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第一章 失明

 進路希望を書く紙を前にして、俺は溜息をついた。

 白い紙の中央に、「第一志望」と書かれている。その下は、まだ空白だった。


「ケンちゃーん! 何、悩んでんのー?」

 俺は咄嗟に紙を伏せた。


「はーん? 進路のことだなー!」

 背中を思いのほか強く叩かれ、俺は顔をしかめた。


「何も悩む必要ねえじゃん。国内でも五本の指に入る進学校で、その中でもトップが進む先なんて、決まったようなもんだろ!」


「お前は決まったのか?」


「もっちろん! 医学科で候補は絞ったぞ」


「お前、医師になりたかったのか?」


「いや、別に?」

 あっけらかんと言って、そいつは笑った。


「でも、トップの学科って医学科じゃーん。T大より国家資格が確約されてるぶん、熱くない? それに、俺ちゃんが賢いって証明になるじゃん。実際、働く気はなくってもね」


 向かいの席に座っていた女子が、こちらを振り向いた。

「ケンくんも医師を目指してるんじゃなかったっけ?」


「そういう君は?」


「私は、医師になるために生まれてきたから、医学科一択」

 少しも冗談めかしていない顔で言ったあと、彼女は笑った。


「落ちたら自殺するし、受かった人も殺しちゃうかも。ふふ」


「ちょっ、俺ちゃん殺されちゃうじゃーん。やめてー」


 周囲から笑い声が上がった。

 俺は笑えなかった。


 多くの人間は、肩書きや数字、誰にでも分かるような価値を好む。

 そういうものを手に入れれば、人間としての価値まで証明できるような気がするのだろう。


 俺には、それが分からなかった。

 医師は、俺にとって装飾品じゃない。


 だからこそ、この紙にその文字を書いた瞬間、俺もあいつらと同じになってしまう気がした。

 あいつらにとって、俺が医師を目指す理由なんて、物語みたいで面白い、と笑われる程度のものなのだろう。


 それが嫌だった。

 けれど、それ以上に怖かった。


 俺には、一番の親友がいる―。

 彼女は俺よりずっと賢くて、正義感が強かった。


 いじめられていた俺を助けてくれたのも、彼女だった。

 そのせいで、俺たちは二人そろって教室に閉じ込められた。

 そして、それが俺たちが初めて話した日だった。


「ごめん。僕のせいで……」


「……ねえ、憲司って言ったよね?」

 突然そう言われて、俺は顔を上げた。


「憲法を司る。なかなかかっこいい名前じゃない」

 彼女は笑った。


「あたしは利子って書いてリコよ」

 彼女は黒板に文字を書いた。


「利子?」


「そう。パパもママもろくに勉強してこなかったから、本当は莉子ってつけたかったのに、漢字が分からなかったんだって」

 黒板に書いた二つの文字を見比べて、彼女は肩をすくめた。


「私は検事になりたいのに、これじゃ悪徳銀行マンだわ」


「……ふふ」


「笑ったわね?」


「ごめん」


「いいわ。笑わせたかったんだもの」


 …彼女は弁が立ち、頭の回転も速かった。

 うまく表情や言葉で感情を表せない俺にとって、彼女は憧れだった。


 そして、初めてできた親友だった。


 彼女は、夢がないなら二人で法曹を目指そうと言った。

 それが何より嬉しかった。


 彼女は正義感あふれる検事。俺は、憲法を司る名前だから裁判官なんてどうだろう。

 そんなふうに彼女が思い描いてくれる未来が、俺には宝物だった。


 二人で図書館の六法全書を眺め、将来の話をしては胸を躍らせる。

 そんな日々が、何より楽しかった。


 母の車を見て、

「わぁ、こんな素敵な車に乗っていいんですか!?」

 と目を輝かせたこともある。


 母は彼女のことを、

「すごく賢い子ね」

 と言った。


 いつも無表情で無感情な母の顔に、そのときだけ、ほんの少し喜びの色が浮かんでいたのを覚えている。


 あの頃の俺たちは、未来の話ばかりしていた。

 そんな未来が、当たり前のように地続きにあると信じていた。


 けれど、ある時期から、彼女は体調を崩すようになった。


「そばにいて」

 そう言われる日が、一ヶ月近く続いた。


 俺にも付き合いがあった。

 クラスで遊ぶ約束もあった。

 それに、ずっと苛立っている彼女のそばにいることに、少し疲れていた。


 いや、違う。

 俺は幼稚だった。ただ、自分の体面を優先しただけだった。


 そして、ある日。

 俺は彼女から逃げて、遊びに行った。

