第七章 氷解
病室の窓の向こうでは、病院の建物も、駐車場も、遠くの道路も、白い雪に覆われていた。
「……寒いね」
俺がそう言うと、ベッドの上の利子が、ゆっくりと顔を動かした。
最近、利子は以前よりもよく動くようになった。リハビリの成果が、少しずつ表れている。
先ほど廊下で、担当の先生に声をかけられた。
「あ、ケンジくん。利子ちゃん、最近すごく頑張っていますよ」
「そうみたいですね」
「春頃には、退院も見えてくるかもしれません。もちろん、今後の状態次第ですけどね」
「……春」
その言葉が、妙に胸に残った。
退院したら、利子はどこへ行くのだろう。
両親は、もう彼女のそばにいない。帰る場所だって、簡単には決められない。
俺が引き取るのか。それとも、別の場所を探すのか。何も決まっていなかった。
そもそも、俺がそばにいることは、本当に利子のためになるのだろうか。
俺がいることで、彼女の人生まで過去に縛りつけてしまうのではないか。
いつか利子が自分の足で歩き、自分の意思で行きたい場所を選べるようになったとき、俺の存在が重荷になることだってあるかもしれない。
利子は、窓の外を見ていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「わ……たし、じぶん……のため、いきる」
「……!」
「……ゆき」
「うん、雪がどうした?」
利子は息を整えながら、言葉を探した。
「……とけ……たら」
俺は急かさず、続きを待った。
「……さん、ぽ……」
「散歩したい?」
利子が小さく頷いた。
「そっか。じゃあ、雪が解けたら、また散歩しよう」
俺は笑った。
利子は、自分のしたいことを少しずつ言葉にできるようになっていた。そして今日、自分のために生きるのだと、はっきり口にし、自分の希望を言った。
その言葉は、俺にも自分のために生きてほしいと言っているように聞こえた。
やっぱり、彼女には敵わないなぁ。
心の底から、そう思った。
「……俺さ」
窓の外を見ながら、口を開いた。
「最近、ずっと思ってたんだ。俺だけ、変われてないなって」
利子が俺を見る。
「大学に入って、一人暮らしも始めて。家にも帰って、兄貴とも父さんとも母さんとも会ってさ。周りから見れば、普通に生きてるんだろうけど」
俺は苦笑した。
「俺の中では、ずっと止まってる気がするんだよ。俺がああしてれば、とか、もっと何かできてたら、とか。そんなことばっかり考えてる」
言葉にすると、ひどく幼い悩みに思えた。
けれど、誰にも話せなかった。
口にすれば、許してもらおうとしているような気がしたからだ。
だから俺は、自分を許さないことで、あの日の自分から離れずにいた。
「……でもさ」
少しだけ、声が震えた。
「利子が元気になってくれるのは、嬉しいんだ」
当たり前のことなのに、口にするのが怖かった。
それが罪悪感でも、贖罪でもなく、俺自身の気持ちだったから。
「できることが増えて、自分のしたいことも言えるようになって。……すごいと思う」
利子は、ほんの少し口角を上げた。
俺も笑った。
俺はずっと、利子のために生きなければいけないと思っていた。
彼女が失ったものを取り戻すために。これからの人生を、少しでも幸せなものにするために。
そうすれば、あの日そばにいられなかった自分にも、何か意味が生まれる気がしていた。
けれど、利子が回復していくことが嬉しいのは、本当にそれだけなのだろうか。
自分の足で歩けるようになって、自分の行きたい場所を選べるようになって、いつか俺がいなくても笑えるようになる。
それを想像すると、嬉しかった。
なのに、少しだけ寂しかった。
……ああ。
俺は、利子に幸せになってほしいだけじゃない。
俺も、利子と一緒にいたいんだ。
「だからさ」
俺は、もう一度窓の外を見た。
「利子は、俺がいなくたって大丈夫なんだろうな」
利子は何も言わず、俺を見つめていた。
「…だけど、俺も春になったら、利子と一緒に散歩したいんだ」
今度は、俺から伝えた。
「病院の周りだけじゃなくてさ。もっと遠くまで歩きたい」
利子が目を瞬かせる。
「桜とか、見に行きたい」
「……さ、くら」
「……みたい」
その声を聞いて、俺は笑った。
「うん、見に行こう」
利子が、ゆっくりと口を開いた。
「わ……たし、ずっ……と、ケ……ンジと、いっ……しょに、いたい」
息を継ぎながら、一つひとつ言葉をつないでいく。
それでも、最後まで伝えてくれた。
利子が俺を恨んでいないことには、気づいていた。
だからこそ、謝らなかった。許してほしくないからでも、忘れたくないからでもない。彼女に許してもらうことで、自分だけが楽になってしまうのが怖かったのだ。
罪を抱えたまま、彼女のために生きて苦しむのが正しいと思っていた。
けれど、利子はそんな俺の気持ちまで見抜いていたのかもしれない。
罪と俺を切り離し、過去に置いていく。そして、過去を生きる今の俺を、未来へと引っ張り出してくれた。
彼女が今を見て、未来を望んでくれたのなら。
俺も、望んでいいのだろうか。
自分のために生きていいのだろうか。
幸せになりたいと願ってもいいのだろうか。
……ああ。
お互いに、自分のために生きる。
それでも、俺が出した答えは同じだった。
「……俺も」
それだけ言った。
大丈夫だとも、俺が守るとも、絶対に幸せにするとも言わなかった。
そんな言葉で彼女の未来を決めたくなかった。
ただ、俺も一緒にいたい。
その気持ちだけは、もう隠さなくてよかった。
病室を出ると、廊下の窓から雪が見えた。
俺は立ち止まり、白く染まった景色を眺めた。
雪の中に何かを落とすと、なかなか見つからない。
どこにあるのか分からなくなり、なくしてしまったのだと思う。
けれど、雪の下に埋まったものは、本当になくなってしまったのだろうか。
春になり、雪が解ければ、そこにあるかもしれない。
傷ついているかもしれない。壊れているかもしれない。もう、元の形には戻らないかもしれない。
それでも、見つけることはできる。
拾い上げて、もう一度、大切にすることだってできる。
春になったら、利子と散歩しよう。
桜を見に行こう。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
どこに住むのかも、どう生きていくのかも、何を選ぶのかも。
何一つ、決まっていない。
それでもいい。
決まっていないからこそ、これから自分たちで決めていける。
夏になったら、冷たいアイスを食べよう。
秋になったら、紅葉を見よう。
冬になったら、暖かい部屋で雪を眺めよう。
そんな日々を、何度でも繰り返していこう。
これから先のすべてが決まっているわけじゃない。
それでも、また一緒に季節を迎えたい。
そう願うことだけは、もう迷わなかった。
俺は病院の外へ出た。
雪が頬に触れる。冷たさに、思わず目を細めた。
白い息を吐き、ゆっくりと吸い込む。
足元の雪を踏みしめ、一歩進んだ。
今はまだ、俺一人分の足跡しかない。
けれど、いつか。
病院の窓の向こうに、利子の姿が見えた。
俺は小さく笑った。
聞こえているかは分からない。
それでも、伝えたかった。
「一緒に歩こう」
雪解けの向こうへ。
―氷解。




