第8話:『波多野要塞からの脱走』
実家から脱出する。
言葉で言うのは簡単だが、我が「波多野家」は、国内でも屈指の難攻不落を誇るセキュリティハウス――否、もはや「防犯要塞」と呼ぶべき魔境だった。
「パパ。お母様たちの防犯設備、なめてると死ぬよ」
僕たちは部屋のドアをミリ単位で開き、廊下の様子を伺っていた。
普段は暖かみのあるライトで照らされているはずの廊下は、深夜の防犯モードに切り替わり、薄暗い青の結界光に満ちている。
「わかっとる。なんちゅうても、第一夫人が志乃、第二夫人が薫子、第三夫人がエレナやからな。このメンツで構築された防犯システムは、ギルドの最高難易度ダンジョンよりタチが悪いわ」
健吾が冷や汗を流しながら、大剣の鞘を握る。
その言葉通り、我が家の防犯トラップは、3人の母親たちの「属性」がこれでもかと詰め込まれていた。
「まず、最初の廊下に展開されとるんは、薫子の『嗅覚式・睡眠ガス感知トラップ』や。あいつの育てる薬草から抽出した微量のガスが、侵入者の体重を感知した瞬間に吹き出すようになっとる」
「薫子ママ、本当におっとりした顔してやることが容赦ないね……。でも、あのトラップの感知限界は、魔力波の干渉で狂わせられるはず」
僕はそっと、右手を廊下に向けて伸ばした。
実母・志乃から完璧に受け継いだ、ハニーブロンドの髪が、僕の集中に合わせて微かに輝く。僕の魔導適性は、母親譲りの一級品だ。
「『魔力構造(魔術構成)解析、干渉開始』……よし。感知センサーの魔力パターンを上書きしました。今から十秒間だけ、ガス噴出の反応が遅れます」
「よっしゃ! お前の精密制御は本当に志乃そっくりやな、助かるわ!」
健吾が僕の頭を叩き、二人は無音のフットワークで廊下を駆け抜けた。
十秒。文字通り一瞬の猶予。床を踏み締める感覚が消えるようなスピードで、最初のトラップエリアを難なくクリアする。
だが、すぐに次の障害が立ち塞がった。
一階のリビングへと続く階段の踊り場。そこには、赤外線センサーを兼ねた、エレナママがギルドから横流ししてきた「防犯魔導カメラ」が、三連装で設置されていた。
「次はエレナのカメラや。あれに少しでも引っかかれば、エレナのスマホに爆音が鳴り響いて、ギルドの警備隊が直接我が家に突っ込んでくる。男の権利(お小遣い)を剥奪するための最新兵器やぞ」
「エレナママ……防犯への投資が、完全にギルド幹部としての職権乱用だよ」
僕はゴーグルを額から目元へと下ろし、カメラの発する不可視の走査線を視覚化する。
無数の細い赤い光のグリッドが、階段を隙間なく埋め尽くしていた。
「パパ、このグリッドの間隔、一番広いところで十五センチ。物理的な回避は不可能だよ。どうするの?」
「フッ、そんなもん、俺のフットワークにかかれば余裕や」
健吾は不敵に笑うと、僕の腰をひょいと抱え上げた。
「おい、パパ!? 何するの、降ろして!」
「静かにせえ、舌噛むぞ! ――行くで!」
次の瞬間、健吾の体が風のようになった。
37歳、現役トップクラスの身体能力。健吾は、階段の手すりを足場にして跳躍し、カメラの走査線の「わずかな死角」を縫うように、空中で体を捻った。
信じられない身のこなし。壁を蹴り、天井に手をかけ、一瞬の滞空時間で僕を抱えたままグリッドの網目を完璧にすり抜けてみせる。
「……着地完了や」
リビングの床に、埃一つ立てずに健吾が着地する。
僕はあまりの重力変化に目を回しながらも、父親の「本物の実力」を肌で感じて、心臓がうるさいほど脈打っていた。
「パパ、すごすぎるわ……。普段、志乃お母様にワンパンで床に埋められてるのに、本当はこんなに強かったんだね」
「アホ言うな、志乃の重力魔法はな、物理的なスピードなんか関係なく『空間そのもの』を固定してくるから防ぎようがないんや。あいつが一番の化け物やねんからな……」
健吾がぶるっと身震いした。
そして、最後にして最大の障壁。玄関のドア。
そこには、志乃お母様自身が仕掛けた「指紋・魔力・血流・網膜」を同時に認証する、国家レベルの『複合認証結界』が張られていた。
「こればっかりは、俺の力でも突破できん。央太、お前の出番や」
「うん……お母様、僕に『いざという時の避難用』として、この結界のマスターキーの魔力波形を教えてくれていたんだ」
僕は玄関のノブに手をかざした。
母と同じハニーブロンドの髪を揺らし、エメラルドグリーンの瞳に集中を込める。
お母様。ごめんなさい。僕は、避難用ではなく、ここから脱出するために、この力を遣います。
「『認証キー、展開。波多野央太の名において、結界の解放を命ずる』」
カチリ、と。
暗闇の中で、玄関のロックが静かに解除される音が響いた。
鉄壁の波多野要塞。その扉が、僕たちに向かって、ゆっくりと開かれたのだった。




