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第六章 呼吸

目を覚ましたとき、私は何も覚えていなかった。


 白い天井が見えた。白い壁に、白いカーテン。鼻の奥には、薬品の匂いが残っていた。


 目は見える。けれど、身体は動かなかった。右手も、左手も、足も。指先ひとつ動かそうとして、何度も失敗した。


 声を出そうとしても、喉から漏れるのは空気の擦れる音だけだった。

「あー……」

 自分でも驚くほどかすれた音を聞きながら、私は考えた。


自分は何者なのだろう。ここはどこで、どうしてこんなことになっているのだろう。


 何ひとつ分からなかった。


 ただ、息だけはできた。

 吸って、吐く。それだけは、何も考えなくてもできた。


 家族だと言う彼らは私の顔を見ると泣いた。


「かわいそうに」

「こんな……」

「見ていられない」

 そんな声が聞こえた。


 かわいそう。見ていられない。

 私はその意味を考えようとしたけれど、自分のことだという実感がなかった。


二人とも、私がそのうち動けるようになると思っていたらしい。


「まだ身体が起きていないだけかもしれない」


「時間が経てば、少しずつ戻るかもしれない」

 そんな声が聞こえた。


 けれど、私は返事ができなかった。


 時間だけが過ぎていった。


 ある日、久しぶりに知らない男の子が病室に入ってきた。まだ少年と呼べるくらいの年齢だったと思う。

 

私は彼を見た。顔はぼやけていて、よく分からない。それでも、彼が私を見た瞬間、表情が変わったことだけは分かった。


 かわいそうなものを見る顔ではなかった。見てはいけないものを見たような顔でもなかった。


 まるで、自分の罪を目の前に突きつけられたような顔だった。


 彼は何も言わず、しばらく私を見つめていた。そして、逃げるように病室を出ていった。


 誰だったのだろう。

 考えても、何も思い出せなかった。ただ、彼の表情だけが妙に心に残った。


 ある日、病室の外から声が聞こえた。


「もう無理よ。誰がこの子の面倒を見るの?」

 母の声だった。


「お前がちゃんと見ていなかったからだろ」


「私だけのせいにしないでよ!」

 二人の声が大きくなる。


 私は聞いていた。聞くことしかできなかった。


 二人は、私には何も分からないと思っていたのだろう。けれど、声は聞こえていた。何を話しているのかも、十分に分かった。


 目を閉じた。


 翌日、母は来なかった。その次の日は、父も来なかった。


 気づけば、誰も病室を訪れなくなっていた。


 私は捨てられたのだと思った。


 けれど、悲しいという感情さえ、うまく湧いてこなかった。自分が何を失ったのかも分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


 職員たちが私について話している声も聞こえた。


「どうするの、この子」


「家族もいないんでしょう?」


「ずっとここに置いておくわけにもいかないし」


「本当に厄介ね」

 私は何も言えなかった。


 死ねたらいいのに、と思った。


 けれど、自分で死ぬことすらできなかった。身体は動かず、声も出ない。何もできない私には、死ぬことさえ自分の意思では選べなかった。


 だから、また息をした。

 吸って、吐く。

 それだけを繰り返していた。


 そんな日々の中で、ある日、また誰かが病室にやってきた。


「利子ちゃん」

 名前を呼ばれた。

 その響きに、何かが引っかかった。


「俺、ケンジ」

 ケンジ。


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。


 顔を見た。ぼやけていても、分かった。

 あの日、私を見て、逃げるように病室を出ていった少年だった。


「……友達だったんだ」

 ぽつりと、彼が言った。


 友達。

 その言葉だけが、頭の中に残った。

 私は何も聞けなかった。聞きたくても、声が出なかった。


 彼は何度も病室に来た。

 今日、学校であったこと。先生への愚痴。どうでもいいような話。私が返事をできないことなど気にも留めず、彼は一方的に話し続けた。


「今日さ、先生が――」

 そこで一度言葉を切り、彼はため息をつく。

「いや、絶対あの先生、俺のこと嫌いだろ」


 私は答えられない。

 それでも彼は、まるで私が相槌を打ったかのように話を続けた。


 やがて、彼はもう一人、男の子を連れてくるようになった。


 二人はくだらないことで言い争い、私の顔を覗き込んでは尋ねた。


「利子、どっちが正しいと思う?」

 私が答えられないと分かっているくせに、二人は勝手に結論を出す。


「利子は俺の味方だから」


「いや、今の顔は俺の味方だろ」


 おかしかった。

 私は笑えなかった。声も出ないし、顔もほとんど動かせない。


 それでも、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 二人は私を、かわいそうな人として扱わなかった。厄介な人としてでもない。ただ、そこにいる友達として話しかけてくれた。


