【第3話】夜の宮と、最初の朝
嵐が去ったあと――
夜姫は、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。
先ほどまで、太陽神に手を握られ、膝をついて話しかけられ、見つめられて、笑いかけられて。
そして――暴風神に、すべてをかき乱された。
(高貴な神々の街って……こんなに混沌としてるの?)
混乱が極まると、思考は勝手な方向へ転がっていく。
(……で、私はどこへ行けば?)
途方に暮れる夜姫の横へ、小さな足音がぱたぱたと近づいた。
「夜の姫様。こちらへどうぞ!」
振り返ると、藍色の装束に耳のような帽子を被った小さな遣い神たちが五人、深々と頭を下げていた。
「僕はコックル。こっちはトックル、ファッタル、テックル、サットル。夜姫様のために生まれた遣い神です♪」
同じ顔に見える。
正直、見分けはつかない。
「ありがとう。よろしくね」
夜姫は小さく頭を下げ、彼らの後について歩き出した。
黄昏都の中心には、列柱が連なる神殿街が広がっている。
神殿街を抜け、神々の住まう界降地区を越えていく。
どれほど歩いただろう。
街の喧騒は遠のき、神気は静かに、しかし確かに深さを増していった。
暗い森を、小さな歩幅でひたすら進む。
不思議と、呼吸が楽になっていく。
やがて――月光が降り注ぐ草原の奥に、ひっそりと、それでいて凛と佇む神殿が姿を現した。
「こちらが、夜姫様の宮です♪」
夜の宮。
その言葉だけで、胸が震えた。
扉が開かれる。
深い藍の柱。
星々が瞬く天井。
足元では、夜の神気がやわらかく揺らめいている。
――ここが、私の住む場所。
まだ実感は追いつかない。
それでも、足元の世界は確かに夜姫を迎え入れていた。
遣い神たちに導かれ、さらに奥へ進む。
最後の扉の向こうには、石枠の大窓と天蓋付きの寝台だけが置かれた、静かな部屋があった。
夜姫は、ほっと息を吐いた。
とにかく休みたい。
心も、身体も、限界だった。
――その時。
コックルたちが寝台へ駆け出した。
「わぁぁいっ♪」
「きゃっきゃー♪」
跳ねて、転がって、大はしゃぎ。
夜姫の視線に気づき、五人はぴたりと動きを止めた。
「ごめんなさい」
五人そろって、寝台の上に正座する。
夜姫は思わず、くすっと笑った。
「ここは、夜姫様の神気がいちばん穏やかに巡るよう、天照様が整えられた宮なんです」
その名を聞いた瞬間、夜姫の顔が一気に熱くなる。
「夜姫様と天照様は、この世界で唯一、対を成す神。これから、ずっと一緒です♪」
嬉しそうで、少し誇らしげな声だった。
“天照”。
黄金色の春風。
琥珀色の、少し驚いた瞳。
少年のように無邪気な笑顔。
そして――
『百年経ったら考えてやる』
(百年……)
短いのか、長いのか、生まれたばかりの夜姫にはよく分からない。
ただ、握られた手に残る温もりだけは、妙に鮮明だった。
そんな戸惑いを察したように、コックルたちは夜姫を寝台へそっと促した。
「夜姫様は、とても美しい夜の神様です」
「今日はもう、ゆっくりお休みください」
「また明日、お会いしましょう。いい夢を」
ぺこぺこ。
五つの小さな影が、順に頭を下げる。
「ようこそ、黄昏都へ」
「ずっと、会いたかったです」
扉が、静かに閉ざされた。
夜姫は寝台に身を沈める。
生まれ溢れたときから、自分の使命は“夜を守ること”だけだと思っていた。
それなのに――心が、人のように騒がしい。
混乱。
感動。
不安。
恥ずかしさ。
胸がざわめき、涙がほんの少し滲んだ。
“太陽”と出会ってから、初めて訪れた静寂。
夜姫は、夜に溶けるように眠りへ落ちた。
◇
やがて、黄昏都に朝が訪れた。
夜の宮の大窓から、一筋の光が忍び込む。
夜を追い払うような強い光ではない。
眠りを妨げぬよう、掛け布の隙間からそっと頬へ触れる、やわらかな朝光だった。
夜姫は寝台の上で、小さく身じろぎする。
(……気持ちいい)
夜を司る自分が、陽だまりに安らいでいる。
そのことが少し不思議で――けれど、嫌ではなかった。
閉じた瞼の裏が、淡い金色に染まっていた。
◇
常世全土を見渡す岩山の頂――
並の神では足を踏み入れられない静寂の丘に、天照はいた。
古の大樹に背を預け、朝風に髪を揺らしている。
ここにいる間だけは、最高神へ向けられる無数の視線も、絶えず届く祈りの声も遠い。
それでも、その心まで休まってはいなかった。
視線の先にあるのは、薄霧に霞む夜の宮。
昨夜まで、あの宮は空だった。
千年もの間、ずっと。
天照は、祈りから零れ落ちた絶対神格だった。
誰かから生まれたわけでも、何かを受け継いだわけでもない。
初めから、世界にただ一柱。
並び立つ者も、同じ孤独を知る者もいなかった。
それでも、いつかは現れると信じていた。
夜を司り、自分と対を成す神が。
そして、ようやく現れた夜の神は、想像していたよりも――あまりに小さかった。
「……小さすぎるだろ」
漏れた呟きが、朝風に消える。
だが、神格まで幼いわけではない。
底知れぬ夜を宿した灰青の瞳。
星の欠片を編んだような銀の髪。
小さな身体の奥に満ちる、澄み切った夜の気配。
須佐男にあれほど無遠慮に絡まれても、泣かず、逃げなかった。
最後まで、目を逸らさなかった。
千年待ったのだ。
あと百年など、天照にとっては瞬きほどの時間にすぎない。
今はまだ幼い。
ただ、それだけだ。
失望ではない。
そう言い聞かせたはずなのに、脳裏に浮かぶのは、夜姫の神格ではなかった。
赤く染まった頬。
懸命に己を保とうとする声。
手のひらに残る、小さな熱。
「百年経ったら――か」
天照は目を伏せた。
誰かに期待を持たせるような言葉を、軽々しく口にする性分ではない。
それなのに、あの時だけは――気づけば口にしていた。
「……何を言ってるんだ、俺は」
葉擦れの音が、その呟きをさらっていく。
朝日が薄霧をほどき、夜の宮の輪郭を少しずつ浮かび上がらせる。
天照は、そこから目を離せなかった。
「……夜姫」
届くはずのない名が、朝の光へ溶けていく。
それが――
黄昏都で対を成す二柱が迎えた、最初の朝だった。




