第四章 謳歌
俺は、昔から何でもできた。
少なくとも、周りからはそう見えていた。
「兄ちゃん、これ教えて」
「いいぞ。ここはこうやって――」
「先輩、今度の試合なんですけど」
「任せろ。俺がまとめとく」
「お前さ、ほんと何でもできるよな」
「そうですか? 先輩ほどではありませんよ」
同級生には、よく笑う奴だと言われた。
後輩には、面倒見がいいと言われた。
先輩からは、頼りになると言われた。
先生からは、
「君なら、どこへ行っても大丈夫だ」
と、何度も太鼓判を押された。
勉強はできた。 スポーツもできた。 バスケットボールでは、県の代表に選ばれたこともある。
彼女からは、
「あなたって、理想の彼氏よね」
なんて言われた。
人の喜ぶことをした。 頼られれば応えた。 困っている奴がいれば助けた。
それは別に、嫌なことではなかった。
ただ、いつからか。
周りが俺をそういう人間だと思っていることと、俺自身がそういう人間であることの区別が、つかなくなっていた。
「お前なら医学科だろ」
「頭いいんだから医者になれよ」
「先生もそう思うぞ」
「絶対向いてるって」
みんなが言った。
俺も笑っていた。
「まあ、そうかもな」
自分が何をしたいのかなんて、考えたこともなかった。
考えなくても、何でもできたから。
医学部に入った。 授業を受けた。 試験を受けた。
周りからも相変わらず褒められた。
何も問題はなかった。
そう思っていた。
あの日までは。
「じゃあ、ここを見て」
解剖実習だった。
白い手袋。 白い服。 消毒液の匂い。
そして。
血。
視界が揺れた。
「あれ?」
次の瞬間、床が近づいてきた。
目を覚ましたとき、俺はベッドの上にいた。
「大丈夫か?」
「……はい」
大丈夫。
そう答えた。
その日のうちに、何度も言った。
大丈夫。 大丈夫。 大丈夫。
でも。
全然、大丈夫じゃなかった。
次の実習が怖くなった。 大学へ行くのが怖くなった。
誰かに、
「この前、倒れたんだって?」
と言われるのが怖かった。
あんなに何でもできると思われていた俺が、血を見て倒れた。
ただ、それだけのことなのに。
恥ずかしくて、情けなくて、大学へ行けなくなった。
そして、辞めた。
あっけないものだった。
何年も積み上げてきたものが、紙切れ一枚で終わった。
家には、一度だけ顔を出した。
この先の人生なんて、考えることもできていなかった。
けれど。
「大学を二年通ってからしか行けない航空系の学校があるぞ。受けてみたらどうだ?」
何もできず、大学に通うための賃貸で日々魂の抜けた毎日を過ごす俺に父親が、そう言いに来た。
「……は?」
「俺が?」
「お前ならできるだろ」
あまりにもあっさりと言うものだから、俺は思わず笑ってしまった。
「何でもできると思ってる?」
「できるだろ」
「……テキトーだな」
「空は自由だぞ」
「何それ」
「行ってみりゃ分かる」
意味が分からなかった。
けれど、俺にはもう、ほかに行くところがなかった。
だから、その学校に入った。
最初は、本気で無理だと思った。
訓練はきつかった。 覚えることも多かった。
何より、人の命を預かる。
俺の判断一つで、自分だけではなく、何十人もの人間の命が左右される。
俺に、その覚悟があるのか。
分からなかった。
それでも続けた。
父親が紹介してくれた場所だった。
医学科を辞めた。
その次まで辞めたら。
さすがに…。
だから、頑張った。
「大丈夫です」
「はい、できます」
「次はもっと上手くやります」
そう言い続けた。
そう言っていれば、何とかなる気がした。
ある日、訓練が終わったあと、俺は一人で機体の近くに立っていた。
エンジン音が響いている。
うるさい。
ものすごく、うるさい。
その音を聞いているうちに、何だか急に、どうでもよくなった。
「……俺」
声を出した。
聞こえない。
もう一度。
「俺、無理だ」
やっぱり聞こえない。
誰も振り向かない。
だったら。
俺は息を吸った。
「俺、無理だあああああ!!」
叫んだ。
エンジン音に消えた。
「怖えええええ!!」
消えた。
「人の命なんか背負えねえよおおおお!!」
消えた。
「医学科だって俺がなりたかったわけじゃねええええ!!」
消えた。
「兄貴だからって何でもできるわけじゃねええええ!!」
全部。
轟音の向こうへ消えていった。
「…………」
俺は肩で息をした。
