【第27話】花嫁修行
季節は夏を終え、
——常世とこよの国、神々の住まう場所。
黄昏都たそがれとには優しい風と、淡い陽光が戻っていた。
緑豊かな石造りの神殿街。
幾つもの列柱建築が連なり、石畳の階段は複雑に入り組み、
ひとつの大きな街を形づくっている。
とある寂れた東の外れ。
石段を下り、左へ折れた先にある——
控えめで、存在の薄い小さな宮。
辺りには、食を誘う豊かな匂いが漂っていた。
食神たちが暮らすこの宮に、夜姫はよく足を運んでいた。
釜戸から、こんがりと香ばしい匂いが立ちのぼる。
「今だよね?
……いいかな?」
食神たちとコックル達に確認すると、
夜姫は勢いよく大きなミトンを腕にはめ、
こんがり焼き目のついたそれを取り出した。
小麦を発酵させ、季節の野菜と干し肉を包んで焼いたもの。
それは、かなりの量だった。
明け方から仕込みをし、昼餉に備えていたのだ。
コックル達はよだれを垂らし、今にも手を伸ばしそうになる。
「夜姫様はもう、一人前の職人だね」
隣で見守る食神が微笑む。
夜姫の灰青の瞳が、柔らかく緩んだ。
「こらー。待て待て、待ちなさい」
いたずらな手を、夜姫は優しくかわす。
「うーん……どれが一番不恰好かな」
熱々のそれをひとつ手に取り、
ゆっくりと二つに割る。
じゅわり、と香ばしい湯気が立ちのぼった。
「「いっただきまーーーす♪」」
コックル達が一斉に手を伸ばす。
賑やかな、食の宮のいつもの光景。
「夜姫様、すっごく美味しい♪
一緒に食べよ♪」
夜姫は嬉しそうに微笑むだけで、
手を出さなかった。
——自分より先に、誰かが満たされることが、
いつの間にか当たり前になっていた。
「みんなに食べてほしいから大丈夫。
……あ、でもこれはだめね」
形の整ったもを集め、
丁寧に紙へ包み、紐で留める。
——そして自分の分に不出来な物も一つ。
その様子を見守りながら、食神のミトラが尋ねた。
「どう? 最近のご感想は」
夜姫は心底うれしそうに微笑んだ。
「ふふ……
無言で食べてるけど、
絶対美味しいって思ってるよ。
たまに最後に——
“また頼む”って言うし」
頬がほんのり紅潮し、恋の色を宿す。
「夜姫様が熱心に練習してるから、
あの最高神でさえ、舌は嘘をつけないんですね」
隣で見守る食神――ミトラが、穏やかに微笑んだ。
「いつもありがとう。
全部、ミトラのおかげだよ」
夜姫はきらめく瞳で頷いた。
「ねぇねぇ! 僕たちも!
いつもいっぱいお世話してるーー♪」
コックル達がキッチンを走り回る。
「ふふ……本当だね。ありがとう。
大好きだぞう♡」
夜姫が微笑むと、
コックル達は有頂天になって跳ね回った。
平和な、食の宮のひと時。
——さて。
夜姫は冷めないうちにと包みを抱え、
食の宮を後にした。
コックル達には食事を続けるよう伝え、
食神にも笑顔で見送られる。
外套をさっと纏い、
神殿街から界降地区まで、
鹿のように軽やかに駆け抜けていく。
その時——
角の向こうから、やかましい声が聞こえた。
須佐男だ。
夜姫は腕の中の包みを見下ろし、少し考え、
柱の陰からそっと様子を窺う。
武神たちと一緒に、食事処を探しているらしい。
(……見つからないように)
方向を変え、駆け出した。
——その瞬間。
大胆な気配。
石畳の上で腕を組み、
白い歯を見せる須佐男が立っていた。
「ちゃおーー!
マイハニーじゃん♡
なんで声かけてくんねぇのさ?」
少し乱れた漆黒の髪。
武神たちと運動でもしてきたのだろう。
「今から飯行くけどどう?
一緒に行こうぜ!」
夜姫は腕を後ろに隠し、首を振る。
「今日は、やめとく」
須佐男の視線が鋭く動いた。
「なに持ってんの?
……それ、めっちゃいい匂いしてるぞ?
プ〜〜ン♡って!」
夜姫は一瞬たじろぐが、袋に手を入れ、
一つだけ取り出した。
「ほら。作ったんだよ。
でもこれだけ! おかわりはなし!」
須佐男は雄叫びを上げた。
「うっま!!
あったけぇ!!
夜姫ちゃん、俺のために……!!」
武神たちが集まってくる。
「夜姫様、俺らの分も——」
夜姫は苦笑する。
(……朝から、どれだけ大変だったと思ってるの)
だが須佐男は袋を覗き込んだ。
「まだあるじゃん?」
「だ、だめ!
私もまだ食べてなくて……」
圧に耐えきれず、手渡す。
「愛してるぜーーー!!
ご馳走さん!!」
ケチるほどのものじゃない。
分かっている。
——そう思える自分でいなければ、とも。
残ったのは、小さくて不恰好なひとつだけ。
ぐぅ、と腹が鳴った。
(……今日は、もう帰ろうかな)
肩を落とし、回廊を歩く。
その時——
光の気配。
「夜姫か……」
回廊の正面に、
いつもと違う装いの天照が、使いの神々と共に立っていた。




