ぬらりひょん 裏
俺は高校の三年間をほぼフィッツさんに連れられてヨーロッパの方のホテルやらなんやらを渡り歩きながらフラフラしていた。
たまに日本へは帰って来てはいたけれど、ほぼ。
どういう手続きをしたか知らないけれど、基本五科目以外は全て音楽の授業として単位を取得。
他の基礎的な勉強は、宿泊先に家庭教師がやって来たり、送られてくる課題を受け取り、それを返送して済ませた。
なので、まともには学校生活を送れていない。
だからといって人との交流がなく、ヴァイオリンを弾き続けるだけの生活だったかと言われればそうではない。
フィッツさんもただ旅している訳ではなく、ヴァイオリニストとしての仕事で移動を繰り返していたので、俺はフィッツさんがゲストのソリストとして弾くオーケストラなんかや、臨時講師として短期間勤める音大におまけで放り込まれた。
そこで知らない人と楽器を合わせて、少し仲良くなった頃にまた次へ。
そんな日々だった。
慣れというのは恐ろしいもので、小学校、中学校と1人の友達も出来なかった俺が、そんな日々変わる人間関係の中へ放り込まれても苦ではない事に気がついた。
「音楽家はどいつもこいつも、音楽語を喋るんやから、弾ければ平気やで。」
そんな無責任な言葉を間に受けた訳ではないが、確かに一緒に弾いている人達が何をしたがっているのかが分かる様になったし、それが相手に伝わっている気もした。
言語で会話するのは難しい。
どう話して良いか分からない。
だけれど、音楽には楽譜があって正解がある。
小さい頃、日時会話に台本を求めた俺に、台本で会話する世界は心地良かった。
安心感すらあった。
しかし、そんな幸せな孤独は終わりを迎える。
「日本へ帰ろか。」
「え、なんで。」
「娘のリンがついに5歳になってな、パパの顔を覚えてもらわな困るやんけ。」
俺は嫌だった。
俺は、ヴァイオリニストではなく、ヴァイオリンで居たかったんだろう。
良い楽器でいれば認められる世界に留まって居たかった。
思えば、そんな俺の望みは、フィッツさんに見破られていたのだろう。
◆
日本に帰って来た俺を待っていたのは、苦手な同年代と共に学ぶ大学生活、よりも遙かに大変な仕事だった。
「せいや、リンね、今、おいしい気持ち。
弾いて、ほら、弾いて。」
居候に与えられた家の仕事はフィッツさんの5歳の娘、リンの遊び相手だった。
リンはフィッツさんからなにか指示を出されているのではと思うほど、無理難題を放って来た。
リンが退屈するとその親父がやって来る。
「子供を退屈させるなんてヘボい演奏したんやろなー。
踊らせろとは言わへんけど、せめて寝かしつけてはくれへんかなー。」
そして、たまにやって来ては煽ってくる。
そのためにどうしたら良いかなどを聞いても要領を得ないまま。
「せいやー、怪獣がみんなを食べちゃうやつ弾いて。」
「せいやー、空がピンク色の時の曲弾いてー。」
「クイズです!わたしは今どんな気持ちでしょうか。
音楽で当ててください!」
そんな、かぐや姫でもそんな抽象的なお題は出さないだろうという奔放な注文と、それにくっついて来る奔放なダメ出しに翻弄されて続けた。
それが一年、二年と続き、最近ようやく俺の演奏を落ち着いて聞いてくれる様になったが、それは俺の演奏が良くなったのか、7歳になり成長して落ち着いただけなのかは分からない。
居候といえば、俺の部屋は広いフィッツさんの家、もはや屋敷と呼んで差し支えない建物のかなり奥に位置している。
好きな部屋を選んで良いと言われた際に、色々考えてここにした。
本来の役割は納戸らしい。
ここにした理由は、やって来た当初のリンに合わせての事だ。