誰も来ない。
誰も怒らない。
誰も失望しない。
当たり前だ。
誰にも聞こえていない。
「……はは」
笑ってしまった。
なんだ。
こんなに簡単だったのか。
怖いと言ってもいい。 無理だと言ってもいい。
俺が何を叫んだところで、空は落ちてこない。
世界は何も変わらない。
「……俺、馬鹿みたいだな」
しばらくして、俺は空を見上げた。
別に、急にパイロットになりたくなったわけじゃない。
怖いものは怖い。
人の命を預かることだって、今でも怖い。
それでも。
「……もうちょっとやってみるか」
初めて、誰かに言われたからではなく。
自分でそう思った。
久しぶりに、実家へ帰ることができる日があった。
玄関を開ける。
「おかえり」
母さんが言った。
「ただいま」
「最近、どう?」
「……まあまあ」
「そう」
いつもの母さんだった。
俺は靴を脱いだ。
父さんの靴が目に入った。
こんな時間に家にいるなんて珍しい。
いや、昔はよく家にいたはずだった。
ふと、昔のことを思い出した。
パフェ。
そうだ、俺はパフェが好きだった。
父親に連れられて入ったファミレスで、嬉々として甘いものを食べた記憶がある。
あの頃は、父さんと出かけるのも好きだった。
いつからだろう。
甘いものなんて、自分には似合わないと思うようになったのは。
男らしく。 兄らしく。 何でもできる人間らしく。
そんなものを意識するうちに、好きだったものまで、少しずつ忘れていったのかもしれない。
それから、母さんの方を見た。
母さんは、いつもの無表情だった。
昔、父親に言われたことを思い出す。
『母さんには内緒な』
父さんとパフェを食べた帰り道、綺麗な女の人と歩いているのを見た、と母さんに話してくれないかと言われた。
理由は覚えていない。
ただ、パフェを食べさせてもらった俺は、二つ返事で引き受けた。
子どもなんて、そんなものだ。
パフェは美味しかったし、父さんと出かけるのは楽しかった。
それだけだった。
「……母さん」
「何?」
「俺、昔さ」
母さんがこちらを見る。
「父さんが綺麗な女の人と歩いてたって、言ったじゃん」
「ええ」
「あれ」
一拍置く。
「嘘だから。父さんにパフェで買収されてた」
「……そう」
母さんは、何でもないように答えた。
俺は母さんの顔を見た。
相変わらず、表情はほとんど変わらない。
昔の俺なら、きっとそれで終わっていた。
母さんは怒っていない。 母さんは悲しんでいない。 母さんは何とも思っていない。
そう、勝手に決めつけて。
でも、今なら少しくらい分かる気がした。
母さんだって、傷ついたことがあったのかもしれない。
怒りたかったことも、悲しかったことも。
ただ、それを表に出さなかっただけで。
俺はずっと、母さんのことを知っているつもりだった。
けれど、俺が知っていたのは、母さんのほんの一部分だったのだろう。
俺は息を吐いた。
「……父さん」
「ん?」
「ちゃんと色々謝りなよ。土下座ぐらいしてさ」
「そうね」
母さんが即答した。
「即答かよ!」
思わず笑った。
「俺を愛してるって言ったのに」
父さんがぼそりと言う。
「でも、それとこれは別」
母さんが、ほんの少し笑った。
俺はまだ、パイロットになれるか分からない。
この先、また別の道へ進むかもしれない。
それでもいい。
もう、誰かが決めた「俺」じゃなくて。
自分で決めたい。
甘いものが好きなら、好きでいい。
怖いなら、怖いと言えばいい。
無理なら、無理だと言えばいい。
それでもやりたいなら、もう一度やればいい。
俺はずっと、何でもできる人間になろうとしていた。
けれど、本当に欲しかったのは、そんなものじゃなかったのかもしれない。
自分の好きなものを好きだと言えること。
怖いものを怖いと言えること。
誰かに笑われても。 失敗しても。 格好悪くても。
自分の人生を、自分の声で選ぶこと。
「……人生って」
俺は窓の外を見た。
青い空が広がっていた。
「案外、面白いのかもな」
「だから言っただろ。空は自由だって」
「それはちょっと違うと思う」
「なんでだよ」
俺は笑った。
「俺が自由だと思ったの、空じゃなくて」
一拍置く。
「飛行場の爆音の中だから」
「…………」
父親が呆れた顔をした。
俺は笑いながらこう思った。
今からは、誰に望まれた訳でもなく、俺が俺としてこの人生を思い切り、謳歌してやろう!ってな。




