08:パン屋さん
しかしいくら綺麗な景色に感動しても身体の疲れが取れるわけではなかった。
それに長時間歩いたからか、まだ普段の朝食の時間より大分早い時間だがお腹も空いてきた。
疲労から震える足を叱咤して歩き、何とか麓の小さな町に着いた。ここで何か食べるものを買ったり少しだけ休憩しようと息をつく。
店がいくつか並んでいる通りに出て、物珍しさについ視線を忙しなく動かし歩いていく。まだ早朝だからか人は全然いなくて歩きやすい。
ふと通りかかった外観の可愛らしいお店から、美味しそうな匂いがして鼻に漂う。
その匂いについ釣られて足を止めてみれば、どうやらここはパン屋さんのようだ。扉の近くの看板にはオープンと書かれているから、朝早いのにもう開店しているらしい。
一人でお店に入るだなんて初めてで緊張してしまい、通り過ぎようか悩む。しかしこれからは自分ひとりで生きていくのだからこういったことにも慣れないといけない。
震える手を深呼吸をして無視し、パン屋さんの扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
扉を開ければドアベルがなり、焼きたての小麦の香りがふわりと頬を撫でた。
中を見渡す前に店員さんらしき黒髪の無愛想な男性に声をかけられる。パン屋さんに入るのは生まれて初めてで、どう答えるのが正解なのか分からなくて小さく会釈をした。
店内は柔らかな橙色の照明に包まれ、木目調の床や棚が朝日に照らされて優しく輝いている。壁際には焼き上がったばかりのふかふかな丸パンが整然と並び、その隣にはバター香るクロワッサンやクリームがたっぷり乗った甘そうなパンが並べられていた。
見渡せばこじんまりとした店内だが、温かな雰囲気がして素敵なお店だなと思った。そして席数は多くないが座って食べることが出来るスペースもあるみたいだ。ここで買って食べていくのもいいかもしれない。
まだ開店したばかりなのか私の他にはお客さんは居なくて、店員さんも一人しかいない。急かされることなくゆっくり選ぶことが出来そうだと安堵した。
それにしても、初めて見るパンが多くて悩んでしまう。
クロワッサンや丸いパンは分かるが、チーズやソーセージが乗っていたり、揚げられていたり、麺が挟まれていたりと味が想像出来ない物も多かった。砂糖やクリームが乗っていたり、チョコがかかっていたり見ているだけでとても甘そうなパンまである。
どれも良い香りがして、見ているだけで楽しく食欲がそそられお腹が鳴りそうになる。
私は小食だしこれからお金も節約しないと行けないので、この中から一つのパンを選び抜かないといけない。
パンが並んだところを何往復かして悩んだ末に、炙られたチーズが乗ったパンにすることにした。私はチーズが好きだからどうしても目が惹かれたのだ。これを食べないと後悔しそう。
しかしどうやって買えば良いのだろう。まさかそのまま手で取るわけにもいかないだろうし、店員さんを呼ぶのかな。
しかし初めてのお店、しかも知らない人に話しかけるのは私のとても苦手なことである。しかしここで時間をかけすぎるのも良くない。パンを食べて腹ごしらえをしたら、また歩き始めなければならないのだから。
私は疲れではなく緊張から震える足と声をどうにか踏ん張って堪えて、ちゃんと聞こえるように私にとっては大きな声を出す。
「あ、あの、すみません……」
「はい。どうされましたか」
「あ、えと……その……」
店員さんの男性らしい低い声と鋭い目つきに震えてしまう。じっと見つめられて言葉も体も縮こまる。言いたい言葉がまとまらず頭が真っ白になってしまった。やっぱり私には無理だったのかもしれない。
このまま帰ろうかなと思い足を後ろに踏み出そうとした時に、店員さんが口を開いた。
「お客さん、ここに来るのは初めてだよな。うちのオススメはそのカゴに入っているメロンパンだ。チョコが入った奴も美味い。それにまだ早朝だからどのパンも焼きたてだ」
カゴに入ったメロンパンというものを見れば、ころんとした丸いフォルムだが線が入っていて亀のような可愛らしい見た目だった。おすすめと聞いて、食べたいなという気持ちが大きくなる。
「…………あっ、えっと、そのチョコのやつも食べたいです!」
「毎度あり。じゃあそこのトレーにトングで取って乗せてくれ」
「はい! わ、分かりました」
そう言って店員さんが私の背後にあったトレーが重なって置かれた机を指さした。そういったシステムなんだ……と驚きながら、トレーをひっくり返さないよう緊張しつつトングでパンを掴んで乗せた。パンがとてもふかふかで、私の握力でも潰してしまいそうで掴むのが怖かった。
それを店員さんの元へ持っていけば金額を言われたが、よく分からなかった。私はとりあえずお金を入れた袋を取り出す。その中から銀色のコインを取り出してそっと置いてみる。
店員さんはそれを見て驚いた顔をした。
「これしかないのか?」
「えっと、足りませんか……?」
「いや逆。これじゃ多すぎる。うちのパンを買い占める気か?」
「えっ……す、すみません。じゃあこれでは、その、パンは買えませんか……?」
もっとお金の勉強をしておくべきだったと今更ながら唇を噛み締める。持ってきた袋の中には銀と金のコインしかない。金の方が大きいお金だというのは知っていたが、銀のコインでも多すぎるなんて。
確かに侯爵令嬢である私が行く服屋や宝石店で使われるのだから、こういったパン屋で2つのパンを買うならもっと少なくていいのかもしれない。
「困ったな。そろそろお客さんがたくさん来る時間だし……」
