【第4話】 光の手
その日、夜姫は初めて
黄昏都の神殿街を歩いていた。
黄昏都の中心――
神々だけが生きる巨大な都市、神殿街。
屋根のない石畳の回廊は迷路のように果てしなく続き、
眩い神気が空気を震わせている。
天照には太陽の宮があり、
夜姫には夜の宮がある。
だが多くの神々は、
神殿街の大神殿や、奥の界降地区で暮らしていた。
(そういえば……
あの須佐男にも、宮があるのだろうか?)
建築を司る神。
風を歌う神。
穀物を育てる神。
笑う神、泣く神、怒る神――。
あらゆる“祈り”が形を成し、
この黄昏都で生きている。
列柱が無造作に連なるその美しい景色の中、
行き交う神々に夜姫は見惚れて歩いていた。
活気のある階段。
市場。
広場で戯れる神々。
だが――
ふと、足を止める。
(……ここ、どこだろう)
振り返っても、見える景色は同じ。
荘厳な列柱の森が、迷いの檻となる。
喉の奥が、ぎゅっと締まった。
「……………。」
忙しげに通り過ぎる神々に、
話しかける勇気も出ない。
小さな足音が、ぽつり、ぽつりと
石畳に溶けていく。
息が苦しい。
(……だれも、小さな自分には気付かない)
夜姫は、灰青の瞳に涙を溜めて走り出した。
その瞬間――
──ドンッ。
小さな身体が硬い何かにぶつかり、
その拍子に尻餅をついた。
恐る恐る見上げる。
壁では、ない。
眩むほどの光を背に、静寂を纏った太陽神が立っていた。
「……アマテラス……さま……?」
天照は何も言わず、夜姫を見つめていた。
わずかに口が動く。
けれど、なんと言えばよいのかわからないようだった。
その姿を見た途端、張り詰めていたものが切れた。
「……すみませんっ……。
道が……分からなくて……っ……」
恥ずかしさも惨めさも飲み込めず、涙と嗚咽が次々に溢れ出した。
天照はしばらく、黙っていた。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
やがて大きな腕が伸び、夜姫の身体を胸元へ引き寄せる。
「そうか…大変だったな」
温かな声だった。
その胸に顔を埋めた瞬間、涙の堰は完全に切れた。
「……うゎ……わぁぁぁん……っ……」
夜姫は声を上げて泣いた。
天照は何も訊かず、その背中をゆっくり撫で続けた。
やがて涙が落ち着いた頃、大きな掌が夜姫の頭をそっと包み、くしゃりと銀の髪を撫でる。
「仕方のないやつだ」
僅かに笑って、涙に濡れた顔を覗き込む。
「思っていたより、ずっと子どもなんだな。……心細かったのか?」
「……ぅん。」
夜姫が頷くと、天照の琥珀の瞳が柔らかく細められた。
「……迷うのは当然だ。ここは広すぎる。
コックルたちも、よく一人で行かせたな」
少し考えてから、真顔で続ける。
「あとで叱っておく」
その言い方がおかしくて、夜姫の口許がほんの少し緩んだ。
それを見た天照も、安心したように息をつく。
太陽神の冷静な像が、ほんの一瞬崩れた。
そして、首を傾げ、頭を掻きながら夜姫へ向き合う。
「今朝は眠れたか?
昨日は……アレだ…
騒がしい奴のせいで疲れたろう?」
くつ、と笑う。
「気に入らなければ、常世から追放してやってもいい。俺もせいせいする。」
嵐の神、須佐男のことだ。
天照は、なおもおかしそうに笑っている。
(この人は……こんな風に、笑うんだ)
「それは……かわいそうです」
「そうか?」
近寄りがたいと思っていた、常世の最高神。
遠く、眩しく、孤高の存在。
けれど今、目の前にいるの彼はどこか少年のように見えた。
天照はそっと立ち上がり、
——夜姫へ手を差し出す。
夜姫は、その手を見つめる。
迷いながら指先を重ねると、大きな掌が逃さぬように包み込んだ。
白く柔らかな指が、微かに震えている。
その震えに気付いた天照は、胸の奥に生じた奇妙な痛みに眉を寄せた。
守るべき対の神だからではない。
この少女が泣いているところを、もう見たくないと思った。
なぜなのかは、分からなかった。
「迷ったなら、神を呼べばいい」
天照は前を向いたまま告げる。
「呼べる者がいないのなら――俺が行こう」
夜姫の心臓が跳ねた。
言葉にならず、ただその手を握り返す。
天照もまた、応えるように少しだけ力を込めた。
二人で歩幅を合わせ、石畳の回廊を歩き出していた。
古い列柱の隙間から、黄昏の光が長く差し込んでいる。
街の喧騒は遠ざかり、耳に届くのは二人の足音だけだった。
夜姫は隣を見上げる。
高くそびえる天照の輪郭が、落日の中で眩しく揺れていた。
息すら忘れそうな距離。
夜姫はそっと思う。
(あぁ……こんな神に……なりたい)
そう願ったはずなのに、繋いだ手があまりに温かくて胸の奥が苦しいほど震えていた。
世界のすべてが
二人きりになったようだった。
——夜姫は知らない。
天照が、
彼女の気配を追って
光の速さで駆けつけたことを。
——天照は知らない。
夜姫が、
この手の温度を
二度と忘れないことを。
百年続く恋の始まり。
ふたりはまだ、
気づかない。




