第38話 SK-0051
「あいつの作業服、持ってけ」
九月十日、浅利無線。
出発の四日前だ。旧型を三台、台車に載せ終えたところで、浅利さんが店の奥へ歩いていった。
ハンガーから、紺の作業服を外した。
埃は落としてある。八月に一度外して、また掛けた。肩の色が抜けているのは、二十年ぶんの日焼けだ。裏通りの店でも、窓から光は入る。
胸に刺繍がある。日本坑管理協会 通信班。いまはない部署の名前だ。
「受け取れません」
「着ろとは言ってねえ。持ってけって言ってる」
彼はそれを畳んだ。袖から順に、丁寧に。
「置いてくならそれでもいい。持って降りるだけでいい」
俺は台車の柄を握ったままだった。
断る言葉が出てこなかった。断る理由が、はっきりしない。
背嚢の上限は二十五キロで、その日の計算は一グラム単位まで詰めてある。作業服は八百グラムある。八百グラムぶん、何かを置いていくことになる。
それでも、断れなかった。
「兄ちゃん」
「はい」
「なんであんたに図面を渡したか、言ってなかったな」
俺は顔を上げた。
「続きをやってほしかったからだと、思ってました」
「違う」
彼はカウンターに畳んだ服を置いた。
「二〇一一年の五月だ。あんたが最初にうちに来た日。工具の持ち方も知らねえ顔してた」
「はい」
「そのとき、俺はあんたの手を見た」
浅利さんは自分の右手を出した。指が太くて、爪の形が四角い。
「爪の間が黒かった」
俺は自分の手を見た。いまも黒い。導電グリスは、何度洗っても落ちない。入社して二か月目で、そうなった。
落とし方は途中で調べるのをやめた。落としても、翌週にはまた入る。
「白鳥もそうだった。あいつ、会議中も爪が黒かった。協会の会議室で、部長の前で、机の上に黒い爪を置いてた」
彼はそこで、少し口を閉じた。
「俺は、続きをやらせる人間を探してたんじゃない」
「はい」
「あいつに似てるやつを見つけて、押し付けたかっただけだ」
店の外を、車が通った。
「押し付けたら、楽になると思ったんだ。俺は行かねえ、代わりに誰かが行く。それで帳尻が合うと思った」
彼は畳んだ服の角を、指で揃えた。
「合わなかった。十五年、一度も合わなかった」
「なんでですか」
「あんたが、金にならねえのに毎月降りるからだ」
彼はカウンターの下から伝票の束を出した。二十年ぶんの控えだ。輪ゴムでまとめてある。
「うちの売上の中に、あんたが自腹で買ってったぶんが、十五年ぶん入ってる。数えたことはねえ」
「数えなくていいです」
「数えねえよ。数えたら、たぶん寝られなくなる」
扇風機が止まっていた。九月に入って、彼はもうつけていない。
「十五年、悪かったな」
俺は少し考えた。
この人が何を悪いと思っているのか、はっきりとは分からない。図面を渡したことか、行かせたことか、自分が行かなかったことか。
どれも、俺にとっては困ったことではなかった。
図面は役に立った。書いてあるとおりに据えると通った。部材はいつも用意されていた。値段は言い値で、まけてくれる日もあった。
「いえ」
「あ?」
「仕事だったので」
浅利さんの顔が、動いた。
それから、笑った。
声を出して笑った。十五年、この人が笑うのを見たことがなかった。軽口は叩くが、笑わない人だった。
「そうか」
「はい」
「仕事か」
「はい」
彼は作業服を袋に入れて、台車の上に載せた。
◇
九月十五日、午前十時。第四十九層。
水があった。
下り口正面の岩棚は、想定していた場所より低い位置にあって、その下が水没していた。膝ではない。腰まである。岩棚自体は水面から三十センチ上に出ているが、上から滴が落ち続けている。
濡れた岩に据えると、樹脂板を噛ませても、二年で接点が死ぬ。
俺は水に入って、岩棚に手を触れた。表面が濡れている。指でなぞると、水の膜が動く。
通路を歩いた。腰まで浸かって、二百メートルを二往復した。
