第十話 宿
衛兵の詰所を出て、田中は教えられた宿へ向かった。
「2つ目の大きい交差点を右やったな」
夜になっても大通りには人がいる。
昼間より数は減っているが、酒場らしい店からは大きな声が聞こえ、明かりのついた店もまだ多い。
日本の夜と比べれば暗い。
建物の窓や店先から漏れる明かりが届かない場所は、そのまま闇に沈んでいる。
少し前まで6人に囲まれていたこともあり、田中は周囲を見ながら歩いた。
「さすがにもう来んやろ」
5人は衛兵に連れていかれ、逃げた1人も探されている。
「飯食っただけやのに、えらい目に遭ったわ」
頬を触る。
最初に不意打ちで殴られた場所だ。
まだ少し痛い。
「いきなりは避けられへんな」
分かっていればどうとでもなった。
実際、その後の攻撃はほとんどまともに受けていない。
だが、何を言っているか分からない相手に突然殴られるとは思っていなかった。
「やっぱ言葉やな」
相手が怒っていることくらいは顔を見れば分かる。
それでも、何に怒っているのかは分からない。
警告なのか。
金を要求しているのか。
ただ酔っ払って絡んでいるだけなのか。
判断できない。
「翻訳の魔道具、欲しいな」
明日ギルドで聞く。
個人でも買えるのか。
いくらするのか。
門やギルド、衛兵の詰所にはあった。
逆に言えば、どこにでもある物ではない。
飯屋にはなかった。
「高い言うてたしなあ」
2つ目の大きな交差路へ着いた。
「ここ右」
曲がる。
大通りより少し狭い道だった。
両側に何軒もの建物が並んでいる。
「赤い屋根、赤い屋根……」
兵士から聞いたのは、冒険者がよく使う宿。
看板に赤い屋根の絵が描かれている。
田中は入口近くの看板を順番に見ていった。
文字はどれも読めない。
酒瓶らしき絵。
馬らしき絵。
靴らしき絵。
「絵あるだけマシやな」
少し進む。
「あった」
入口の横から吊るされた木製の看板。
何か文字が刻まれ、その下に赤く塗られた屋根の絵がある。
「多分ここやろ」
田中は扉を開けた。
正面に小さな受付。
その向こうには階段。
右手には何脚かの椅子とテーブルが置かれていた。
受付にいた年配の女が田中を見る。
《――》
「こんばんは」
《――?》
「まあ、分からんわな」
田中は収納袋から冒険者証を取り出し、受付へ置いた。
兵士から、冒険者証を見せて指で泊まる日数を示せば大体通じると聞いている。
女が冒険者証を確認する。
《――》
「泊まりたい」
両手を合わせて頬へ当て、寝る仕草をする。
それから指を1本立てた。
「1泊」
女が頷いた。
《――》
「次は値段か?」
田中は収納袋へ手を入れ、何種類かの硬貨を掌へ出した。
女が大銅貨を指差し、片手を広げた。
「5?」
大銅貨を5枚並べる。
「これ?」
女が頷いた。
「大銅貨5枚。5,000円か」
さっき食べた大皿の飯が4,000円。
宿が1泊5,000円。
この町の宿相場を知らない田中には、高いのか安いのかまでは分からない。
「まあ、払えるしええわ」
大銅貨5枚を渡す。
所持金711,357円から5,000円。
残り706,357円。
女が硬貨を受け取ると、奥を指差した。
《――》
「ん?」
女が口へ何かを運ぶ仕草をする。
「飯?」
女が頷く。
「もう食ってきたんよ」
田中は腹を軽く叩いて首を振った。
「いらん」
《――》
「分からん」
5,000円に食事が含まれているのか。
別料金で食べられると言っているのか。
朝飯の話なのか。
今から食べるか聞かれているだけなのか。
何も分からない。
「こういう時やねんな」
もう1度、口へ運ぶ仕草をしてから首を振る。
女も頷いた。
「伝わったと思っとこ」
女が受付の下から小さな木製の札を取り出した。
何かが刻まれている。
田中へ渡す。
「これ何?」
《――》
「聞いても分からんか」
女が階段を指差し、手招きする。
田中は冒険者証を収納袋へ戻し、後についていった。
2階には細長い廊下が続き、左右に扉が並んでいる。
