第三章 返事
久しぶりに、家に早く帰った。
今日は次男が家を出る日だった。
県外の高校に進学するため、寮に入る。
別に、今生の別れというわけでもない。会おうと思えばいつでも会えるし、帰省だってするだろうからどんな激励の言葉をかけてやろうかなどと考えていた。
玄関を開けると、リビングから声が聞こえた。
妻と、子どもたちが何か話している。
俺は靴を脱ぎながら、何気なく耳を傾けた。
「三年」
「離婚」
「……そうね」
俺は固まった。
三年。
離婚。
そうね。
それだけが、妙にはっきりと耳に残った。
俺はそっと靴を履き直した。
玄関のドアを開ける。
閉める。
もう一度、開ける。
閉める。
……何をしているんだ、俺は。
とりあえず、外に出た。
「…………」
三年。
離婚。
そうね。
「……三年後に離婚される?」
口にした瞬間、胃が痛くなった。
待て。
三年ある。
三年もある。
いや、三年しかない。
どっちだ。
いや、どっちでもいい。
とにかく俺は、妻に捨てられる。
そう理解した瞬間、今までの人生で味わったことのない焦燥に襲われた。
いや、待て。
そもそも。
俺は、どうしてこの人と結婚したんだっけ。
妻と出会ったのは、合コンだった―。
俺は一目惚れした。
綺麗だった。
本当に綺麗だった。
大きな二重の目。長いまつ毛。切れ長の目元なのに、笑うと柔らかくなる。食べてしまいたくなるほどぷるっとした唇。
……断じて、夫の贔屓目ではない。
俺は、その場にいた誰よりも早く声をかけ、翌日のデートまで取り付けた。
そして翌日。
赤いスポーツカーの前で、百本のバラを抱えて待っていた。
完璧だった。
……妻が乗ってきたのは、緑色のパジェロだった。
俺の車より何倍も大きい。
「…………」
俺が呆然としていると、妻は平然と言った。
「ここ、冬は雪がすごいから。出勤が楽なように、この車にしてるの」
なんて効率的でスマートなんだ。
好き。
その日のうちに、どんどん更に好きになっていった。
妻は、派手に感情を表現する人ではなかった。
しかし、困っている人がいれば自然に助ける。
必要なものを黙って用意する。
俺が熱を出せば、薬と水を置いていく。
実家にいた頃には、手紙をくれたこともある。
裸んぼのキューピーが描かれた封筒だった。
あれを祖父に見つけられたときは、
「これはどこのお嬢さんからだ!」
と詰められて死ぬほど怖かった。
それでも。
俺は、この人と結婚したかった。
そして、結婚した。
ところが、披露宴の二次会で、妻の友人だという女たちが酒を飲みながら俺に近づいてきた。
「旦那さん、知ってますぅ?」
「何をですか?」
「あの子ってぇ、学歴で夫選んだんですよ?」
「……は?」
「異常に学歴とかお金とかに執着してるんです。結婚してから本性見せてきて怖いなぁって思ったら、いつでも相談してくださいね!」
俺は笑って流した。
悪質なデマだと思った。
妻がそんな人間ではないことくらい、俺が一番知っている。
……そう思っていた。
妻が俺の家柄や学歴、仕事を気にしていたことは確かにある。
「あなたの実家って、すごいのね」
「その大学なら安心ね」
「その仕事なら安定してるわね」
何気ない言葉だった。
それなのに、一度植えつけられた疑念は、しつこく頭の中に居座った。
そして、次男が生まれて物心がつく少し前。
俺は、あることに気づいた。
妻に。
愛してるって。
言われたこと、なくない?
好きって。
言われたことも。
……ない。
その事実に気づいたのに、俺は聞けなかった。
もし、
「あなたのこと、愛してないわ」
なんて言われたら。
俺は、たぶん死ぬほど傷つく。
だから、聞けなかった。
代わりに、確かめることにした。
妻が俺を愛しているなら、嫌なことをしたら怒るはずだ。
心配するはずだ。
引き止めるはずだ。
……今思えば、どういう理屈だ?
最初は煙草だった。
妻の前で吸った。
「煙草、吸うようになったの?」
「……まあな」
「そう」
終わり。
「…………」
いや、終わり?
