蠱毒 裏
ガラス越しに見える窓のサッシを歩くカナブン。
光沢のある甲に、俺の幼少期が映し出された気がした。
そういえば、先生はいつの間にか来なくなった。
俺は人の感情を察するのを苦手としている自覚があるが、それでも先生とは仲が悪くなって来なくなったとかではなかった。
明確な理由は浮かばない。
ある日突然現れて、ある日突然消えた。
そんな印象だ。
それもまた先生らしい。
忘れた事は無かったけれど、常に思い出している訳でもない。
しかしそれでも乾いた木の匂いや、すえた枯葉が混ざった土の匂いに気分は良くなる。
窓を開けると外から吹き込む風が、夏の終わりと秋の始まりを告げ、これもまた、先生を思い出させた。
多分、公園で会う事が多かったからだと思う。
「なんや、誠也。
外になんかおるんか?」
俺の今の先生、フィッツさんが集中しきれていない俺に見かねて手を止めた。
怒っている様子ではなく、自身の好奇心に負けて俺が何を気にしているかを知りたいといった感じではあったが。
「んーん、窓の外に虫がいただけ。」
「無視しとけ、そんなん。」
「あーはは。」
「師匠に愛想笑いすんなや。
ほんま普段は愛想なんて無いくせに。
…カナブンか。
ボクの生まれた方には青いのがいてな、それが普通の色やと思っててん。
日本に来たらコイツら緑色やからビックリしたわ。
違和感エグいて。」
俺としては草に擬態する為の緑色が合理的で、青色の方が変だと思うのだが。
それをフィッツさんに伝えると、全ての生物が合理性を追求しているならば俺たちは今頃、指の代わりにヴァイオリンの弓が生えているはずだと言われた。
「俺としてはセルビア人のフィッツさんがコッテコテの関西弁の方が、違和感エグいんだけど。」
「そう?
しゃあないやん。
ウチのハニーが関西人なんやから。
おっと、脱線したな。
構えや。
最初から行くで。」
フィッツさんの指示に合わせて、俺は目を瞑り、ゆっくりと息を吸った。
肺に溜まったそれらを全て吐き切ると、火が灯る。
ヒーローでいう変身。
俺は人から、ヴァイオリニストに成る。
「あかーん、下手くそぉ。
楽譜キチンと読めぇ。」
…ヴァイオリニストに成る、途中にいる。
思えば俺にヴァイオリンを教えてくれたのも先生で、それも相まって思い出したのかもしれない。
◆
「それで、どんな人だったん?
元カノの事、思い出してたんやろ?」
「は?
…いや、フィッツさんの前にヴァイオリンを教えて貰った人のことを思い出していたんだよ。」
「一緒やんか。
今の師匠はボクなのにぃ!ってなるやん。」
「えぇ…そういうもん?
どんな人だったか、ね。
小さい頃の話だからなぁ。」
思い返すと、先生の情報は少ない。
眼鏡をかけていたこと。
目つきが悪かったこと。
いつも黒い服を着ていたこと。
視覚から得られる情報と、何を話したか、何をしてくれたという、二人の間で完結する物事に関してはいくらでも羅列出来る。
しかし、パーソナルな部分、例えば仕事もどこに住んでいるのかも、年齢も知らなかった。
「あら?結構長いこと一緒に居ったんやろ?
真っ黒の服で目つきが悪くて普段何してるか知らないって、その人はショッカーかなんかやったん?」
「ショッカーでは無いと思うよ。」
「分かってんねん、そんなことは。
でも怪しい人なんは変わらんよ?
だって、ボクが前に聞いたんは誠也が小学生の時の話やろ?平日に小学生とずっと遊び続けてる無職の大人なんて、まごう事なき不審者やんけ。」
客観的に見ると、本当にアウトな思い出だ。
けれども当事者である俺はそう思っておらず、楽しい時間として記憶している。
「不審者ってのはそうかも。
でもピアノとヴァイオリンは弾けたし、俺に色んな事を教えてくれたんだよ。
会う度にさ。」
「あー……。
楽器、しかもクラシックを選べたんならボンボンやったんかもな、働く必要も無い。
初心者の子供に手解き出来るって事は本格的にやってたんやろうしなぁ。
お前に音楽の才能を見つけて、付きっきりで指導を始めたって考えれば、なんや、ボクとあんま変わらんか。
ボクだってこうやって居候させて音大に通わせてるんやからな。
ははは。
ボクも不審者の仲間入りや。」
フィッツさんは結構有名なヴァイオリニストで、世界中を旅しながらコンサートを開くような人だ。
ここ最近は娘が産まれ、その娘に忘れられたくないとかで控えているらしいが。
「そういえば、色々教えて貰ったって、音楽以外は何の話してたん。」
「怖い話。
オカルト話とか。」
「怪しっ。」
「そういえば、初めて会った時も蠱毒の話をされたなぁ。」
「蠱毒?なんそれ。」
蠱毒。
毒虫を大きな器に入れて食い合わせ、最後の1匹を決める。
残ったそれは霊的な力と強い毒を持つとされ、呪術や毒殺に使われたとか。
「はぁ、やっぱりボクと変わらんなぁ。」
「なんで?フィッツさんはボクにヴァイオリンを教えてくれているだけじゃない。」
「有象無象の音楽家って虫の中に放り込んで、最強の音楽家を作ろうとしてるのはよ、蠱毒と変わらんやろ。」
「先生には蠱毒の説明をされただけで、俺は放り込まれてはないけどね。
…フィッツさんの方が悪辣なんじゃない?」
「ははは!そうかもな!
よし、じゃあ悪辣なフィッツさんが虫をもう少し鍛えたるわ。
構えや。
また最初からや。」
ゆっくりと息を吸う。
肺に溜まったそれらを全て吐き切ると、火が灯る。
ヒーローでいう変身。
俺は人から、毒虫になる途中にいる。
なんつって。
カフカか俺は。




