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第九話:再起動の朝

頬をなでる風の冷たさで、俺は目を覚ました。

 コンクリートの硬い感触。鼻を突く潮の香りと、錆びた鉄の匂い。

 ゆっくりと上体を起こすと、そこは海に面した古いコンテナ埠頭だった。

 空は白み始め、夜と朝の境界線が曖昧に溶け合っている。

「……起きた? おじさん」

 すぐ傍らで、リコが力なく座り込んでいた。

 彼女の膝の上には、液晶が割れ、火花を散らして沈黙したノートPC。彼女自身の顔も、煤と涙の跡でひどい有り様だった。

「ここは……?」

「横須賀の廃港。あの地下からあんたを引っ張り出すの、死ぬかと思ったんだから。……感謝してよね」

失われたもの、得たもの

 俺は自分の顔に手をやった。

 右目は、もう疼かない。瞼を開けても、そこには光も、未来の残像もなかった。

 ただの、空っぽの闇。

 だが、左目で見える「現在」の解像度が、以前とは根本的に異なっていた。

 

 空中を舞う塵の動き、遠くを走る船のエンジン音の振動、そして――

 リコの背後に漂う「電波」の波形までもが、ジャックせずとも直接脳内に視覚化されている。

「管理局は……どうなった」

「壊滅、とはいかないけど。中枢サーバーの『預言者』が自己崩壊したせいで、あいつらの監視ネットワークは完全に死んだよ。今頃、街は大混乱だろうね。……でも、これで少なくとも『掃除屋』に即座に見つかることはなくなった」

 リコがスマホを取り出す。

 画面には、機能不全に陥った都市のニュースが流れていた。だが、その情報の隙間に、見覚えのある「ノイズ」が走っている。

「『死角』にいた同類たちも、みんな散り散りに逃げた。……あんたが、あいつらの枷を外したんだよ、佐藤」

境界線の向こう側

 俺は立ち上がり、水平線から昇る朝日を見つめた。

 右目の暗黒の中に、微かに「音」が聞こえる気がした。

 それはかつて聞いたことのない、電子のさざめきのような、あるいは数千人の自由な呼吸音のような。

 ふと、視界の隅に一匹の「カモメ」が止まった。

 俺は無意識に、その視界へ滑り込もうとする――。

「……やめておきなよ。これ以上能力を使ったら、今度こそ脳が溶けちゃうよ」

「わかっている。……だが、もう戻れないんだ」

 かつての俺は、視界を盗むことで世界から自分を隠していた。

 今の俺は、世界そのものと繋がってしまった。

 朝日に照らされたリコが、少しだけ大人びた表情で俺に手を差し出した。

「これからどうするの? 死んだはずの佐藤悟さん」

 俺はその手を取り、グッと力を込めて立ち上がる。

 右目の暗黒は、もう恐怖ではない。

 それは、これから俺が描くべき「新しい未来」のための、真っ白なキャンバスのようなものだ。

「そうだな。まずは……美味いコーヒーでも飲みたい。有給休暇は終わったが、今日から始まるのは長い『出張』になりそうだ」

終わりの始まり

 二人の影が、朝焼けの街へと歩き出す。

 

 都市の喧騒が戻ってくる。

 信号機が再び点り、人々が駅へと急ぎ、電車が走り出す。

 

 だが、そのすべてを監視していた「目」はもういない。

 代わりに、雑踏の中を歩く一人の男の「左目」が、世界の綻びを静かに見つめ続けていた。

「……ジャック・イン」

 俺の呟きは、誰に届くこともなく、風の中に消えた。

(第一部・完)

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