第3話:『パパのヒエラルキーは犬以下』
夜。静まり返った波多野家のリビング。
時計の針は深夜2時を指していた。
僕はベッドの中で、国営アプリからの定期的な「水分補給をしてください」という通知の眩しさに耐えかね、水を飲みにキッチンへ向かった。
すると、暗闇のキッチンから、微かに「カサカサ……」という不審な音が聞こえてきた。
魔物の襲撃か。僕は身構え、密かに仕込まれた魔力感知を走らせる。だが、そこにいたのは、冷蔵庫の前で丸くなっている、我が家で最もヒエラルキーの低い巨大な男だった。
「パパ……何してるの?」
僕が標準語で声をかけると、健吾は「ビクゥッ!」と肩を震わせ、大慌てで手に持っていたものを背後に隠した。
「お、央太か! 脅かすなや、心臓止まるかと思ったわ!」
健吾の顔には、37歳のトップクラス冒険者とは思えないほどの焦燥が浮かんでいる。彼の背後から漂ってきたのは、香ばしい油と醤油の匂い――唐揚げだ。
「薫子ママの食事制限を破って、唐揚げを食べているんですね。お母様たちにバレたら、今度こそ骨を折られますよ」
「しゃあないやろ! 薫子の作った健康薬膳ジュースとサプリだけで、この現役Aランクの肉体が維持できるかちゅうねん! 俺は肉が食いたいんや、肉が!」
健吾は涙目で、タッパーに入った冷えた唐揚げを口に押し込む。
ギルドでは「大剣のバルムンク」と恐れられ、ひとたびダンジョンに入れば数々の巨大な魔物を一刀両断する英雄。そんな男が、自宅のキッチンで、3人の妻の目を盗んで冷たい唐揚げを貪っている。この圧倒的なギャップ。
「パパ、本当に情けないです。……でも、気持ちは少し分かります。僕も、あの薬膳スープはもう飽きました」
僕はため息をつく。
すると、健吾はニヤリと悪魔のような笑みを浮かべ、僕の前に唐揚げを一つ差し出してきた。
「食うか、央太。薫子の監視をすり抜けた、特製のジャンク唐揚げや」
「え、でも、国営アプリの管理が……」
「ええから食え! 管理管理って、お前は生まれた時からずっと、おかんたちと国に飼われとるだけやんけ。一度くらい、自分の舌で美味いもん食うて、自分の足で歩いてみぃ!」
健吾のその言葉に、僕の何かが切れた。
手を伸ばし、唐揚げを奪うように口に放り込む。
咀嚼した瞬間、口いっぱいに広がる濃い目のニンニク醤油と、ジューシーな脂の旨味。これまでに食べたどの「国家推奨メニュー」よりも、暴力的で、美味しかった。
「……ッ! 美味しい……めちゃくちゃ美味しいわ、これ!」
思わず、僕の口から完璧な標準語が消え去り、コテコテの関西弁が漏れ出す。
「やろ! これが『自由の味』ちゅうやつや!」
健吾はガハハと笑い(もちろん声は潜めて)、僕の肩を叩いた。
「ええか、央太。この国はな、男にだけ『不倫は無罪』なんて都合のええ法律を作っとる。けどな、家に入ればそんなもんクソの役にも立たん。志乃の重力魔法、薫子の毒、エレナの罰金。3人のママを同時に相手にするのが、どれだけ命がけか、お前も毎日見とるやろ?」
「うん……身に沁みて分かってる。パパ、毎日死にかけてるもんね」
「せや! だからお前がお見合い誓約書を見て絶望するんも当然や。男を『カゴの中の鳥』にして、国営センターのスケジュール通りに精子を搾り取る。そんな人生、お前は本当に送りたいんか?」
健吾の鋭い三白眼が、暗闇の中でキラリと光った。
普段のヘタレな姿とは違う、数々の死線をくぐり抜けてきた「本物の冒険者」の眼光。
「僕は……嫌です。自分の足で、自分の力で生きてみたい。お母様たちが決めた義務としての複数婚じゃなくて、一人の冒険者として、誰かと対等に出会いたい」
僕の、エメラルドグリーンの瞳に宿る本気の光。
それを見た健吾は、満足そうに頷くと、ポケットから一枚の古い地図を取り出した。
「よっしゃ、決まりや。央太、荷物をまとめろ。……深夜2時、おかんたちが爆睡しとる今が好機や。国営アプリも、おかんたちの監視も届かん、未登録の『アナーキー・ダンジョン』へ、家出(逃亡)するぞ!」
「え……家出!? 今から!?」
「当たり前や! 男のロマンは、思い立ったが吉日や! 行くぞ息子よ、自由の迷宮へ!」
フットワークも軽いが、腰も致命的に軽い37歳の父親。
その最低で最高の誘いに、僕は深く頷いた。僕たちの、命とお見合いからの逃亡劇が、ここから始まるのだった。