次はパチンコだった。
「どこに行ってたの?」
「パチンコ」
「そう」
終わり。
次は、わざと帰宅を遅くした。
「遅かったわね」
「うん」
「夕飯は?」
「食べる」
「分かった」
終わり。
最後は、女と飲んでいたと嘘をついた。
妻は黙って俺を見た。
「……誰と?」
きた。
俺は内心で拳を握った。
「女」
「そう」
「…………」
「夕飯、食べる?」
「食べる」
……なんでだよ。
俺はその夜、自分でも何をしているのか分からなくなった。
妻が怒らないことが怖かった。
いや。
妻が怒らないことで、自分が愛されていないという答えを突きつけられるのが怖かったのだ。
だから、試し続けた。
何十年も。
そして、今に至る。
「…………」
俺は路上で頭を抱えた。
「俺、何してんだ?」
本当に。
何をしていたんだ。
妻を愛していた。
失いたくなかった。
それなのに、愛されているかどうかを確かめるために、わざわざ妻を困らせるようなことばかりしていた。
「……やばい」
俺は顔を上げた。
「やばいやばいやばい!」
三年しかない。
いや。
三年もある。
まず、煙草をやめた。
箱ごと捨てた。
パチンコの会員カードを全部処分した。
俺は決意した。
変わろう。
妻に愛されるために。
……いや、違う。
愛しい妻を失わないために。
その数日後。
妻が俺に尋ねた。
「煙草、やめたの?」
「ああ」
「パチンコも?」
「ああ」
妻は少し目を丸くした。
「そう。身体には良くないものね」
「……うん」
それだけだった。
いや、まあ、そうだろう。
身体に良くないものだし。
パチンコだって、家計に良いものではない。
妻の言うことは正しい。
正しいのだが。
「…………」
……もう少しくらい、何かない?
いやいやいや。
何を期待しているんだ、俺は。
妻は俺の健康を心配してくれている。
それで十分だろう。
そう思った。
思ったのだが。
三日後、俺はスマートフォンを握りしめていた。
検索欄には、
『妻 離婚 回避』
と入力されている。
俺は真剣に画面を見つめた。
なるほど。
コミュニケーションが大切。
感謝を伝える。
相手の話を聞く。
記念日を大切にする。
俺は頷いた。
よし。
やろう。
さらにスクロールする。
『専業主婦は二十四時間三百六十五日休みなし』
「…………は?」
俺は画面を見直した。
二十四時間。
三百六十五日。
「いや、待て待て待て」
妻は専業主婦だ。
俺は仕事に行く。
仕事が終われば帰るのが普通だ。(俺はわざと帰らず、車中泊して外で架空の浮気相手と外泊したように見せて妻の気を引こうとしていたが…)
休日だってある。(俺は…以下略)
だが、妻は?
……いや、家にいることと休んでいることは別なのか?
俺は真剣に考えた。
朝食を作る。
洗濯をする。
掃除をする。
買い物をする。
夕食を作る。
片付ける。
それが毎日。
毎日?
「…………」
俺はスマートフォンを握りしめた。
「俺、何してたんだ……?」
妻は、俺が仕事をしている間も家を守ってくれていた。
俺が当たり前のように帰ってこられる場所を、毎日整えてくれていた。
それを、俺は当たり前だと思っていた。
いや、違う。
思っていたというより、考えたこともなかった。
「よし」
俺は立ち上がった。
「家事は分担する!」
妻がリビングから顔を出した。
「……何?」
「これからは俺も家事をやる!」
「そう?」
「そうだ! 家事は二人の仕事だろ!」
妻は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、お皿を洗ってくれる?」
「任せろ!」
俺は台所へ向かった。
離婚回避のために。
いや。
妻の負担を減らすために。
……あと、できれば愛情も増やしてほしい。
俺は黙々と皿を洗った。
終わった。
「終わったぞ!」
「ありがとう」
妻は微笑んだ。
「助かったわ」
「…………」
助かった。
そうか。
助かったのか。
俺は、なぜか胸を張りたくなった。
よし。
この調子だ。
俺はその後も、できる範囲で家事を分担するようになった。
妻が忙しそうなら手伝う。
休日は一緒に買い物に行く。
食事の片付けもする。
妻はそのたびに、
「ありがとう」
と言った。
「助かるわ」
とも言った。
「…………」
俺は何を待っているんだ?
