第二章 抱擁
「旅立ちの前にさ、何か話とかないの? 熱い抱擁とかさ?」
愛する我が子に、そう言われた。
そう。今日は、この子がほかの子よりも早く、親元を離れる前日だった。
こういうとき、親なら泣くものなのだろうか。
寂しいのは確かだった。 けれど、胸が張り裂けそうだとか、離れたくないだとか、そういう感情をどう表せばいいのか、昔から感情を表に出すのが苦手だった私にはよく分からなかった。
…この子は、親にも本心を話さない。
ただ、ずっと何かに苦しんでいたことだけは、親だから分かっていた。
だから、県外への進学を希望したときも、理由を問い詰めることはしなかった。
この子には、この子なりの事情があるのだろう。 そう思った。
聞けば、話してくれたのだろうか。 それとも、余計に傷つけてしまったのだろうか。
それも今となっては分からない。
「……昔話でもいい?」
そう尋ねると、息子は少し驚いた顔をした。
「珍しいね。母さんが自分の話をするなんて。聞かせてよ」
興味深そうにこちらを見るものだから、これから話すのが暗い話であることを、少し申し訳なく思った。
けれど、誰かに話したいと思ったことなど一度もなかった過去を、この子には話してみたいと思ったのだ。
私は、それでいいのだと思い直した。
「……私の祖父母はね」
少し考えてから、口を開いた。
「とても賢い次女を、高校に進学させなかったの」
「次女?」
「私の母の妹ね」
息子は黙って聞いていた。
「昭和の時代だったから。女性であること。家の都合。そういうものがあったのよ」
「……その人、何になりたかったの?」
「教師」
私は答えた。
「でも、なれないことは、その時点でもう決まってしまったようなものだった」
「……どうしたと思う?」
息子は少し考えてから、口を開いた。
「……家出とか?」
私は緩やかに首を振った。
「家の田んぼで、自殺したの」
今思えば、あまりにも他人事のような言い方だった。
けれど、そう言わなければ話せなかった。
「……その人は、どんな人だったの?」
「親孝行な人だったそうよ。ほかの兄弟はろくに手伝わなかったのに、その人だけは、よく家の農作業を手伝っていたんだって」
「……そうなんだ」
「先生も進学を勧めていたらしいわ。同級生にも、近所の人にも好かれていたそうよ」
私は、そこで一度言葉を切った。
「それでも、進学はさせてもらえなかった」
息子は何も言わなかった。
「本当はね、親に好かれたくて、一生懸命だったのかもしれない。自分を進学させる気がないことに気づいていて、それでも、少しでもいい子でいれば何か変わるんじゃないかって」
「皮肉だったんじゃないかって言う人もいたわ。あれだけ親のために働いていた場所で、って」
少しだけ、沈黙が落ちた。
「でも、私は別のことも考えてしまうの」
「別のこと?」
「そこが、その人に残された最後の居場所だったのかもしれないって」
口にしてから、自分が何を言っているのか、分からなくなった。
本当のことなんて、誰にも分からない。
その人が何を思い、何を望み、最後に何を考えていたのか。
もう、聞けないのだから。
「その人の弟はね、姉の代わりに大学へ進んだの」
「……姉の夢を継ごうとしたの?」
「そうだったのかもしれないわね。教育学部に進んだそうよ」
私は息をついた。
「でも、その人も不慮の事故で亡くなった」
息子は黙っていた。
「それで、祖父母は言ったの。これは姉の祟りだって」
息子が眉をひそめた。
「死んでもまだ迷惑をかけるのか、って」
そこで一度、言葉を切った。
「それで、お墓を壊したの。だから、叔母さんにはお墓もないのよ。だから、あなたは叔母さんを知らなかったの」
「……両親は、生前も死後も大叔母さんを傷つけ続けたんだな。自分の子だというのに……。信じたくないな」
私は深く頷いた。
「それで私ね、叔父さんに最後に会ったとき、誕生日にハンカチをもらったことを、ずっと後悔していたの」
「ハンカチ?」
「ええ」
「今思えば、ハンカチって、お別れを意味するじゃない? そんな縁起の悪いものを、遠くの大学に行く前の人から喜んで受け取るだなんて……」
「ああ……」
息子が小さく息を吐いた。
「だから、人の誕生日にハンカチを渡すなって言ってたのか」
「覚えてたのね」
「そりゃ、母さんの話をいつだって真面目に聞いてるエリートだから、覚えてるよ」
少しだけ、部屋の空気が柔らかくなった。