女はそのうちの1つの前で止まった。
田中が持っている木札を指差し、次に扉の横にある文字を指差す。
「ああ。これと同じなんか?」
文字が読めないので、本当に同じなのかは分からない。
だが、この札が部屋を見分けるための物らしいことは分かった。
女が扉を開けた。
《――》
「ここ?」
女が頷く。
「ありがとう」
田中は中へ入った。
広くはない。
木製の寝台が1つ。
その上に薄い敷物と毛布。
壁際には小さな机と椅子。
窓もある。
「ほんまに寝るだけの部屋やな」
女が扉の内側にある閂を動かして見せた。
「ああ、中から閉めるんか」
田中も試しに動かす。
「これなら分かる」
《――》
「ありがとう。多分」
女が廊下へ戻っていく。
田中は扉を閉め、閂を掛けた。ガタガタと動かして確認する。
「よし」
ようやく1人になった。
「はあ……」
収納袋を机へ置く。寝台へ腰を下ろした。
「硬っ」
手で敷物を押す。
「ほとんど板やん」
日本のベッドとは比べものにならない。
それでも昨日の森よりは遥かにましだ。
田中は靴を脱ぎ、寝台へ仰向けになった。
しばらく天井を見る。
「……飲むか」
身体を起こした。
異世界へ来て2日。
今日は特に長かった。
魔物と戦い、人間とも揉め、最後にはまた衛兵の詰所へ連れていかれた。
「こんな日は飲まなあかんやろ」
「通販」
通販画面を開く。
「淡麗プラチナダブル」
キリン淡麗プラチナダブル。
350ml缶。
176円。
「これこれ」
1本購入する。
所持金706,357円から176円。
706,181円。
収納袋から缶を取り出す。
握った瞬間、田中は眉を寄せた。
「ぬるっ」
プルタブには触れない。
「氷買ったらええだけやん」
通販へ戻る。
「氷」
購入できる商品を確認する。
1.1kg。
281円。
「これでええわ」
購入。
所持金706,181円から281円。
705,900円。
氷を取り出す。
缶の周りへ氷を当て、手でくるくる回した。
「これ回したら早いねん」
氷が溶けていく。
「まあ、そら溶けるわな」
構わず回す。
しばらくして缶を握る。
「おっ」
さらに回す。
もう1度触る。
「よし」
十分に冷えた。
そこで初めてプルタブへ指を掛ける。
プシュッ。
「いただきます」
一口飲む。
「っはぁー!」
田中は大きく息を吐いた。
「これやこれ」
寝台へ腰を下ろす。
異世界の宿。
硬い寝台。
読めない文字。
窓の外から聞こえてくる知らない言葉。
その中で飲んでいるのは、いつもの淡麗プラチナダブル。
「変な感じやな」
もう一口飲む。
「でも通販あるん助かるわ」
水も買える。
道具も買える。
酒も氷も買える。
そして、収納袋そのものも強化できる。
田中は机の上の収納袋を見る。
「今日、こいつのおかげでだいぶ稼げたな」
ギルドへ売った魔物は、ツノウサギ2匹、モリヘビ1匹、キバイノシシ2匹。
それにゴブリンの右耳2つ。
合計560,200円。
特に大きかったのはキバイノシシだ。
若い個体が100,000円。
成獣が450,000円。
「丸ごと持って帰れたんがでかいんやったな」
普通の冒険者は大型の魔物を丸ごと運ぶのが難しい。
現場で解体して、肉や皮、牙など持ち帰れる部分を選ぶ。
解体には時間が掛かる。
下手なら素材を傷める。
血の匂いで別の魔物が寄ってくる危険もある。
今回は丈夫な木2本とロープで棒引きを作り、キバイノシシを載せて町まで引いてきた。
「……次もあれ作るん?」
田中は眉を寄せた。
「面倒くさ」
今回は仕方なかった。
通販でリヤカーを探したが、欲しいと思える物は80,000円を超えていた。
だから1,580円のロープだけ買って、森の木を使った。
「でも今は金あるしな」
今日の売却で一気に所持金が増えた。
田中は収納袋を持ち上げた。
「重っ」
中には500mlの水が24本。
水だけで約12kg。
スコップ。
黒打捌き包丁。
錆びたゴブリンの刃物。
ロープ。
棒引きに使った腕ほどの太さの丈夫な木2本。
