【第17話】 紅い果実飴編 水の神と常降の街工房
人々のざわめきが、すっと割れた。
まるで波が道を開けるように、その“女”を中心に空気が変わる。
隠す気のない、澄みきった神気。
だが、彼女は人の衣を纏い、
軽いローブを肩に無造作に掛けているだけ。
それでも一目で分かる。
――水を司る者の、しなやかで完璧な肢体。
足まで滑り落ちる深い翡翠の髪は、
光の粒を孕んで水面のように揺れる。
白磁の肌は、触れればたちまち溶けてしまいそうなほど儚く。
夜姫の月光とは異なる、
深海を思わせる蒼の瞳。
静寂を抱きながら、奥底に確かな意志と冷ややかな聡さを宿している。
その肩は華奢で薄いのに、
ひと睨みで暴れる嵐さえ凪がせるような気配を持つ。
歩むたび、見えない水面がたゆたうように地が波打つ。
誰も触れられない静謐と、底知れない力。
彼女はただそこに立つだけで、
世界は――呼吸を忘れた。
夜姫もその存在に息を呑んだ。
(神だ…しかも高位な、なんでこんなところに?)
「気安く話しかけるな。今は私用だ。
…それに、その神気なんのつもりだ」
天照は身体を向けないまま話しかけた。
クスと口許を抑えながら微笑うその仕草は、
何とも余裕で美しい。
「貴方ほどの高位でないから、
これ以上隠すことが出来ないだけです。
どうかご容赦を。」
余裕の冷やかな微笑。
スッと見据えた蒼い瞳で夜姫を捉える。
「……すごいのね。
まだ成熟していないのに。」
その瞳は獲物を捉えた強者のようだ。
得体の知れぬ強者の目。
一歩。
また一歩。
水面を渡るように、夜姫へ近づき――
石畳みに座り込む夜姫の前で膝を落とす。
青年など視界に存在しない。
すぐ触れられる距離。
夜姫の睫毛の震えまで見える距離。
蒼い瞳が瞳孔を見開き、夜姫の底の底、
宇宙を、神格を覗いている…
「…綺麗。
末恐ろしいわ…」
夜姫が彼女の言葉の意味をすぐに理解する。
喉が鳴る。
心臓が跳ねる。
夜姫は――叫んだ。
『わ、わたしはっ……!!
……………………
人!!ですぅっっっっっ!!!!』
響き渡る、人間界全土に届きそうな大否定。
一瞬で、静寂。
観客の視線が集中する。
各々興味深く、見守る人々は一斉に黙りこみ、
辺りに静けさが広がっていく。
天照はそっぽむいて、上を向いて溜息をついている。
青年はその様子を真剣に受け止め、
美しいその女は静かに肩を震わせた。
「分かってるわよ。
天照様の“可愛い人”」
夜姫の肩がぴくりと跳ねる。
「常世の最高神をここまで振り回すなんて、
その美しさ、伊達じゃないわね」
堂々と言い切り、蒼い瞳で夜姫を肯定する。
そして、にやりと口角を上げた。
女は立ち上がり、天照の隣へすっと歩く。
夜姫の胸が、きゅっと縮む。
理由は分からない。
「私は水の神——
水波女。よろしくね」
その瞬間。
広場の空気が爆ぜた。
「見て、やっぱり神様…太陽神?…最高神だよ?!」
「二人とも…すご…」
「天照様の顔を見せて!!」
「おい、俺達にも見せろ」
人々は悟った。
ここで起きているのは、日常ではない。
――奇跡だと。
周囲は一斉にどよめき、
歓声と畏怖の声が渦を巻いた。
─────────
広間は最高神と水の神、二柱の出現で大きなどよめきに包まれていた。
天照と水波女は人の渦の奥へと姿を消し、
小さな夜姫の視界にはもう映らない。
(……私のせい)
天照の神気が、わずかに乱れているのが分かる。
祈壇区へ続く階段を降りて来る間、天照は何度も忠告していた。
────「今日はバレるなよ。
それができないなら、次はない。」
胸がぎゅっと痛む。
そんな夜姫の心を知らない青年は、
ただ嬉しそうに語りかけてくる。
「すごいな!神様と知り合いなんて……
それに、人間だったんだね!」
爽やかな笑み。
夜姫をまっすぐ見て、隠しもしない。
「僕の名前は颯。
改めて、よろしく!」
差し出された手は、夜姫の知らない未来だった。
夜姫はそっと握って、微笑む。
「よろしくね、颯さん」
颯は両手を天に向け、喜びを露わにした。
「やった……!本当に嬉しい!!
よし、再会のお祝いだ!
この街、案内するよ!」
「ま、待って!!」
声は震え、風に攫われた。
颯は夜姫の手を引き、風を切るように歩き出す。
普段ならきっぱり断れていた。
でも、
天照との初めての人間界。
自分のせいで壊した約束。
聞きたくなかった颯の想い。
水波女の蒼い瞳。
(……顔を見られない)
神格で場所を伝えようとした指先が、
天照への恐れで止まる。
「大丈夫。向こうが少し
落ち着いたら、
ちゃんと戻れるようにするよ!!」
颯は夜姫の不安を誤解しながらも寄り添う。
「……僕、ずっと夢だったんだ。
君をエスコートするのが…」
断れない。
夜姫の胸に矢を放つ言葉。
「お願いだ…」
夜姫は―― 曖昧にこくり、と頷く。
(どうして。私なんかを……)
「ありがとう…!!」
満面の笑顔。
強く、颯は優しく夜姫の手を握る。
二人は早足で常降の広間を抜け、石畳の階段を上がる。
露店の並ぶ通り。
活気ある声。
夜姫は、小さく笑って人々へ会釈する。
胸の奥がぐちゃぐちゃのまま。
露天の主人達は夜姫の事を知っているようだった。
「颯!それが噂の銀髪天使ちゃんか!?」
「ついに再会か、やったな颯〜!
お似合いだぞ!」
「お嬢さん、颯は将来有望だから安心しな!」
(……どうして、祝福されてるの?)
複雑な感情が、静かに胸に沈む。
やがて、目的の地に着いた。
石畳みの細道にひっそりと佇む、
その店は随分古くからそこにあるようだった。
小さな木の扉。
彫刻の取っ手。
鈴の音。
キラキラと輝く宝石のような職人工房。
颯は店主へ駆け寄る。
「オヤジ!!
ずっとお願いしてたやつの出番だ、
出してくれ!」
底の厚い眼鏡の初老の男が渋く唸る。
「……あいよ。
あの噂の銀髪の天使のお嬢さんのだろ?
本当にお前の夢か何かじゃなかったのか…
ほれ。」
夜姫の胸が、どくんと跳ねた。
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