 それが、どれほど嬉しかったのか。

 私はうまく言葉にできなかった。


 あの日、あの男の子が言った言葉を、ふと思い出した。

「お前、全部持ってるじゃん」

 あのとき、彼は何を思ってそう言ったのだろう。


 私には、もう何も残っていないと思っていた。


 夢も、自由に動く身体も、家族も、帰る場所も。声さえ失って、誰かに何かを伝えることすらできない。


 目覚めてから、私は失うことばかりだった。


 けれど、本当にそうだったのだろうか。


 ケンジは私の名前を呼んでくれた。何度も会いに来て、くだらない話を聞かせてくれた。もう一人の友達と一緒に、私を笑わせようとしてくれた。


 春の陽気も、夏の蒸し暑さも、秋の肌寒さも、彼らが教えてくれた。


 私は、たくさんのものをもらっていた。


 いや、もしかしたら、もともと私のそばにあったものに、もう一度気づかせてもらったのかもしれない。


 そう思った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 海。

 青い空。

 走る私。

 その隣を走る男の子。


「利子ちゃん、速すぎ!」

 笑いながら叫ぶ声が聞こえた。


「ケンくんが遅いんでしょ」


「利子ちゃんが速いんだって!」


 ケンくん。

 ケンジ。


 ああ、あなたは私の親友だったのね。

 一番近くにいて、何でも話せると思っていた人。夢の話も、将来の話も、くだらない話もした。


 ずっと、このままでいられると思っていた。


 そこから先は、途切れ途切れに記憶が戻ってきた。


 あの日の前日、ケンくんが遊びに出かけたことも思い出した。


 私は体調が悪くて、不機嫌で、机に突っ伏してばかりいた。それでも、ケンくんにはそばにいてほしかった。

少しでも離れようとすると怒鳴って、困らせた。

 そう、私はわがままだった。


 それでも、ケンくんはずっとそばにいてくれた。


 彼が私から離れたのは、あれが初めてだった。ただ、タイミングが悪かった。それだけのことだったのだ。


 普通なら、喧嘩をして、仲直りをして、以前より少し仲良くなる。そんな、子供の友情の中でよくある出来事にすぎなかったはずだ。


 けれど、私たちには運が悪かった。


 たった一度、そばにいなかったことが、彼にとって一生消えない罪になってしまった。


 私も、彼も、あの日を境に変わってしまった。

 私たちは、あの日まで見えていた未来を突然失った。


 二人で行きたかった場所。二人でやりたかったこと。いつか一緒に叶えようと話していた夢。

 思い出すほどに、それらは遠くなっていった。


 それでも、今また彼のそばにいたい。

 そう思った。


 勝手なのかもしれない。こんな身体になって、何もできなくなった私が、彼の人生にこれ以上関わっていいのだろうか。


 それでも、もう何もかも諦めたくなかった。


 私は、目覚めてから初めて、はっきりと生きたいと思った。


 死にたいと思うことは何度もあった。何もできず、誰にも必要とされず、ただ息をしているだけの自分が嫌だった。


 けれど、今はもう一度、息をしたかった。

 もう一度、明日を迎えたい。

 もう少しだけ生きてみたい。

 そう思うたびに、もっと生きたいという気持ちが膨らんでいった。


 だから、ケンくんにも生きてほしかった。

 自分の罪を抱えたままではなく、私のためでもなく、彼自身のために。


 ねえ、ケンくん。

 私は、自分のために生きられるようになったよ。

 今度は、君の番だよ。


 もう「何もない」なんて、思いたくなかった。

 私には声がない。だから、伝えられない。

 それでも、伝えたかった。


 息を深く吸い込むと、肺が痛いほどに膨らんだ。こんなにも息をすることが大変だったなんて、知らなかった。


 吸って。

 吐いて。

 もう一度、吸って。

 吐く。


 そのとき、私は初めて自分の意思で自ら呼吸をした。

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