【第19話】 紅い果実飴編 レストラン邸宅にて
少し階段を下りると、
天照は迷いなく石畳の脇道を切り進んでいた。
風が切り裂かれ、
黄金の短髪が風に揺れている。
夜姫の銀の絹髪もひらりと舞う。
(待って……)
呼び止めたい衝動が、喉の奥で凍りついた。
言葉にしてしまえば、
この距離はもう戻らない気がした。
行きはすぐ隣にあった温度。
今は、指先すら触れない距離。
ほんの半歩。
それだけの差なのに、
夜姫には世界が変わって見えた。
振り返ることなく、
陽光を背に受け凛と歩む天照の背中。
すれ違う者たちは、
誰もが息を呑み、囁き合う。
「なにあの男……、彫像みたいだ」
「いや……王だ……」
声だけが夜姫の耳を刺す。
その声が、
天照を讃えていると分かるほど、
胸の奥がひりついた。
夜姫には、そのさざめきすら遠かった。
やがて、古い石造りの洋館が
静かに佇む道の終わりへ辿り着く。
天照は一言。
「一旦、休むぞ」
それだけで、拒絶でも命令でもないのに、
夜姫は少しだけ救われた気がした。
重厚な扉が押し開かれた瞬間、
外の喧騒がすべて切り離された。
──バタン。
落ち着いた絵画、
深い色彩の絨毯。
音まで吸い込むような静寂が
館内を満たしていた。
夜姫がふと漏らした感嘆に、
「前に久遠が連れてきた。
煩いアイツが気に入った店なら、間違いない」
天照は視線を合わせないまま答える。
(まだ……怒ってる……)
怒りというより、
何かを押し殺しているような声音。
長い大理石のテーブルには
陽光が透けるように反射していた。
当然のように颯が夜姫の隣へ座る。
その瞬間、天照の肩がわずかに動いた。
ほんの僅かな反応。
だが夜姫は、それを見逃さなかった。
ちょうどそこで、ソムリエが緩やかな動作で現れ、
黄金の酒を満たしたワイングラスが
大人二人の前に滑り置かれる。
若い二人には葡萄ジュース。
境界線を示すように、濃く甘い香りが立つ。
天照は酒をほんの一口だけ。
その琥珀の瞳に薄い影が揺れた。
何かを飲み下すように、
何かを飲み込まないように。
そして、
天照は一瞬だけ、
夜姫の横顔を見てから視線を逸らした。
「……ガキの分まで奢る気はない。
だが、ここまで来た度胸だけは認めてやる」
その響きは、
静けさの中で冷たい切っ先のように通る。
続けざまに。
「その娘に、これ以上近づくな。
……夜姫は、お前の手が届く場所にはいない」
夜姫は一瞬で頬まで染まり、
颯は燃え上がる。
水波女は、
氷のように薄く笑って眺める。
颯は負けじと夜姫の肩を抱き寄せる。
天照の琥珀の瞳が、
静かに狩人の色に変わった。
「離せ。
お前が触れていい存在じゃない……」
低く、優雅な怒気。
空気が凍りつく。
夜姫は震えながら言葉を繋ごうとする。
「ね、喧嘩しないで……?
髪飾りのお礼に、今日は私が奢るから……
だから、楽しくしよ……?」
その想いは飲み込まれ、
声だけが震えて消える。
(水波女は、その揺れを見逃さない)
颯の声は震え、
それでも真っ向から天照へ向かう。
「力を持つ者は、
誰の心も踏み台にしていいとでも言うのか。
アンタには隣に綺麗な女神がいるだろ!」
颯には、水波女が
恋人にでも見えているようだ。
夜姫は慌てて否定する。
「アマテラス様は……そんな方じゃ……
まだ、お嫁さんも……いない……し……」
途端に不安が募る。
否定しない水波女。
遠くを眺める天照。
その沈黙が、
夜姫の胸を一番強く締めつけた。
天照の女性関係は正直よく分からない。
天照へ熱い眼差しを送る女神を、
夜姫も何人か知っている。
夜姫は視線を下ろした。
天照は腕を組み、
静かに息を吐いた。
「……それはな。
できる奴だけが、口にしていい言葉だ」
その瞬間、
場の空気は完全に天照のものとなる。
沈黙。
それぞれの怒りも、困惑も、哀しみも
すべてが息を潜める。
そこへ、香りが救いのように滑り込んだ。
スパイス。
バターと肉の香り。
花の色彩が添えられた皿が
テーブルに華やぐ。
「美味しそう。
天照様、ご馳走さまです」
水波女の声音は柔らかく、
蒼い瞳が楽しげに弧を描く。
「……ああ」
天照は短く返し、銀の食器を取る。
夜姫にも視線を向けず、
「……冷める。
食え」
「……うん。
…いただきます」
神々の所作はすべて洗練され、
それだけで絵画のようだった。
喉を通る黄金の酒さえ、
この日のために生まれたようだ。
颯は、怒りを忘れるほど見惚れ、
夜姫は胸元がまだ熱いまま囁いた。
「ね?美味しい……」
夜姫の頬は淡く染まり、
灰青の瞳は潤む。
(……苦しい)
天照は依然として、夜姫を見ない。
夜姫はずっと、天照の横顔だけを見ている。
水波女だけが、
ふっと微笑んだ。
すべてを知っている者の、
それでも口を挟まない大人の微笑みだった。
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