財布や鍵なども入っている。
「木2本入れたら、そら重いわ」
そこで田中は収納袋を見る。
「容量だけちゃうな」
機能を開いた。
まず容量。
現在Lv2。
100L。
次はLv3。
200L。
強化費20,000円。
「大型丸ごと入れるんやったら、これはいる」
強化。
容量Lv3。
200L。
所持金705,900円から20,000円。
685,900円。
次。
容量Lv4。
400L。
強化費40,000円。
「いこ」
強化。
400L。
所持金645,900円。
さらに次。
容量Lv5。
800L。
強化費80,000円。
「ここまでやな」
今日のキバイノシシが実際に800Lへ収まるかは分からない。
だが100Lのままでは話にならない。
「上げる」
強化。
容量Lv5。
800L。
所持金565,900円。
「よし」
次は重量軽減。
現在Lv1。
0%。
「今はそのままの重さか」
田中は一度、袋を持ち上げる。腕で重さを確かめた。
「これが0%な」
重量軽減Lv2。
10%軽減。
10,000円。
「安いな」
強化。
Lv2。
10%軽減。
所持金555,900円。
同じ中身のまま持ち上げる。
「お。軽なった」
次。
Lv3。
20%軽減。
20,000円。
「いこ」
強化。
所持金535,900円。
持ち上げる。
「おお」
最初との差がはっきりしてきた。
次。
Lv4。
30%軽減。
40,000円。
「いこ」
強化。
所持金495,900円。
袋を持つ。
「だいぶ楽やな」
次。
Lv5。
40%軽減。
80,000円。
「……8万」
田中は画面と袋を交互に見る。
「いや、ここで止める意味ないやろ」
大型のキバイノシシを丸ごと入れるために容量を800Lまで上げた。
重量軽減も、そのための機能だ。
「金あるうちに上げれるだけ上げといた方がええやん」
強化。
重量軽減Lv5。
40%軽減。
所持金415,900円。
袋を持ち上げる。
「軽っ」
最初の60%の重さ。
水24本も木2本も、その他の荷物も何も減らしていない。
それでも体感はかなり違う。
「次」
重量軽減Lv6。
50%軽減。
強化費160,000円。
「16万か」
所持金415,900円。
払える。
「半分になるんやろ?」
迷う理由はなかった。
「買う」
強化。
重量軽減Lv6。
50%軽減。
所持金255,900円。
田中は袋を持ち上げた。
「おお!」
最初の半分。
腕ほどの太さの木2本。
水24本。
スコップ。
その他の荷物。
全部入れたままで半分の重さになっている。
「これはでかいわ」
肩へ掛ける。
「全然ちゃうな」
次を見る。
重量軽減Lv7。
60%軽減。
強化費320,000円。
田中は所持金を見る。
255,900円。
「足らん」
そこで初めて止まった。
「しゃあないな」
払えるならさらに上げていた。
だが、320,000円は持っていない。
「次は金できてからや」
現在。
重量軽減Lv6。
50%軽減。
「大型入ったら、重さ半分か」
もちろんキバイノシシそのものをまだ収納していないので、実際に持ち運べるかは分からない。
だが、何も軽減されない状態とは大違いだ。
「容量800Lで重さ半分。ええやん」
次に保存を見る。
保存Lv1。
次のLv2への強化費10,000円。
「こっちはまだ分からんねんな」
保存Lv1が具体的に何をどの程度保存するのか。
まだ検証していない。
重量軽減と違い、数字で効果が表示されているわけでもない。
田中は先ほど買った氷を見る。
「これ使えるな」
氷なら時間が経てば溶ける。
収納袋へ入れておけば、保存Lv1の効果を確認できるかもしれない。
「残り入れとこ」
使わなかった氷を収納袋へ入れる。
「明日の朝見たら分かるやろ」
保存Lv1のまま一晩置く。
まず現在の効果を確認する。
「それ見てから上げたらええ」
保存は強化しなかった。
容量と重量軽減は目的と効果が明確だった。
保存はまだ効果そのものを確認していない。
