第9話:『初めての夜の風、そして未登録エリアへ』
扉を開けた瞬間、冷たい夜風が僕の全身を包み込んだ。
昼間のむっとするような暑さは消え去り、深夜の空気は驚くほどに澄んでいて、どこか尖っている。
「……うわぁ」
僕は思わず、夜の街並みを見上げてため息を漏らした。
街灯がぽつぽつと照らす無人の道路。
物心ついた時から、僕は「国宝」として常に母親たちの護衛付きで移動し、夜間に一人で出歩くことなど絶対に許されなかった。
自分の足で、深夜の街を走っている。それだけで、胸の奥から湧き上がるような興奮と、少しの恐怖が全身の血を騒がせた。
「どうや、央太。夜の風は、美味いか?」
健吾が、大剣を背負ったまま隣で軽快に並走してくる。
お調子者の顔を隠すように、コートのフードを深く被った父親は、まるで悪ガキのような悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「うん! めちゃくちゃ冷たいけど、なんだか……胸がすっとする。お上品な標準語で『ただいま戻りました、お母様』なんて言う必要のない世界が、本当にあるんだね」
「ハハッ、あったり前やろ! 世界は広いんやぞ。おかんたちの手のひらの上が、世界のすべてやと思ったら大間違いや」
僕たちは住宅街を抜け、街の外縁部へと向かった。
2051年の現代において、ダンジョンから得られる魔力資源「魔石」は、国家のテクノロジーと生活インフラを支えるすべてのエネルギー源だ。
そのため、政府が公式に管理しているダンジョンは、厳重にフェンスで囲まれ、24時間体制の防犯ドローンが巡回している。
だが、健吾が僕を案内したのは、そんなきらびやかな管理区域ではなく、寂びれた旧市街の、打ち捨てられた廃ビルの地下だった。
「パパ、ここ、立ち入り禁止区域の看板が立ってるよ? 本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。ここはな、十年前の局地災害で放棄されたエリアや。政府の登録リストからも消えとる『アナーキー・ダンジョン』への、隠しゲートがこの地下にあるんや」
健吾は慣れた手つきで、瓦礫の下に隠されていた鉄のハッチをこじ開けた。
地下へと続く階段からは、地上とは明らかに異なる、濃厚で、少し肌をピリピリと刺すような「魔力」の匂いが漂ってくる。
「……これが、野生の魔力」
僕は思わず、額のゴーグルを下ろして地下の暗闇を覗き込んだ。
政府のダンジョンのような、美しく整備された照明も、案内板も、安全用の避難経路もそこにはない。ただ、どこまでも続く暗黒と、その奥から聞こえる、魔物のうめき声のような風の音。
「行くぞ、央太。スマホの電源は切ったか?」
「うん。お母様たちにGPSで追跡されないように、完全に落としてある」
「よし。じゃあ、本当の自由の始まりや!」
健吾がハッチを潜り、地下の闇へと足を踏み入れる。
僕は一瞬だけ、夜空を見上げた。
明日、朝起きた志乃お母様たちの顔を想像すると、背筋に強烈な悪寒が走る。
捕まったら、絶対に骨を折られるだけじゃ済まない。それこそ薫子ママのしびれ薬で一生ベッドから動けなくされるか、エレナママにすべての自由を剥奪されて、お見合い誓約書に強制サインさせられる。
(本音:でも、もう後戻りはできん。パパにそそのかされたとはいえ、僕が自分の意志でハッチを開けたんや。やるしかない……おかんたちに捕まる前に、僕が一人の冒険者として強くなったる!)
僕は深く息を吸い込み、エメラルドグリーンの瞳を暗闇に適応させると、父親の背中を追ってハッチへと飛び込んだ。
ゲートをくぐり、ダンジョンの第1層へと足を踏み入れた瞬間、耳の奥でキーンと静寂が響いた。
スマートフォンの電波は完全に消失。
毎日、毎時間、僕の行動を縛り付けていた「生殖義務通知」や「健康管理アプリ」のアラートは、もう二度と鳴らない。
ただ、大剣を握る父親の頼もしい背中と、僕自身の手にある魔導杖だけが、この世界のすべて。
波多野央太、18歳。
僕はついに、お見合いと義務だらけのディストピアから、野生の冒険者へと、最初の一歩を踏み出したのだった。