 翌朝も、気まずさから話しかけられなかった。

 その日の昼。

 彼女は給食を吐いた。

 俺は駆け寄った。


 病院には、以前から行くように勧めていた。

 そのときは、懇願した。

 もっと強く言えばよかった。

 もっと怒ればよかった。

 無理やりにでも連れていけばよかった。

 そんな後悔ばかりが浮かんだ。


 彼女は、親にも自分の体調について十分に話していなかった。

 彼女の家は会社を経営していて、ちょうど仕事が軌道に乗り始めた頃だった。親に迷惑をかけたくなかったのだという。


 春の検診では、片目の視力が急激に落ちていた。

 もし、その時点で誰かが脳の病気に気づいていたら。

 もし。

 もし。


 今でも、その「もし」が俺の中に残っている。

 そして、何より許せないのは、視力が落ちていたことを知っていたのに、誰よりも彼女のそばにいたはずなのに、何もしてやれなかった自分だった。


 市内の病院では処置できなかった。

 県内で最も大きな病院でも手術はできず、最終的に、地方で最も大きな小児脳神経外科のある大学病院へ運ばれた。


 一命は取り留めたが、彼女は植物状態になったと母伝手に聞いた。


 不運なことに、その後、世界はコロナ禍に包まれた。

 俺は彼女の顔を見ることすらできず、悶々とした日々を過ごし続けた。


 一年。

 二年。

 三年が経った。


 彼女が目覚めたと聞いたのと、コロナ禍が明けたのは、ほぼ同時だった。


 俺はすぐに駆けつけた。


 一命を取り留めた。

 本当に、それだけだった。


 そこで見た彼女は、いくつもの管につながれ、虚ろな目をしていた。はっきりした言葉も出せず、寝たきりで、身体も自由に動かない。


 生かされているだけの屍。

 そんな言葉が浮かぶほどの姿だった。


 俺は逃げた。

 

 変わり果ててしまったその姿が、自分の罪を突きつけてくるようで、向き合えなかった。


 そして、あの頃の彼女を知っている俺にとって、それは、彼女のこれまでの人生すべてを否定し、「ゼロ」を突きつけられることのようにも思えてしまったからだ。


 小学校の卒業式の日。


 彼女と仲が良かった人たちが、卒業アルバムの下学年のページを見て言った。

「これ誰?」


 辛かった。

 俺にとっては、世界で一番大切な人だったのに。


 彼女がいなくなっても、世界は何事もなかったかのように進んでいく。

 そんな世界が、俺にはとても生きづらかった。


 中学校で、俺は悪いグループに目をつけられ、毎日嫌がらせを受けた。


 それでも、医師になるために勉強を続けた。

 そして俺は、県外の偏差値七十を超える高校へ進んだ。今は寮にいる。


 俺には、多分、勉強の才能がない。

 俺の兄は、俺とは違い、何をやっても人よりうまくできた。


 身近で天才を見てきた俺は、自分がどれほど凡人なのかを理解していた。


 だから、努力するしかない。

 できないなら、やるしかない。

 それだけだった。


 寮にまで入って、遠くまで来て、勉強をして。

 それでも俺は、ある疑念を自分の中から消せずにいた。


『俺は逃げているだけなんじゃないか?』


 彼女を元の人生に戻すために、医師を目指す。

 聞こえはいい。


 けれど、彼女の夢が叶うことは、もう二度とない。

 何をしたって、元には戻らない。


 そんなことは、言われなくても分かっていた。


 彼女がいなくなって初めて、自分が裁判官になりたかったわけではないと気づいた。


 だから、医師になれば、少しでも彼女の役に立てると思った。


 会うことを恐れている奴が、何をほざいているのだろう。

 ああ、本当に自分勝手な自己満足だ。


 自嘲するしかなかった。


 ごめんなさい。

 向き合えなくて。


 ごめんなさい。

 逃げて。


 ごめんなさい。

 それなのに、僕は生きていてほしいなんて、身勝手に願ってしまって。


 もしかすると、医師になって彼女の役に立つということは、彼女が「死にたかった」と恨み言を言うことすらできないまま、生きる屍でいる時間を延ばすことなのではないか。


 そんなことに、薄々気づき始めていた。


 丸めては広げた進路調査の紙には、消えない皺がついていた。


 何をしたって、もう戻れない。


 せめて。

 あの日。

 あの時まで。

「ずっと笑顔で彼女のそばにいればよかったなあ……」


 あぁ。

 俺は、あの日失明したんだ。

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