けれど、私はまだ話をやめなかった。
「私の母はね、ずっと後悔していたの。何も考えていない馬鹿な自分が、生き残ったことを」
「……」
「でもね、私の母も、決して聖人だったわけじゃないのよ。他人の夫を奪って、家庭まで作ったんだから」
「え?」
「それが、私のお父さん」
息子は目を丸くした。
「早くに亡くなって、その会社の借金まで背負ったけどね」
私は笑った。
笑える話ではないのに。
「結局、一緒に苦労してきた妹に騙されて、わずかなお金を奪い取られて……」
私は一度、息を吸った。
「気が狂ったんだね」
息子が言った。
「母さんが結婚して生活が安定してきて、精神科から引き取って家に住まわせたよね? うまくはいかなかったけど。家の物を壊すわ、壊すわ」
「そうだったわね」
私は苦笑した。
「それでも、あの人は私の母親だったから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
母親だから。
それだけで、許せることなんて何もなかった。
けれど、母親だから、捨てられなかった。
「私ね……」
私は続けた。
「学生時代、中卒のシングルマザーの子どもとして、蔑まれてきたわ」
「……」
「高校進学のとき、トップの高校の推薦枠をめぐって、教員の子の親が学校に怒鳴り込んできたのよ」
私は、そのとき言われた言葉を思い出した。
「『中卒の子なんかに』って……」
一度、息を止めた。
「思えば、いつもその言葉で、私は夢を叶えることも、見ることもできなかったわ」
息子は辛そうな顔をしていた。
「そして、もらえるはずだった推薦枠がなくなった」
あっけないものだった。
親が懇談に一度も来なかったから。
私の人生なんて、その程度のものだった。
「別の高校に通って、最終的には無料の看護学校へ進んだの」
「すごいじゃん! 難易度高いよね?」
「そう?」
一生懸命、私を励まそうとしてくれている息子に、どう接すればいいのか、私には分からなかった。
「その分、夫の学歴にはこだわったけどね」
息子が苦笑した。
「叔母さんも、叔父さんも、私も。結局は親によって縛られて、苦しめられた人生だったと思うの」
私は、息子を見た。
「だからね。私は決めたのよ。あなたたちには、同じ思いをさせないって」
大きな家に住んで、車もあって、何不自由ない生活を送る。
好きな学校へ進み、好きなことを学ぶ。
自分の人生を、誰かの都合で諦めなくていいように。
「私の人生は、あなたたちや、その次の世代、それから先もずっと、苦労しないようにするために捧げるって決めたの。そうすれば、悲劇を二度と繰り返さずに済むと思ったから」
私は息子を見つめた。
「だから、あなたたちは自由なの」
そして、昔から何度も繰り返してきた言葉を口にした。
「好きなように生きなさい」
「好きなようにって……」
息子は少し悲しそうに笑った。
「分かったよ」
その顔を見て、私は思った。
また、何か間違えたのだろうか―。
この子の兄も、数学ができた。
いつも、ほとんど満点だった。
周囲の同級生も、先生も、みんな言った。
「理系の天才だ」
本人が何を好きなのかなんて、誰も聞かなかった。
期待されるまま理系へ進み、医学科に入った。
けれど、本当は血を見ることすら苦手だった。
何も言わずに大学を辞めて帰ってきた日。
そのときも、私は言った。
「好きなように生きなさい」
それは、私が一番言いたかった言葉だった。
一番、子どもたちに言ってあげたかった言葉だった。
「……まるで呪いのような言葉だね」
そう言われて私は、二度と言わないと決めたはずなのに…。
「……ねえ、母さん」
息子が言った。
「幸せ?」
「……あなたたちの幸せがお母さんの幸せよ」
それだけを言った。
夫があまり家に帰ってこず、浮気をしていることも。
この子の兄が、私の欲しかった学歴を簡単に手放したことも。
傷つくべきだったのだろう。
怒るべきだったのだろう。
泣いてよかったのだろう。
でも、私はどうしていいのか分からなかった。
私は、愛が分からないなんてことを信じたくなかった。
優しく微笑むことも。
励ます言葉をかけることも。
私は、ずっと分からなかった。
誰かに愛された記憶が、ほとんどなかったから。
愛を信じられなかったから。
愛が怖かったから。
良い母親になれなくて、ごめんなさい。
その言葉を、口には出せなかった。
