第五章 自立
俺には父親がいる。
大企業の会長だ。そして俺は、その隠し子だった。
父親と俺の間にあるのは、親子の情というより上下関係だ。
「明日も来い」
「また?」
「学生なんだから暇だろ」
「医学部なんだけど」
「なら勉強しろ」
「見舞いに来いって言ったの、そっちだろ」
「口答えするな」
「はいはい」
俺は父親の言うことを聞いて病院へ向かう。まだ学生で、自分一人の力だけで生きていけるほど強くない。それが、俺と父親の関係だった。
病室を出たところで、ケンジと顔を合わせた。高校を卒業して以来、久しぶりの再会だった。
「お前も何でここ来てんの?」
「お前こそ」
「俺は親に言われて」
「……俺は大切な人に会いたくて」
「へえ」
相変わらず、こいつは真面目だ。
高校の頃から、俺はケンジを何でも余裕ぶっている嫌な奴だと思っていた。
反対に、ケンジから見れば俺は、女の話ばかりして人をからかっている嫌な奴だったのだろう。
たぶん、互いにそんな印象しか持っていなかった。
「お前、医学部に受かったんだって?」
「ああ」
「へえ。おめでとう」
「……それだけ?」
「何が?」
「もっと驚くとかさ」
「すごいと思ってるけど」
「絶対思ってないだろ」
「思ってるし、お前が何で医学部に行くのかも気になる。高校のときに言ってた理由、今の様子じゃ本心じゃないだろ?」
俺は少し黙った。こいつに話すつもりなんてなかったのに、不思議と、このときは話してもいい気がした。
「父親や本家の言いなりになるのが嫌でさ」
俺は笑ってみせた。
「立派に、誰にも頼らず生きていくためだよ」
笑われると思ったが、ケンジは笑わなかった。
「そっか」
「……それだけ?」
「何が?」
「いや、別に」
拍子抜けした俺は、今度はこちらから尋ねた。
「お前は? 医学科に行くんだろ。何で?」
ケンジはしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……自己満足の贖罪。それと、全部から逃げたいから」
「何それ」
「そのままの意味だよ」
ケンジは少し俯いた。
「俺には、前が見えないんだ。だから、前に進むしかない」
意味は分からなかったが、何か事情があるのだろう。それ以上、無理に聞く気にはなれなかった。
「それでもやるんだろ?」
「……うん」
「だったらいいじゃん。逃げるためにそこまでやれるなら、ご立派なもんだ」
「……何だよ、それ」
「前が見えなくても、がむしゃらに進めてるってことだよ」
ケンジは少し驚いたあと、穏やかに微笑んだ。
その顔を見て、俺はふと思った。
「……凡人に許された唯一の手段ってさ、努力することじゃね?」
「え?」
「才能がある奴は才能で何とかできる。金がある奴は金で、コネがある奴はコネで何とかすればいい。でも、俺みたいなのは結局、やるしかないじゃん」
俺は肩をすくめた。
「だから医学部も死ぬほど勉強した。親父に言われたからじゃなくて、親父から離れるためにな」
ケンジは何も言わず、じっと俺を見ていた。
「……そうか」
「何が?」
「俺も、同じだったのかもしれない。ずっと努力してた理由」
ケンジは少し間を置いてから、再び口を開いた。
「何をしたって、もう戻らないことがあるんだ。それでも、やるしかないと思ってた。努力することしか、できなかったから」
「……お前、利子に会わせたいな」
「誰?」
「俺の友達」
「女?」
「そう」
「美人?」
「お前はそればっかりだな」
「大事だろ」
ケンジは呆れたように笑った。
「正義感が強くて、頭が良くて……俺は世界で一番美しいと思ってる」
「へえ」
「お前と話したら、面白いと思う」
「俺と?」
「うん。なんとなく」
「何だそれ」
俺は笑った。
「まあ、いいけど」
ケンジに連れられて病室へ向かうと、そこに利子がいた。
「利子」
ケンジが声をかけると、彼女はこちらを向いた。
「こいつ、高校の同級生」
紹介された俺は、なぜか少し緊張していた。
「……どうも」
間抜けな挨拶をすると、利子はほんの少し目元を緩めた。笑ってくれたのだろうか。
それが、俺と利子の最初の出会いだった。
それから俺たち三人は、自然と一緒に過ごすようになった。
もともとは父親の見舞いが目的だった。病室へ行けば、勉強はどうだ、将来はどうする、本家には顔を出したのかと、命令や小言ばかり。俺にとっては苦痛でしかなかった。
けれど、見舞いを終えれば三人の時間が始まる。
ケンジが利子の車椅子を押し、俺たちは病院の周りを歩いた。くだらない話をして、どうでもいいことで笑う。
「今日の親父、マジでうるさかった」
「いつものことだろ」
「お前、俺の親父に会ったことないだろ」
「顔は知ってる」
「それだけじゃん」
利子がこちらを見て、目を細めた。
「お前も笑ってんじゃねえよ」
そう言うと、彼女はさらに楽しそうな顔をした。
「こいつ、俺のこと馬鹿にしてるぞ」
「いいんじゃない?」
「最近そればっかだな、お前」
利子は声を出さずに笑った。それでも、ちゃんと楽しんでいることが分かった。
俺には、こんなふうに一緒にいて楽な友達がいなかった。
大企業の会長の息子でも、愛人の子でも、医学部の学生でもない。ただの俺として接してくれる人間がいる。そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
「なあ、俺さ」
ある日、俺は二人に言った。
「親父の見舞いに来てんのか、お前らに会いに来てんのか、分かんなくなってきた」
ケンジが笑った。
「いいんじゃない?」
「お前、それ便利な言葉だと思ってない?」
利子も笑う。
俺もつられて笑った。
父親の見舞いは相変わらず嫌だったが、今では病院へ来ること自体が楽しみになっていた。
――あの女が現れるまでは。
ある日のことだった。
「あ……」
見覚えのある女が、こちらへ走ってくる。
高校時代、「落ちたら死ぬ」と言っては周囲をドン引きさせていた女だ。大学に落ちたらしいと噂で聞いていたが、まさかこんなところで会うとは思いもしなかったが…。
いや、待て。アイツ、落ちたんじゃなかったか?
