第40話 ここから先は、あなたの図面です
十五年、この図面の右下を、俺は読んだことがなかった。
九月二十三日の午前、作業場の土間。
青焼きを、作業台の上に広げた。四つ折りにして持ち歩いているので、いつもは折り目の内側が机の縁に落ちる。今日は台の上を片付けて、全部を平らに広げた。
第一層から第五十層までの縦断面図。丸が六十一個。
鉛筆を持って、残っていた三つに×を入れた。
第四十八層。第四十九層。第五十層。
六十一個、全部に×が入った。
十五年と四か月かかった。年に四つ弱で、休んだ月もあれば、四つ据えた月もある。
図面の丸は六十一だが、据えた台数は四百七十七になる。電池を替えるたびに据え直すので、同じ場所に何度も戻る。丸の数と台数が合わないのは、そのせいだ。
俺はしばらく、その紙を見ていた。
図面が全部埋まったのを見るのは、当たり前だが、初めてだった。
それから、右下に目をやった。
紙の右下の隅。折り目の内側にあたる部分で、いつもは畳んだまま扱っている。線も注記もない、空白に見えていた場所だ。
薄い字で、四行ある。
注記と同じ筆跡だ。ただ、インクが違う。注記は製図用の細い線で、ここだけ万年筆で書いてある。図面を引き終わったあと、別の日に足したものらしい。
この図面を拾った人へ。
全部埋め終わったら、上から自分の名前を書いてください。
ここまでの分は、私がやりました。
ここから先は、あなたの図面です。
俺は動かなかった。
シャッターの隙間から入る風が、紙の端を持ち上げた。手で押さえた。
十五年、俺はこれを、誰かの図面を埋めていると思っていた。
書いた人が正しかったから、書いてあるとおりにやった。そういう仕事だと思っていた。
この一行は、渡すつもりで書かれている。
拾った人へ、と書いてある。誰に渡すか決めていない。決めずに書いて、決めずに置いていった。
それを、浅利さんが拾って、俺に押し付けた。爪の間が黒い新人を見つけて、押し付けた。
押し付けられた側は、右下を読まないまま、十五年埋めた。
読んでいたら、途中で書いていたかもしれない。書いていたら、たぶん、途中で終わっていた。
俺はペンを取らなかった。
まだ、取らなかった。
◇
昼前に、早見さんが来た。
「先日の記録票を、いただきに参りました」
三週間前に置いていったものだ。作業台の隅に、そのまま載っている。角が少し反っている。
彼はスーツだった。九月に入って、上着を着るようになっている。
氏名の欄は、空いたままだ。
「まだ、書かれませんか」
「書きます」
彼の手が止まった。
「四百七十七台ぶん、書きます」
早見さんは、書類の束を持ったまま動かなかった。
「……そうですか」
声が、少し低かった。
早見さんは、それ以上何も言わなかった。
この人は一度も、書けと言わなかった。用紙を置いて、帰った。書くと言われても、たぶん言うことがないのだと思う。
「ただ、一台目だけ、俺の名前じゃないです」
「と、いいますと」
俺はノートの後ろのページを開いた。第五十層の欄に、一行足してある。
「SK-0051。第五十層、東側から十二メートル、床の岩盤に膨張アンカー四本。設置日、二〇一一年三月十一日」
早見さんは、まだ動かない。
「作業者、白鳥慧」
彼は、しばらく黙っていた。
それから、記録票の束を両手で受け取った。角を揃えて、鞄に入れた。
「型番と設置位置で、認定できます」
「はい」
「刻印の下に、日付があります」
「ありました」
「……手書きで、ですか」
「手書きでした」
早見さんは鞄の口を閉めた。
謝らなかった。頭も下げなかった。
この人の謝り方は、たぶんこれだ。書類にすることが、この人のやり方になっている。それでいいと思う。
帰り際、彼は一度だけ振り返った。
「網代さん」
「はい」
「新様式は、来月から全事業者に適用されます」
「そうですか」
「氏名の欄は、任意記載です。書かなくても受理します」
「はい」
「ですが」
彼はそこで、少し間を置いた。
「書いてある記録のほうが、あとで役に立ちます」
◇
午後、四人になった。
須賀原と、灯と、浅利さん。浅利さんが作業場に来るのは初めてだ。台車で部材を届けに来て、そのまま帰らなかった。