そう言って彼はため息を漏らす。買い物すらまともに出来ない自分が情けなくて手を握りしめる。このままだと迷惑になってしまうだろうし、申し訳ないけどパンは諦めよう。
「あの、やっぱりやめ……」
「すまない。朝のピークの時間が過ぎるまで、奥の部屋でちょっと待っていてくれ。そのパンは食べていて良いから」
「えっ、はい……?」
話が良く飲み込めないまま勢いだけで頷けば、トレーを持ったままレジの奥の部屋に押し入れられた。
扉を閉められたところでドアベルの音が聞こえたので、お客さんが入ってきたのだろう。ここでお客さんがいる中、目立ちながら出ていく勇気は無かった。
私は迷った末にここに留まるとこを決めて、部屋に視線を巡らせる。
そこはお店とは少し違った雰囲気の生活感のある、そしてまた温かな部屋だった。店員さんのセンスがいいのかもしれない。窓から日差しが眩しすぎない程度に差し込んでいて、部屋に飾られている花たちは手入れが行き届いているのか生き生きと輝いていた。
可愛らしい赤いチェック柄のテーブルクロスが敷かれた丸いテーブルに近づいて、手にしていたトレーを置く。そして木で出来た丸みの帯びた椅子に座らせて貰う。本当は立って店員さんを待っているべきなのかもしれないが、私の足がそろそろ限界だった。
ようやく足を休めることが出来て安堵から小さく溜息をつく。
とりあえず、私は店員さんに言われた通りここで待つことにした。だってこのまま出て行くとパン泥棒になって捕まってしまうかもしれないし、お客さんがいる中で店員さんと押し問答をするのも申し訳ない。
壁に掛けられた時計のチクタクという音だけが部屋に響く。耳をすませば扉の先から店員さんの声が聞こえてくる。
静かな空間でふいにキュルル、とお腹の音が鳴ってしまいハッと手で抑える。
両親や使用人たちに聞かれたらはしたないと眉をひそめられ叱責されるから、いつもの癖で抑えようと背中を丸めそうになる。
……でもここは家じゃないからいいのか。
そう思うと少し気分が楽になる。安心したら更にお腹空いたな。さっき店員さんに食べていていいって言われたけど、本当にこのパンって食べて良いのかな。
チーズのパンと店員さんにメロンパンと呼ばれていたもの。良い香りでつい見つめていればどんどんお腹が空いていくような感覚になる。
私は迷った末に銀のコインをテーブルにそっと置く。ちゃんと払う意思はあるのだから食べてもいい……よね?
焼きたてのパンを手に取ると、まだ湯気を立てている。指先に伝わるほのかな熱に胸が弾む。
熱々のチーズパンを割ってみると、糸を引くようにチーズが伸びた。ひと口頬張れば、外は香ばしく中はふわりと柔らかい。チーズの濃厚な塩気と小麦の甘みが重なり合い、思わず目を細めてしまう。
美味しい。
普段の食事は毒味があるため冷たくなったものばかり食べていたから、自分で作った料理以外でこうして出来たての物を食べるのは久しぶりだった。私がたまに自分で料理をするようになったのも出来たての物を食べたいからだったなと思い出す。
そんなことを考えながら夢中で口に運んでいれば、お腹が空いていたのもありペロリとすぐに一個食べ終えてしまった。貴族はゆっくり優雅に食事をするものだが、今は誰の目もないただのアデラだから許されるだろう。
普段ならこの大きさのパンであれば一個食べただけですぐにお腹いっぱいになってしまう。しかしこのパンがとても美味しかったからか、もしくは今日は沢山歩いてお腹が空いていたからかメロンパンにも自然と手が伸びる。
こちらもまだほんのり温かいメロンパンを両手で抱えると、表面のざらりとした砂糖が指先にほろほろとこぼれ落ちた。ひと口かじると、表面のクッキー生地がかすかにほろりと崩れ、ふわりと甘い香りが広がる。
それだけではなく食べ進めるとチョコが中に入っていて、程よいビターと甘さのバランスで最後まで飽きずに食べることができた。
我が家の料理人が作るパン以外を初めて食べたが、こんなに美味しいパンがあるなんてと感動してしまう。勿論我が家の料理人達も侯爵家お抱えということもあり、腕は確かで美味しかった。
しかし、パンを食べて感動したのは初めてだった。
そもそもこんなにもパンの種類があることも知らなかった。もう二十年近く生きてきたのに、まだまだ私には知らないことだらけだなと苦笑してしまう。
普段少食なため流石に二個も食べ切れば満腹になり、私は深く息を吐き出す。お腹がいっぱいで動くのは難しそうだが、幸福感で満たされていた。
部屋にある時計を見れば、今はいつもの朝食の時間ぐらいだった。もう私が居ないことがバレただろうか、と胸元をぎゅっと握りしめる。
自分がとても勝手なことをしている自覚はある。今なら引き返して家に帰ることだって出来る。例え怒られ鞭で叩かれ二度と外に出されなくとも、多分殺されることはないだろう。
それでも、たった数時間だけで知らなかった外の世界に触れて感動した。あの屋敷に引きこもって流されるだけの人生では、知らずに終わることも沢山あるだろう。一人は怖いけれど、私はもっとこの世界のことを知りたいし色んなことを感じたい。
私はこの選択を突き進むことを改めて決意した。
これからどこに向かおうか。
ひとまずは店員さんを待ってお礼と謝罪をしなくては……と考えていたところで、猛烈な眠気に襲われる。
普段寝ていた時間にずっと歩いていたので、睡眠不足で眠いのは当たり前である。それにお腹もいっぱいになってしまい眠くならないわけがなかった。
ここで寝てはダメだ、という警鐘が鳴り響く。しかしそれに反して瞼はゆっくりと閉じていった。
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