第四十九層は狭い。第四十八層のような分岐がない。下り口から第五十層への下降路まで、二百メートルの一本道だ。
水中の魔素濃度は、空気中と違う。溶けた分だけ、水の上の空気は薄くなる。だから水のある階層は、水面のすぐ上が、いちばん条件がいい。
水面から一メートル上。乾いている岩の張り出し。
三か所あった。
一つ目は、上位ノードとの直線に岩が被る。二つ目は、下降路への角度が取れない。
三つ目を測った。濃度計を水面から一メートルの高さに固定して、四十秒待つ。第四十九層の空気は重い。数字が落ち着くのに時間がかかる。
濃度〇・六八。上位ノードまでの直線、確保。下降路への角度、マイナス四度。
旧型の出力は規格の六割八分だ。距離を計算する。届く。ぎりぎりだが、届く。
背嚢から、二台目を出した。
三台のうち、一台は昨夜、第四十八層に据えた。これを据えると、残りは一台になる。第五十層に据える分だけだ。
予備は持っていない。第五十層で予定の位置が使えなければ、そこで終わる。
据えた。四十分かかった。張り出しが狭くて、片膝をつけない。水の中に立ったまま、上体をねじって手を入れた。
足元が冷たい。第四十九層の水は、地上の川より冷たい。十分浸かっていると、足首から先の感覚が鈍る。
右肩が、ずっと熱を持っている。七月から治っていない。昨夜、七時間ぶん使った。
上げなくてもできる姿勢を探すのに、十分かかった。十分が惜しいと思わなくなったのは、たぶんいい兆候ではない。
通った。
緑になったランプを見て、俺は袖で筐体を拭いた。刻印を出す。
AJ-0476。
油性ペンで、その下に書く。
2026.9.15
◇
疎通の確認をした。
いつもの手順だ。受信機で全帯域をスキャンして、上位ノードとの往復時間を測る。第四十八層。第四十七層。第四十六層。順番に返ってくる。
全部、生きている。第四十九層から地上まで、四十九台が直列に並んで、いま繋がっている。
十五年かけて、ここまで来た。あと一層だ。
スキャンの画面を閉じようとして、指が止まった。
下から、応答がある。
俺は画面を見直した。
上位ノードは上にある。下に応答するものはない。第五十層には、まだ何も据えていない。
機器の誤動作だと思った。
スキャンをやり直した。同じ結果が出た。
受信機の電源を切って、三十秒待って、入れ直した。同じ結果だった。
三回目に、俺はアンテナを手で回した。指向性を変えて、下降路の方向へ向ける。
信号が強くなった。
弱い。ほとんどノイズと区別がつかない。だが規則性がある。魔素のノイズには規則性がない。
同じ間隔で、同じ長さの断片が返ってくる。四回数えて、間隔が揃っていることを確認した。
識別信号だ。
中継機は、上位ノードから呼ばれると自分の識別子を返す。電池が生きていれば返す。生きていなければ返さない。
いま、下から返ってきている。
もう一度、アンテナの向きを戻した。信号が弱くなる。下へ向けると、また強くなる。
機器の故障で、こういう出方はしない。故障するときは、全帯域が同じように荒れる。
俺はノートを出した。
防水袋から出して、後ろのページを開く。設置台帳の索引だ。設置順に番号が並んでいて、階層と型番が書いてある。
四百七十六台。
第五十層の欄はない。据えていないからだ。
該当なし。
俺は背嚢を見た。
上蓋の内側に、袋に入れた作業服が入っている。持って降りるだけでいい、と言われて持ってきた。使い道はない。ただ、入れてある。
なぜか、その袋のところを一度触った。中身は畳んだ作業服で、八百グラムある。据える役には立たない。
触ってから、自分が何をしたのか分からなかった。
それから、受信機に戻った。
識別子を読んだ。
SK-0051。
俺の記録に、その形式は一件もない。
AJでもSGでもない。二〇一一年に、協会が資材コードをどう振っていたかは知らない。
十五年前の機材が、まだ、生きている。




