07:家出
まるで走馬灯のように、私は過去のことを思い出していた。
初めてのお茶会の時も、婚約者同士のお茶会の時も、お祭りも、お見舞いの時も。ずっとエイミーの方が私よりもリチャード様の婚約者らしかったじゃないか。
あら……? もしかしてずっとエイミーとリチャード様は想いあっていたのかしら。
どうして話してくれなかったのかと悲しく思っていたが、きっと私が鈍感すぎて駄目だったのね。二人のためにも、そして自分のためにも……もっと早く気がつくべきだったのにと乾いた笑いが出る。
ぽろりと私の瞳から涙が溢れ出る。止めようと思ってもどんどん溢れてきて、涙に溺れてしまいそうだった。
穏やかで優しい日常が崩れてしまったことに対する悲しみ。大切な婚約者と妹からの信頼を得られて居なかった事への虚しさ。そして2人に対するほの暗い感情と絶望が広がっていく。
沢山ある刺繍の失敗作のハンカチで涙を乱暴に拭うが、しばらく止まりそうになかった。
「……私はこれから、どうすればいいんだろう」
確かに今は貴族の間で婚約破棄がかなり多くなってきている。そのため今では婚約破棄された令嬢や令息も昔に比べたら次の婚約を結びやすくはなっているが、それでも高位貴族になればなるほど社交界では傷物扱いだ。
それもブラウン公爵家から婚約解消を打診されてしまい、次の婚約相手が実の妹だと知られればゴシップ好きの貴族達の格好のネタになるだろう。
元々私には良くない噂が沢山あったので、これ幸いと背びれ尾びれがついて回り大変なことになってしまうだろう。
これから社交の場で今まで以上に嘲笑めいた嫌な視線や陰口が増えるのかと思うと、今から胃が痛くなりお腹をさする。
そして傷モノとなった私を売れ残させまいと親が必死になって次に持ってくる縁談がいいものだとは、とても思えない。
それに私はもう結婚適齢期だ。私と同年代の普通の殿方は既に婚約者がいる。そのためかなり年齢の離れた方の後妻や、例え同年代でも素行や何か問題のある方になる可能性が高い。きっとまともな結婚は望めないだろう。
一度婚約解消されようと貴族の娘はその家の政略の駒である。どんなに酷い婚約話でも娘の私に拒否権は無い。
いっそ身を立てるために仕事をしたり、一人で生きる道にも憧れたりもするが、そんなことはこの国で貴族令嬢に許されはしないのだ。
両親の前でそんなことを口にした瞬間に頬を打たれるだろう。
そもそも、あんなに優しいリチャード様でさえ婚約解消されてしまう私の性格に問題がある。人と話すことが苦手で社交もまともに出来ない。料理はするのに嗜みである刺繍は苦手だ。
このまま運良く他の貴族令息と結ばれることが出来ようと今回の二の舞になるだけだろう。下手したら今回よりももっと酷い結果になるかもしれないと想像すると震えてしまった。
どうして私はこんなに駄目なのだろうと、更に溢れた涙が枕に染み落ちていく。貴族令嬢の役目は社交と、結婚して家を守り、この身に子を宿し血を残すこと。私はそのどちらもまともにこなすことが出来ない不良品だ。
そうして悩み塞ぎ込んでいれば、気が付けば夜になっていた。夕食時にドアがノックされたが食欲がないと言って断った。
今夜は眠れそうにないなと、ぼんやりと窓の外の月を見上げる。
月は私の心情などお構いなしに美しく輝いていた。その光に私は少しだけ慰められたような気がして、もう一度涙を拭った。
うじうじと後ろ向きだった気持ちが晴れ、少しだけ前向きな心持ちになれた気がする。
——そうだ、家を出よう。
思い立ったら吉日、とはどこの国の本に書いてあった言葉だろうか。
私はベッドから飛び起きて、クローゼットの奥に隠しておいた肩掛けカバンを取り出す。
前々からいつかリチャード様に婚約破棄をされるかもしれないと怯えていた。私が婚約破棄され怒り狂った親に家を追い出されてもいいようにと、数年前から用意していた非常用カバンをしっかり抱える。
こっそり貯めていた自分の資金や平民に混じっても違和感の少ないシンプルな装いの服ぐらいしか入っていない。