土間に四人は狭い。灯が工具箱、須賀原が土間、浅利さんは自分で持ってきた折り畳みの椅子に座った。
俺は作業台からファイルを出した。
手順書だ。付箋が四十七枚。
全部に、答えが書き込んである。
二十一枚目で止めていた続きを、この一週間で書いた。地上に戻ってから、他に何もしていない。
二十二枚目からは、質問の答えだけでなく、別の紙も足した。
第四十層より下の手順。四十ページある。
節点の位置。地形の癖。季節ごとの魔素の動き。水位が上がる階層と時期。予定位置が使えないときの代替地点の選び方。第四十九層の岩棚が九月には水を被ること。第五十層の下降路で体を横にする三箇所。
全部、書けることは書いた。
書くと誰かが行く。行けば、帰ってこない可能性がある。だから十五年書かなかった。
書かなかったから、一人になった。順番はそっちだったと、先月気づいた。
書けないものが、まだ残っている。位置を決める判断は、書き方が分からない。それも、そう書いておいた。「ここは書けません。実測して、迷ったら連絡してください」
俺はペンを取った。
表紙は白い。十五年、ずっと白かった。折り目と、二年半ぶんの手垢がある。
右下に、書いた。
網代 亮
書いて、ペンを置いた。
名前を書くのに、二秒もかからなかった。十五年かかったのは、書く前のところだ。
須賀原がファイルを見ていた。
「……これ、もらっていいんですか」
「はい」
「でも、これ、網代さんの」
「据えたら、そこの人のものになります」
須賀原は口を開けて、閉じた。
灯がこちらを見た。
「書いたじゃん」
「書きました」
「三週間かかったね」
「三週間かかりました」
「遅い」
「はい」
彼女は笑った。声を出さずに、口の端だけで笑った。
「兄ちゃん」
浅利さんが、初めて口を開いた。
「はい」
「その本、何ページある」
「二百十四ページです」
「厚いな」
「十五年ぶんなので」
「そうか」
それだけ言って、彼はまた黙った。折り畳み椅子に座って、土間の隅の測定器を見ている。
この人は、十五年言えなかったことを、店で言い終えている。もう言うことがないらしい。
白鳥さんの名前は、今日は一度も出ていない。須賀原は知らない。誰も教えていない。
教えなくても、手順は伝わる。それでいいのだと思う。
須賀原がファイルを両手で持った。
表紙を、親指で撫でた。
「質問、できますね」
「できます」
「あの」
「はい」
「今日、いいですか」
「うん」
「三十七層の代替地点のところ、上位ノードへの直線が確保できるかの確認って、どうやってやるんですか。図がなくて」
俺は測定器を取りに立った。
立ってから、説明が長くなることに気づいた。
この人は、聞いた話を全部書き留める。書き留めたものを、また誰かに渡す。
「長くなります」
「聞きます」
◇
三人が帰ったのは、夕方だった。
浅利さんは折り畳み椅子を持って帰った。灯は缶を三本置いていった。須賀原はファイルを鞄に入れて、両手で抱えて帰った。
土間を片付けて、新聞紙を折り畳んだ。
棚から、新しいノートを下ろした。
B5の大学ノート。十八冊目になる。表紙に、年を書いた。
2026
一ページ目を開いて、いつもの形式で書いた。
九月二十四日。
第14層/北梁裏/電池交換/角度マイナス7度確認。
その下に、もう一行。
電池は往路で使い切らないこと。
書いてから、それが自分の言葉ではないことに気づいた。
図面の注記にある。あの人が、十六年前に書いたものだ。
消さなかった。
シャッターを半分下ろす。運河のほうから風が入ってきた。潮と鉄の匂いがする。冷たい。
九月の終わりの風だ。朝は、もう涼しい。
協会は、人類の踏破記録を第五十層に更新する手続きに入っている。到達者の欄に誰の名前が載るのかは、聞いていない。聞く用事がない。
依頼は四十二件のうち、九件が片付いた。残りは三十三件ある。上の階層の電池が、来月までに六本切れる。第八層のアンテナは、まだ三度ずれたままだ。
直すのに、十分もかからない。
作業は、まだ、いくらでもあった。
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