
数千人の絶叫が、俺の脳内に直接流れ込む。
管理局が積み上げてきた因果の塔が、根底から崩れ始める。
地上では、街中の電光掲示板が真っ赤に染まり、自動運転の車両が一斉に停止した。
管理局のビルを支えるシステムが、自ら「エラー」を宣言して自己崩壊を開始する。
「貴方は……何をしてくれたのですか……! 世界の調和を……っ!」
神官の男が狂ったように叫び、崩れゆく天井の下で瓦礫に飲み込まれていった。
空白へ
「おじさん! 佐藤! 戻ってきて! 離しちゃダメ、自分を繋ぎ止めて!」
リコの声が、遠い宇宙の彼方から聞こえる気がした。
俺の視界は、もう何色でもなかった。
右目には、管理局が崩壊し、人々が自由になる未来が見える。
左目には、力なく倒れる自分の体と、それを抱きしめるリコの姿が見える。
そして、そのどちらでもない「三番目の視界」が、深い闇の中から俺を呼んでいた。
「……有給、延長しすぎ……たな……」
俺の意識は、深い、深い底へと沈んでいった。
つづく(第九話:再起動の朝)