田中は機能画面を閉じる。
「255,900円か」
今日だけでかなり使った。
宿5,000円。
淡麗176円。
氷281円。
容量強化140,000円。
重量軽減310,000円。
合計455,457円。
「使ったなあ」
それでも後悔はない。
今日のキバイノシシ2匹だけで550,000円になった。
大型の魔物を丸ごと持ち帰れるなら、収納袋の強化はそのまま稼ぎに繋がる。
「次の獲物で試したらええ」
容量800L。
重量50%軽減。
今日とは条件がまるで違う。
収納袋の中には棒引きに使った木2本とロープも残してある。
「これはまだ置いとこ」
800Lでも入らない可能性はある。
半分の重さでも持ち運べないほど重い魔物もいるかもしれない。
「でも次は袋からやな」
大型の魔物を倒す。
まず収納する。
入ればそのまま持つ。
無理なら、その時また考える。
「毎回棒引き作らんで済んだら最高や」
田中は淡麗の残りを飲み切った。
「っはぁ」
空になった缶を見る。
「これはこっちで捨てられへんな」
日本の缶を異世界の宿へ残すのは避けたい。
空き缶を収納袋へ戻した。
「さて」
明日の予定を考える。
「まずギルドやな」
武器屋へ行く前に、翻訳の魔道具について聞く。
武器屋で売買するにしても、言葉が通じないままでは不便だ。
錆びたゴブリンの刃物を売りたい。
自分用の武器も見たい。
値段も聞きたい。
「翻訳使えたら楽やねんけどな」
個人で買えるのか。
いくらするのか。
まずそこからだ。
次は武器屋。
収納袋の中にはゴブリンが持っていた錆びた刃物がある。
ギルドでは武器を買い取らないと言われた。
修理機能で確認した適正価格は8,000円。
破損率70%。
修理費5,600円。
「直して売る方が得なんか、そのまま売る方が得なんか」
現地の買取価格を知らない。
「先に値段聞いた方がええな」
自分用の武器も見る。
今の主武器はスコップ。
ゴブリン程度なら問題ない。
キバイノシシも倒した。
だが、成獣との戦いでは実際に曲がった。
修理できるとはいえ、戦っている途中で壊れれば困る。
「予備はいる」
通販でも探した。
14cmや18cm程度では短い。
欲しいのは最低でも刃渡り30cm以上。
脇差くらいの長さが欲しい。
「こっち剣普通にあるしな」
現地の武器がいくらなのか。
どんな品質なのか。
まず見てから決めればいい。
最後に洞窟。
今日、森から戻る途中で見つけた。
入口から見える範囲は広かった。
奥までは調べていない。
「住めたら宿代浮くしな」
今日の宿代は5,000円。
10日なら50,000円。
30日なら150,000円。
「結構でかい」
ただし、安全なら。
何か住んでいる可能性もある。
奥がどこまで続いているのかも分からない。
「明るいうちに調べよ」
田中は寝台へ横になった。
「硬っ」
やはり硬い。
それでも昨日の森よりは遥かにましだ。
毛布を掛ける。
今日1日で状況は大きく変わった。
冒険者になった。
魔物を仕留めた。
キバイノシシを丸ごと持ち帰った。
売った。
その金を収納袋へ使った。
容量Lv5。
800L。
重量軽減Lv6。
50%軽減。
保存Lv1。
「次は大型入れて試す」
重量軽減の次Lvは60%。
だが320,000円必要で、今は買えない。
「また稼いだら上げたらええ」
保存は一晩置いた氷で確認する。
「明日は翻訳、武器、洞窟」
少し間が空く。
「……喧嘩はいらん」
窓の外から、知らない言葉で話す声が微かに聞こえる。
異世界へ来て2日目。
昨日は森の中。
今日は町の宿。
田中はそのまま眠りについた。
収納袋容量Lv5、800L。
重量軽減Lv6、50%軽減。
保存Lv1。
所持金255,900円。
MPは第7話で100まで換金した後、活動中の自然回復が続いているが、現在値は未確認。
HPは食堂で頬へ1発受けた後、現在値は未確認。
異世界生活、2日目終了。
所持金 255,900円




