ピアノ
花が少し離れた街に何日間か、試験を受けに行かなくてはならないという事で、誠也のレッスンを中断して3人で駅までやって来た。
駅までは歩ける距離だ。
それでもキャリーバッグを引き摺りながら歩くには距離があるので車を出したが、僕の運転は花には怖いものとして扱われている。
たまに一人で郊外のオートキャンプなんかに行くし、同い年の中では中々走行距離もある方だと思うのだが、花曰く、そういう事ではないらしい。
「ちっちゃい頃から一緒にいて、今でもその頃を思い出せる存在が車を運転しているのが怖い。」
分かるような分からないような感じだ。
そう言えば、僕も花の運転する車の横に座ると、なんだかノスタルジーな気分になった事がある。
それを怖いと表現するのは疑問だけれど、気持ちは分からないでもない。
木の棒を剣に見立てて振り回して居た少年が、気づくと鉄の塊を操作しているのは、確かに違和感があるだろう。
駅の近くのボッタクリ駐車場に甘んじて車を止めて、駅の中まで歩いていく。
ホテルが併設されており、昔は寂れかけたデパートがそれにくっついて居たのだが、気がつくとイオンになっていた。
流石にイオンになったときは寂しく感じたが、誠也なんかは逆にイオンにノスタルジーを感じるようになるのだろうか。
改札まで無事に花を見送り、新しくなったらしい駅をふらついてみようかと提案すると、誠也は頷いてくれた。
とは言え田舎の駅などお土産コーナーくらいしか店舗はない。
「せっかく駅まで来たからさ、蕎麦とか食べて帰ろうか。」
そう提案した誠也の視線の先にはピアノが置いてあった。
立派なグランドピアノで、所謂ストリートピアノ。
誰でもご自由にどうぞのあれだ。
◆
夜に学校からピアノの音が聞こえる。
古来からよくある怪談だが、音大生になると分かる。
多分あれは普通に、音楽の先生が授業で使う曲の練習をしているのだろう。
グランドピアノは大きな楽器で、音量の調整も効かない。
キーボードで代用する事も出来るが、鍵盤の重さの再現は難しく、結局のところ本物を弾くことでしか得られない感覚もある。
アップライトピアノやオルガンの高級機だと、再現されていたりもする。
けれども、高級機は本当に高級なのだ。
授業の為の練習機器に、軽自動車が新車で買えるような額をポンと出すのは、躊躇われることだろう。
先生はヴァイオリンが専門ではない。
大学もピアノで進学したらしいし、母がピアノ講師らしく、髭の師匠のところへ放り込まれるまではピアノしか弾いた事がなかったとのことで、実際ピアノの方が得意らしい。
俺は先生のピアノを聴いてみたかった。
ピアノはどこにでもあるけれど、勝手に弾いていいピアノとなればどこにもない、そんななぞなぞみたいな存在だ。
なので、先生が弾いている姿を今まで見たことがなかった。
「先生、あれ。」
駅の構内に、ストリートピアノが置いてあるのが見えて、俺は心が躍った。
もしかしたら先生が弾いているのを見られるかもしれないと思ったのだ。
「おぉ、田舎には珍しいね。
なんか弾いて欲しいのかい?」
「うん。
本当は先生と一緒に演奏したかったけれど、俺、ヴァイオリン持って来てないからなぁ…。」
「…そう?
そう思ってくれているだけで嬉しいよ。
丁度お客さんもいないみたいだし、弾いちゃおうかな。
リクエストはある?
なんか聴いてみたいやつとか。」
…リクエスト?
ないよ、ない。
俺はクラシックに興味を持ってヴァイオリンを弾き始めた訳ではない。
先生に曲を提示してもらってそれを練習しているだけ。
その課題となっている曲しか知らないのだ。
なるべく知見を広げようとはしていて、父母に頼んでレンタルしてきてもらったり、図書館で借りてきたりはしているが、ヴァイオリン向けの曲に偏った知識からは、ピアノで弾くべき音楽が浮かんでこない。
どうしよう。
えーと、普遍的な、ポップスとかなら…。
あ。
「あ、あ、えーと、アンパンマン…とか。」
別にアンパンマンが好きな訳でもなんでもない。
ただ視線の先のお土産屋さんにアンパンマンが見えただけだ。
「アンパンマンね。
はいはい。
…ちょっと自信ないから聴いてみてからでいいかな。
…。
え?
ちょっと待ってね。」
先生のケータイから流れる音を耳に当て、真剣に聞いている。
その時は知らなかったがアンパンマンたいそうというエンディングテーマらしい。
アンパンマンだからなんとなく子供向けの簡単そうな曲だと思っていたのだが、一昔前の子供向け音楽は何故か音大の教授が作曲や編曲を担当していたり、百戦錬磨のスタジオミュージシャンが演奏したりしていて、いざ演奏しようとなるとそのテクニカルさに驚くこともある。
楽器を弾くようになって分かるようになった。
こんなもん子供が弾けるか。
「えーっと…待ってね。」
音楽家標準装備の絶対音感は先生にも俺にもある。
だけれども、唸り響くメタルギターとシンセサイザーの速弾きが、ピアノアレンジを邪魔してくる。
たっぷり時間をかけてアレンジを決めて、弾き始めた先生。
スティーブ・ヴァイが弾いてんの?
というメタルフレーズも、柔らかくピアノに落とし込む。
真剣に向き合って弾いている先生のピアノは美しく、それでもアンパンマンたいそうだということは分かる。
おそらくいいアレンジなのだろう。
俺が評価するまでもない。
時間的に子供が増えて来ており、先生の周りを幼児が母親と囲んでいるのだから。
…隣イオンだったなぁ、そりゃあ子供が沢山いるか。
丁寧に美しく奏でられるアンパンマンたいそう。
それに集まる子供達。
平和な光景だ。
…それにしても、先生に子供が寄って来ているのを初めてみた。
先生はなぜか、子供ウケが悪いのだ。
公園でもよく距離を取られているのを見る。
悲しいかな、真剣に弾いているので見えては居ないようだが。
短い曲なので3周ほどほんのりとアレンジを変えながら弾く。
演奏が終わり、顔を上げると周りが子供だらけになって驚いていた。
少し恥ずかしそうに照れている先生を見て、親たちは子供を遠ざけていった。
思い出して欲しい、先生は目つきが悪いのだ。
侘しい背中を見せる先生だが、ピアノは凄く格好良かった。
だが、見送ってすぐに帰るからと近くの駐車場に駐めた車へと戻り、跳ね上がった駐車料金に嘆く先生は凄く格好悪かった。