宝石とかはこの家のものだし、持っていったら母が激怒するだろうから持っていかない。ドレスだって嵩張るし目立つし持っていっても仕方ないだろう。
しかし荷物が少なくても着の身着のまま家を出るよりはいくらかマシだと思う。
これが本当に役立つ日が来るとは……と少し悲しい気持ちになりそうになり、軽く頬を叩く。今は悲しい気持ちに浸っている場合じゃないもの。急がなくては。
私は苦戦しながらも何とか一人でシンプルな装いに着替えることが出来た。建国祭のお祭りに着ていく平民に紛れるための服が役立つなんて。最近は着替えも侍女たちに任せっきりだから難しかった。
また腰まである長い髪を三つ編みにして帽子の中にまとめた。
歩きやすいようロングブーツを履いて、暗い色のフード付きの外套を羽織った。
部屋の全身鏡で自分を見る。いつもの自分の印象と全然違って、今なら何でもできそうな気持ちがしてきた。
それから私が誘拐されたと間違われないように、心配しないで欲しいと書き置きを机の上に置いて、準備は整った。
音を立てないよう最新の注意を立てながら、人がいないのを確認して自分の部屋を出た。私の侍女達に見つかったら確実に連れ戻されてしまうだろう。幸いなことに誰もいないみたいだ。
深夜の屋敷はいつになく静かだ。この見慣れた廊下を歩くのもこれ最後になるのかと思うと、少し寂しく感じた。
運良く誰にも会うこともなく無事に裏口から屋敷の外に出ることができた。警備も緩く、まさか私が家を飛び出すなんて誰も想像していなかったのだろう。
無意識に息を止めていたのか外の澄んだ空気にようやく深く息をついた。
「……本当にごめんなさい。さようなら」
私の小さな呟きは、強い風の音に紛れて消えていった。
今まで普通の貴族令嬢として生きていたため、深夜に一人で外出することなんて無かった。深夜どころか昼間にもない。そのためただ道を歩いているだけでとても緊張してしまう。
私のうるさい心臓の音が周りに反響してしまっているのではないかと錯覚する。不安のまなざしを周りに悟られないように闇に紛れる色の外套のフードを深く被った。歩きやすいブーツは一歩踏みしめるたびに音が響いていく。
私は屋敷から一歩でも離れられるよう急いで足を動かした。多分朝まではゆっくり逃げられる猶予があるはず。
朝になり、いつも通り私を起こすため侍女のミアとユズが部屋に入れば、私が居なくなったことにすぐ気がつくだろう。
一応探さないで欲しいという書き置きを残しておいたが、きっと家出して私が行方不明になったということは家中で騒ぎになってしまう。
こんな役立たずの私でも一応侯爵家の血を引く身のため、すぐに捜索が始まってしまうだろうと思う。娘が居なくなった心配というよりも外聞を気にする親なのだ。
そうしたら私の抵抗なんて意味もなく、話を聞いてもらえることもなくすぐに家に連れ戻されてしまう。そうなったら嫁入りが決まるまで二度と家から出して貰えなくなるだろう。
だからそれまでに遠くへ逃げないといけない。
そうして何時間経ったのだろうか。普段移動には馬車を使っていて、そもそも家に引きこもることが多かった私のひ弱な足は限界を迎え震えていた。
深夜に抜け出してひたすらに歩いていれば、気がつけばもう空が明るくなり始めていた。
息を切らしながら小高い丘をようやく越えて見えたその光景に、私は息を飲んだ。
「綺麗……」
生まれて初めて見る海と朝日がとても美しくて心が震えた。あの屋敷の中でうずくまっていたら一生見ることが出来なかったかもしれないと思うと涙が溢れる。この景色のことは一生忘れないだろう。
貴族としての義務を放りだして家を飛び出した私の判断が間違っていることは分かっているが、それでも勇気を出して良かったと思えた。
そうして朝が来て、とても眠たかったけど朝の空気が美味しいことに気がついた。昨日から初めてのことだらけだなと喜びから笑顔がこぼれた。
心から笑ったのはいつぶりだろうと思いながら。
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