第39話 ここから、五十層が見えてます
第五十層まで、四時間かかった。
最後の三十分は、信号のほうが近づいてきた。
下降路は狭い。人ひとりが屈んで通る幅で、途中に三箇所、体を横にしないと抜けられない場所があった。図面には書いていない。白鳥さんは、ここを二台の中継機を担いで通ったことになる。
通れる。俺の背嚢は一台ぶんだ。二台を担いだ人間が、この三箇所をどう抜けたのかは、想像がつかない。
一台を置いて、戻って、もう一台を運んだのかもしれない。それなら二往復ぶんの時間が要る。電池は十二本あった。計算は合う。
九月十六日、午前十時。
下降路を抜けると、空間が急に開けた。
岩室だった。天井が高い。ヘッドランプの光が届かない。床は平らで、乾いている。壁に水の跡がない。第四十九層のすぐ下なのに、ここには水が来ていない。
空気が重い。濃度計を出すまでもなく分かる。呼吸が浅くなって、こめかみが締まる。
〇・七一。
与圧装備は持っていない。中古でも十二万円で、浅利さんへの四十八万円が半分しか返せていない。
滞在できるのは、たぶん三時間が限度だ。三時間を過ぎると、判断が鈍る。鈍った状態で据えると、位置を間違える。
岩室の中央に、一台の中継機が立っていた。
◇
古い型だ。角ばっていて、外装が鉄。いまの筐体より二回り大きい。表面が白く曇っている。十五年ぶんの埃と、結露の跡が層になっている。
俺は袖で拭いた。
刻印が出た。
SK-0051。
その下に。
油性ペンで、小さく。
2011.3.11
俺は、そこから目を離せなかった。
ヘッドランプの光が、少し揺れた。手が震えている。昨夜から震えが止まっていない。
字は俺のものではない。書き方が違う。1の頭に短い斜めの線が入っている。俺は入れない。
だが、位置が同じだ。
刻印の下、右に寄せて、筐体の縁から二ミリ空けたところ。俺が十五年、四百七十六回書いてきたのと、同じ場所に書いてある。
教わっていない。
この癖を、俺は誰にも教わっていない。二〇一一年五月十四日、第三層で二台目を据えたときに、手が震えて日付が歪んだ。それを見て、次から丁寧に書くようになった。それだけだと思っていた。
書きはじめた理由も覚えていない。会社の規則にはない。誰かに言われたわけでもない。
最初の一台を据えた日、俺はこの図面を持っていた。図面の余白には、日付の書き方の指示は書いていない。
図面のとおりに据えれば通る。だから図面のとおりにやった。
癖まで同じになるとは、思っていなかった。
筐体に手を当てた。
押してみる。動かない。
俺が据えたものは動かない。この機材は、俺が据えたものではない。
固定を見た。膨張アンカーが四本。壁ではなく、床の岩盤に打ってある。角度がついている。荷重が下向きに逃げるように、四本とも内側に傾けてある。
丁寧な仕事だった。
技能ではない。俺のように、手を離した瞬間に固定される類のものではない。膨張アンカーと、角度と、荷重の逃がし方。工具と手順だけで、十五年動かない据え方をしてある。
十五年、誰も触らなかったからでもある。触る人間が、ここまで来なかった。
俺は手を離した。
◇
自分の最後の一台を、岩室の東側に据えた。
第四十九層への直線が取れる位置。四十分で終わった。刻印はAJ-0477。日付を書いた。
次に、SK-0051の蓋を開けた。
ねじが六本。規格が古い。持ってきた工具に合うものが一本しかなくて、残りは細いドライバーの先を斜めに当てて回した。二本、頭を舐めた。
中の電池は、当然ながら空だった。液漏れはしていない。当時の電池は、いまのより液漏れしにくい。
俺の予備電池と、端子が合わない。
十五年で規格が変わっている。プラス側は同じ。マイナス側の受けが、いまのより三ミリ広い。
背嚢から銅の端子板を出した。厚さ〇・五ミリのやつを、いつも二枚持っている。使うことはほとんどない。
ペンチで切って、折って、幅を合わせた。