その手に刃物が見えた瞬間、俺は反射的に前へ出た。
「逃げろ!」
腹に衝撃が走った。
「……え?」
熱い。自分の腹を見ると、血が広がっていた。
「おい!」
ケンジが飛び込んできて、俺を突き飛ばすようにして女から遠ざけた。しかし、女が再び刃物を振り下ろす。
「もうやめろ!」
俺が叫ぶより早く、女の視線が利子へ向いた。
「利子!」
ケンジはすぐさま立ち上がり、利子に覆いかぶさった。
何度も刃物が振り下ろされる。
俺は止めようとしたが、体が動かなかった。腹の傷がひどかったのか、意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、ケンジの背中だった。
目を覚ますと、白い天井が見えた。点滴につながれた自分の体を確かめ、俺は違和感に気づいた。
足が動かない。
「……え?」
何度力を入れても、足はぴくりともしなかった。
医師の説明によれば、刺された場所が悪かったらしい。回復するかどうかは、これからのリハビリ次第だという。
医学部に合格し、ようやく父親から離れて、自分の人生を始められると思っていた。
それなのに。
「俺……立てねえじゃん」
呟いた声が、ひどく空虚に響いた。
ケンジはまだ目を覚ましていなかった。何か所も刺され、大量に出血したため、意識が戻るまで少し時間がかかるらしい。
家族と医師がそう話しているのを聞き、俺は少しだけ安堵した。
その後、後遺症も残らないだろうとも医師は言っていた。…お前も俺とは違うのか。
胸の奥はざわついていた。
気づけば俺は、ケンジのベッドの横にいた。
「……お前」
眠っている顔を見下ろす。
「お前はいいよな」
ケンジには普通の家庭がある。自分を心配してくれる家族がいて、友達がいて、これからも自分の足で歩いていける。
俺が欲しかったものを、こいつは持っている。
高校の頃から、心の奥底ではずっと羨ましかったのだ。
胸の奥に、黒い感情が湧き上がる。
「何で俺ばっか…」
拳を握りしめた。
ケンジは何も悪くない。俺を助けてくれた。分かっていた。それなのに、こいつばかりが恵まれているように思えて、どうしようもなく腹が立った。
「……殺してやろうか」
口から漏れた言葉に、自分でも驚いた。
そのとき、廊下から車輪の音が聞こえた。
ガタ、ガタと不規則な音を立てながら、利子がこちらへ向かってくる。
「……利子?」
彼女は自由に動かない手で、一生懸命に車椅子を動かしていた。
ほとんど目が見えず、歩くことも、うまく話すこともできない。それでも、ここまで自分で来たのだ。
「つらく、ないの」
俺が尋ねると、利子は答える代わりに、ケンジのほうへ車椅子を進めた。
「ほとんど見えない。歩けない。うまく喋れない……」
俺は言葉を重ねた。自分でも、何を確かめたいのか分からなかった。
「聞こえる」
俺は息を止めた。
「だから、悪口は聞こえるんだよね」
彼女には家族がいない。だから、厄介者扱いする声は彼女にも届いていたはずだ。
利子はケンジの手に自分の手を添えた。
表情筋はほとんど動かない。それでも、俺には笑っているように見えた。
出会ったときから、ずっとそうだった。
「……なんで」
俺は二人を見つめた。
「こいつ、小学校の頃に逃げたんだろ。中学も、高校も……会いに行ってないんだろ」
「それでも、こいつがお前にとって大事な友達なのか?」
利子はケンジの手を握り続けていた。
「……なんでだよ」
俺には目が見える。手も動くし、耳も聞こえる。自分の意思を言葉にできるし、本当なら自分の足で歩くことだってできる。
父親に認められない。自由がない。自分の人生を選べない。
俺はずっと、自分だけが不幸なのだと思っていた。
「……馬鹿みたいだな」
俺は利子を見た。
彼女は、目がほとんど見えなくても、人を見ている。
手が思うように動かなくても、誰かに触れることができる。
言葉がうまく出なくても、自分の意思を伝えている。
そして、歩けなくても、自分の力でここまで来た。
俺は思わず呟いた。
「お前、全部持ってるじゃん」
「お前……立派に自立してるよ」
初めて、足が動かないことを恥ずかしいと思わなかった。
誰かに支えてもらってもいい。誰かを支えたっていい。それでも、自分の人生を自分で選んでいくことはできる、そう思えた。
それから、長いリハビリ生活が始まった。
何度も転び、何度も投げ出したくなった。それでも、少しずつ足に力が戻り、やがて自分の足で歩けるようになった。
また三人で散歩ができるほどに回復した頃、ケンジが言った。
「お前、めっちゃ歩けるようになったじゃん」
「誰のおかげだと思ってんだよ」
「俺?」
「違う」
俺は利子を見た。
「こいつ」
利子は動かしにくい顔の筋肉を一生懸命に動かし、ほんの少し口角を上げた。
一人で立つことだけが、自立じゃない。
誰かに支えられても、自分で選んだ道ならそれでいい。
俺は、そうしてようやく自分の足で自立して一歩を踏み出した。