「俺は、母さんのことを誤解してた」
息子は息を小さく吸った。
「…愛して、裏切られるのが怖いんだね」
私は顔を上げた。
「だから、どこか一線引いて、仮面を被ってる」
胸の奥が、少し痛んだ。
私は、悲しいときも、腹が立つときも、嬉しいときも、どう表せばいいのか分からなかった。
だから、何もないような顔をした。
何も求めていないような顔をした。
そうしていれば、誰かに拒まれることも、期待を裏切られることもないと思っていた。
「でもね」
息子は笑って、私の手を握った。
「母さんは、もっと周りに求めてもいいんだよ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
私はずっと、要求してはいけないと思っていた。
欲しがってはいけない。
期待してはいけない。
手を伸ばしてはいけない。
そうしなければ、裏切られたときに傷つかなくて済むから。
でも。
本当に、手を伸ばしてもいいのだろうか。
目の前の息子は、私に似て無表情だった。
それなのに、穏やかに笑っている。
この子は、どうやってこんな笑みを覚えたのだろう。
あの女の子が、私の息子に与えてくれたもの。
それが、こんなにも温かいものだったなんて、私は知らなかった。
知らなかったのか。
それとも、見ようとしてこなかったのか。
考えるより先に、身体が動いていた。
少し前に、私の身長を追い越した我が子を、私は抱きしめた。
「はは。ちょっと照れ臭いな」
息子の身体は、昔よりずっと大きくなっていた。
それでも、腕の中に入ってしまう。
「……愛してる」
口にした瞬間、涙が出そうになった。
ああ。
これは、絶対に嘘じゃない。
「母さん」
息子が言った。
「僕もだよ」
少し間を置いて、続けた。
「ずっとありがとう。これからも、たまーに迷惑かけるかもだけど、よろしく」
「ふふ。何よ、それ」
涙が、いつの間にか流れていた。
息子は驚いた顔をした。
それから、すぐに緩やかに笑って、ふと扉の方を見た。
「兄さん、いつまで突っ立ってるの?」
「おう。俺はお前が寮に入ると聞いてだな、見送りに来たんだが……」
この子の兄が、わざとらしく胸を張った。
「俺がどんなに悪いことをしても、良いことをしても、母さんに泣かれたことないぞ!」
「……」
長男は少し思案しているようだった。
「てことは俺、興味、関心を持たれてない説! つまり、嫌われてるぅ!」
「本当に馬鹿ね」
「いや、本当に悪いことを最近した自覚はあるけどさ。傷つくかも……」
「自分の子を嫌うことなんてできないわよ」
私は、愚かで可愛い息子も抱きしめた。
「母さん!」
「で、あのクズは?」
彼の言うクズとは夫のことだ。
「タバコ吸ってんじゃね?」
廊下から、ガタッ、と音がした。
三人とも黙った。
「……まっ」
聞かせるように、少し大きな声で言う。
「さすがに、パチンコしいの、タバコ吸いいので、浮気するやつに与える愛とかないからなあ」
「母さん、俺が大学合格したら、アレとは別れたら?」
「あと三年かー、長いぞ! お前、飛び級しろ!」
「ふふ、そうね」
私は笑った。
翌日、私は息子を見送ったあと、家に帰った。
玄関を開ける。
静かな家だった。
ゴミ出しのためにゴミ袋の口を括ろうと、袋を持ち上げた。
中には、タバコの箱と、大量のパチンコ店の会員カードが捨てられていた。
私は、それをしばらく見つめていた。
どうやら、息子がいなくなっても、いつも作る二人分の夕食は変わらなさそうだった。
私は台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
夕食の準備をする。
その途中で、ふと手を止めた。
私は昨日、自分の子どもを抱きしめた。
たった、それだけのことだった。
なのに。
胸の奥に、ずっと小さく丸まっていたものがある気がした。
泣くことも。
怒ることも。
甘えることも。
誰かに愛してほしいと言うこともできなかった、小さな私。
私はずっと、その子を見ないふりをしていた。
あの子は、どんな顔をしていたのだろう。
何を言いたかったのだろう。
何を、欲しがっていたのだろう。
分からない。
ずっと、分からないままだった。
けれど。
今なら、少しだけ分かる気がした。
抱きしめてほしかったのだ。
誰かに。
ただ、それだけだったのだ。
私は、こうしてやっと。
悲しんでいる幼い私を、抱擁できた気がした。