彼女はあまり寝ない元気すぎる子供だった。
たまに昼寝をして落ち着いたかと思いきや、少しの物音で目を覚ます。
そう聞いていたので、学校やバイトで必然的に不規則な帰宅時間になる俺は、リビングから遠い裏口から出入りして、リビングから遠い部屋で静かにしていた方がいいと思ったのだ。
学業柄というか、ヴァイオリンを弾いて音を出す事が多いのもある。
そんな俺なりの気遣いは裏目に出て、現在ではこの部屋にした事を少し後悔している。
リン師匠のスパルタ抽象トレーニングの結果、リンは俺の部屋で眠る事が多い。
それはいいのだが、前評判と違って寝たら起きない。
そうなるとリン本来の寝床へと運ぶのは俺の残業になる。
7歳とはいえ25kgはある。
それを毎日遠い部屋へと運ぶのは結構大変なのだ。
そして、この家には音楽家しかいないので、俺が演奏する音に気を使う必要もなかった。
フィッツさんは鼻歌を歌う様にそこら辺でヴァイオリンを弾くし、フィッツさんの奥さんのハニーさんはマリンバ奏者だったらしく、マレットで叩いて音が出る楽器全般を弾く。
リンはリンでこの家にある多様な楽器を全て心の赴くままに弾くし、犬のリンゴもそれに合わせてなんかワフワフ言っている。
なんなら俺が一番静かなぐらいだった。
俺は、人の家に住む事が不安だったが、そこそこ仲良くやれていると思っていた。
それが事件を巻き起こした。
「リンねー、せいやと結婚するー。」
勿論、俺は本気で受け止めてはいない。
まぁ子供が懐いた大人によく言うフレーズだ。
懐いてくれている証拠だと思えば嬉しいが、こっちの感情としては微笑ましいなぁ、くらいのもんだ。
しかしウチにはそれを聞き流せない人もいる。
始めは冷静に聞き流していたフィッツさんだったが、時間が空いて夕食後に俺の部屋へとふらりとやってきて、嘆いた。
「ボクが言われたかったセリフを…弟子が取んなやぁ…。」
「いや、子供がよく言うやつじゃん。」
「相場はお父さんに言うやつやろがい。
それをお前…この…アホー!
あかん、吐きそうや。
悲しい。」
狼狽する親バカは放置するに限るのだが、仮にも師匠で家主だ。
俺の部屋に居座られても困るし、慰める以外に道はなかった。
「大丈夫だって。
なんだかんだお父さんが一番好きだよ。
リンは…えーと、多分、ハニーさんに気を遣ったんだ。
2人の中を引き裂くわけには行かないから、妥協して俺なんだよ。」
「そうかなぁ…。
うん、そうやな。
リンは可愛過ぎるだけでなく、賢いし優しいから、独りぼっちのお前が哀れで、慈悲の気持ちでそう言っただけやろな!
天使やんか!マジで!な!」
少しの罵倒が混ざって気になったが、訂正したい気持ちよりも掘り返す面倒さが遙かに勝ったので、俺は適当に肯定しておいた。
少し落ち着いたフィッツさんの、リンへの賛辞をうわの空で聞き流していると、俺の部屋へリンとリンゴがやって来た。
食後のこの時間、リンがやって来るのはいつも通りで、どちらかといえばフィッツさんが異物。
リンもそう感じたのだろう。
「パパ、邪魔、帰って。」
リンはパパを好いている。
その前提で落ち着いたフィッツさんだったが、その一言で心が折れ、無言で部屋から出て行った。
すれ違い様に、俺だけに聞こえる様に舌打ちを残して。
「せいやー、今日はねー、ハンバーグだったから、ハンバーグの歌を歌います。
伴奏してね。」
「いいよ。」
俺は明日、きっと面倒な人間になっているフィッツさんを慰める想像をして少し萎えたが、楽しそうに歌うリンを見て、どうでも良くなった。
思えば人の家に居座る事を得意とするぬらりひょんの様なフィッツさんが、娘の天使に追い払われるのは除霊として理に適っている気がする。