ありがとう。
助かるわ。
それで十分なはずなのに。
俺は、まだ何かを待っていた。
数日後、仕事帰りに花を買った。
店員に相談までして、妻が好きそうな花を選んだ。
家に帰る。
「これ」
「私に?」
「ああ」
妻は花を受け取った。
「ありがとう。綺麗ね」
「……そうだろ」
妻は花を眺め、花瓶を取りに行った。
大切そうに飾ってくれた。
俺はその様子を見ていた。
喜んでいる。
ちゃんと喜んでくれている。
なのに。
「…………」
俺は、何を求めている?
その週末、妻を外出に誘った。
「今度の休み、一緒に出かけないか?」
「どこへ?」
「最近できた大きなショッピングモールとか…そういうの好きだろ?」
妻は少し驚いた顔をした。
「珍しいわね」
「……嫌か?」
「ううん」
妻は首を振った。
「楽しみ」
俺は嬉しかった。
本当に嬉しかった。
妻が、俺との外出を楽しみにしてくれている。
それだけで、こんなに嬉しい。
なのに。
――愛してる、は?
「…………」
俺は自分の頭を殴りたくなった。
馬鹿か、俺は。
妻は楽しみだと言ってくれた。
花だって喜んでくれた。
家事をすれば感謝してくれる。
煙草をやめれば身体にいいと言ってくれる。
俺が何かをすれば、妻はちゃんと受け取ってくれている。
それなのに、俺は。
「…………」
いや。
待て。
俺は、妻に何を返している?
妻に愛されているかどうか。
妻が自分をどう思っているか。
そればかり考えてきた。
俺は?
妻に何を伝えた?
何を言った?
何をしてきた?
俺は、立ち止まった。
思い出せなかった。
いや。
違う。
思い出せないのではない。
最初から、何も伝えていなかったのだ。
「…………俺、馬鹿じゃん」
妻に愛してほしかった。
妻が自分を愛してるかを確かめるために、わざと困らせるようなことをした。
それなのに、自分は妻が好きだと愛してると一度も伝えていなかった。
俺は、ゆっくりと引き出しを開けた。
そこには、昔妻からもらった手紙が入っていた。
裸んぼのキューピーが描かれた封筒。
何年経っても、捨てられなかった。
俺はそれを見つめた。
妻は、俺に手紙をくれたことがあった。
毎日、家の家事をしてくれた。
子どもを立派に育ててくれた。
俺が体調が悪いとき、熱心に看病してくれた。
俺のために花を飾ってくれたわけではないが、俺が贈った花は大切に飾ってくれた。
「ありがとう」と言ってくれた。
「楽しみ」と言ってくれた。
俺は、それらを愛情だと認めるのが怖かったのかもしれない。
もし愛されているのなら。
もし本当に愛されているのなら。
どうして、俺はこんなにも愛していると言えなかったのだろう。
俺は、手紙を取り出した。
そして。
初めて、返事を書くことにした。
便箋を一枚。
ペンを持つ。
何を書けばいいのか分からない。
何度も書いて。
消して。
破って。
最後に。
たった一言だけ残した。
『愛してる。』
「…………」
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
こんなことを、今さら。
何十年も一緒に暮らしてきた妻に。
それでも、これでいい。
聞けなくても。
伝えることはできる。
俺は手紙を封筒に入れた。
そして翌朝。
妻に渡した。
「これ」
「手紙?」
「うん」
妻は受け取った。
俺は、それ以上何も言えなかった。
仕事へ行こうと玄関へ向かう。
その背中に、妻が声をかけた。
「あなた」
「ん?」
妻は手紙を見た。
そして、少しだけ間を置いて言った。
「今日、帰ってきたら返事するね」
「…………」
俺は、何も言えなかった。
ただ、
「……おう」
とだけ答えた。
家を出る。
ドアが閉まる。
俺は一人で拳を握った。
今日、返事がもらえる。
怖い。ものすごく怖い。
でも。
初めて、待ってみようと思えた。
妻からの――
返事を。