合わない。〇・五ミリ足りない。
この二枚を持ち歩くようになったのは、二〇一七年に第二十二層で端子を割ったからだ。あのとき代わりの板がなくて、その日を無駄にした。以来、必ず入れている。九年間、一度も使っていない。
もう一枚を重ねた。今度は入った。入ったが、接触が甘い。指で押さえると通電するが、離すと落ちる。
工具袋の底から、絶縁テープを出した。テープで押さえる。
四十分かかった。
こめかみの締めつけが強くなっている。時計を見ると、岩室に入って一時間五十分が経っていた。
電池を入れた。
ランプが、点かない。
電圧が足りない。長く空だった回路は、起きるのに余分な電圧が要る。第四十層で同じことがあった。
予備をもう一本、直列に足した。
橙。
起きた。
出力を上げていく。上位ノードを呼ぶ。AJ-0477。応答。第四十九層。応答。第四十八層。
緑になった。
◇
第三十二層の行き止まりに、霧島灯は立っていた。
四年、彼女が引き返してきた場所だ。壁にAJ-0243がある。二〇一八年の日付が入っている箱で、いまも同じ位置にある。
午前十一時五十分。
彼女は配信を立てていた。同時視聴は八十万を超えている。三日前から、第五十層への到達が近いという話が板で流れていた。
『——まだ、何も来てないです』
彼女は行き止まりの壁を背にして座っていた。カメラは通路の奥、下り口の暗がりへ向けてある。
四年、この暗がりを撮ってきた。撮っても、その先は映らなかった。
『三十三層から下は、いま全部通ってます。だから、あの人が繋げば、ここに映ります』
【アカリ、いま何層?】
【三十二層だよな】
【いつもの行き止まり】
その瞬間、画面が切り替わった。
彼女の端末に、坑内の中継系統から映像が入ってきた。第五十層に据えられたばかりの機材が、下から順に上へ、四十九、四十八、四十七と渡してきた映像だ。
岩室が映っていた。
天井が高い。床が平らで、乾いている。中央に、古い型の中継機が一台。
灯の口が開いた。
声が、落ちた。
『……映ってる』
『全部、映ってる』
【は】
【どこだこれ】
【五十層?】
【五十層って何】
【人類、四十二層までじゃなかったの】
【アカリ、どこにいるの】
コメントの流速が、追いつかなくなった。文字が読める速さを超えて、色の帯になった。
彼女はカメラを自分のほうへ向けた。
配信の声ではなかった。素のままだった。
『私は三十二層です』
息を吸う音が入った。
『ここから、五十層が見えてます』
◇
SK-0051には、記録が残っていた。
電源が入って、内部の記憶領域が読めるようになった。設置時の設定値と、疎通のログ。それと、音声が一件。
二〇一一年三月十一日、十九時四十分。
俺は再生した。岩室の空気は動かない。音がよく響く。
ノイズが十秒ほど続いた。それから、聞いたことのない声が入った。若い男の声だった。
『……ここまで来た。あと三層』
息が上がっている。
『四十八と四十九は、置けなかった。二台じゃ足りない。ここに一台置く。ここが一番深い。ここさえ押さえとけば、上から順に埋めれば必ず届く』
少し間があった。
『届くって分かってれば、予算はつく』
また、間。
『誰か、続きを頼む』
音声は、そこで終わっていた。
◇
俺はノートを出した。
防水袋から出して、最後のページを開く。四百七十七台目の行を書く。
第50層/東側/AJ-0477/2026-09-16/電池残量100
そこまで書いて、手が止まった。
その下に、もう一行書きたかった。
書きたいと思ったのは、たぶん十五年で初めてだった。
続きは、やりました。
そう書こうとして、ペン先が紙の上で止まった。
この用紙に、そう書く欄がない。
ノートは俺の備忘録だ。設置場所と日付と型番と電池残量を書くために作った。誰かに宛てて書いたことが、一度もない。
俺は、そこに書かなかった。
鉛筆をしまって、ノートを閉じた。




