【第16話】 紅い果実飴編 紅い果実は恋の香り
日が高く昇り、正午を過ぎた頃。
常世の最高位の二柱は、
人間界――常降とこふり
祈壇区へと続く石畳の階段を降りていた。
黄昏都の白い列柱は、背後で少しずつ遠ざかっていく。
足元の石は、神殿街の磨き抜かれた白から、雨風に角を削られた灰色へと変わり、
階段の隙間には名も知らぬ草花が顔を出していた。
一段、また一段と降りるたび、肌に満ちていた神気は薄れ、代わりに湿った土の匂いと、
遠くから漂う焼きたての麦の香りが混じり始める。
周囲の草木も、見覚えのない形へと変わっていく。
黄昏都の草花のように、祈りを宿して光ることはない。
風に揺れる葉の一枚一枚には、
人の世界でしか生まれない柔らかな生命力があった。
夜姫は銀のポニーテールを嬉しそうに揺らし、
少し先へ跳んでは、何度も振り返って笑った。
天照は、首元まで隠した人の装いに、
まだわずかな違和感を纏いながら後を歩く。
神であることを押し込めたような衣は、彼の体には少し窮屈そうだった。
「アマテラス様は、何を着てもカッコいいんですね!
今日はこれを見れただけで幸せです♡」
夜姫は満開の花みたいに、何度も見上げる。
天照は肩をすくめた。
「はぁ…お前は雑だな。
ローブ羽織ればいいと思ってるだろ」
夜姫は頬を赤くしながら笑う。
「えへへ。だって、持ってないんです。
私は常に、アマテラス様の隣にいたいので
他はいらないんですよ!
天照様は滅多にこっちこないし!」
天照は溜め息を吐いた。
その横顔は、照れか、不快か、そのどちらもか。
「お前…須佐男には気を付けろよ。
俺だからよいものの……」
「大丈夫!一番はアマテラス様だけです!」
「じゃあアイツは何番だ」
「え?二番? あ、コックル達も?同じかな?」
また深い溜息。
(──コイツは…)
◇
常降地区の中央広場は、人の熱で賑わっていた。
石造りの店々が円を描くように並び、赤や生成りの日除け布が風に揺れている。
焼きたてのパンと果実の甘い香り。
香辛料をまぶした肉を炙る匂い。
石畳を行き交う荷車の軋み、商人の呼び声、子どもたちの笑い声。
テラス席では、昼の食事を楽しむ人々が陽光を浴びながら杯を交わしていた。
黄昏都とは違う。
祈りに満ちた静けさではなく、
食べて、笑って、働いて、急いで、また笑う。
眩しいほどの“生”が、広場のいたるところで息づいていた。
天照が問う。
「……で、何が食いたい」
「本当にアマテラス様は食べ物ばかりですねっ」
夜姫は頬を膨らませ──
次の瞬間、灰青の瞳に星が宿る。
「あのね!初めて常世に来た日!
アマテラス様に初めて会った日です!」
天照の胸の奥を、何かがひとつ鳴らす。
夜姫は必死に言葉を繋ぐ。
「その……来る途中、祝福祭の屋台で…!
真っ赤な果実に、飴が――
ジュワ〜っと甘酸っぱくて!!」
身振り手振りまで全力だった。
天照は呆れたように目を細めたが、その必死さに、苦笑を隠しきれなかった。
広場の向こうには、飴色の艶を纏った紅い果実が串に並ぶ屋台も見える。
陽を受けた飴は宝石のように透き通り、赤い果実の丸みをきらきらと閉じ込めていた。
「それが食いたいものか」
「はいっ!アマテラス様と絶対食べたいって!」
天照は小さく息を吐く。
だが声は柔らかかった。
「なら、行くか」
「やったぁぁ!!」
走り出す夜姫は、今日も天照しか見ていない。
だから。
「前を見──」
ドンッ。
夜姫は勢いのまま、誰かにぶつかって転んだ。
人波がわずかに揺れる。
天照はすぐに手を差し出したが、
ほんの一瞬、遅かった。
差し出される青年の手。
若く低い声。
「大丈夫?」
夜姫より少し年上に見える青年は、躊躇なく夜姫の腕を引き起こした。
年頃は同じくらい。
爽やかな笑顔が印象的な青年だった。
夜姫は慌てて呼びかける。
「すみません……どこも痛くないですか?」
青年の瞳が喜びに震えた。
「…覚えてる?僕だよ。
祝福祭で飴をあげた…あの時の」
夜姫の灰青の瞳が揺れる。
「……歯がなかった子?」
青年は吹き出して笑った。
「歯なんて生え変わるよ!
でも…やっぱり君だった。
ずっと会いたかった。
銀の女神様…」
天照の表情が、冷たく険を増す。
青年は夜姫に問う。
「ずっと忘れられなかった。
奇跡だと思った。
その髪も、瞳も。
君の名前を……教えて?」
夜姫は戸惑いの中、思わず唇が動いた。
「……夜姫」
天照の眉が、わずかに動く。
「夜姫、よるひめ……よる……ひめ……」
青年は、その名を宝飾のように響かせる。
「最高だ……
僕は人間だけど、君が好きだ。
ずっとずっと、この先もずっと!」
夜姫は真っ赤になる。
天照を見て、青年を見て、混乱は深まる。
「……なんで、私なんか覚えてたの?」
青年は夜姫の手を離さず、微笑む。
「無理だよ…忘れるなんて。
だって君は、太陽が振り返るほど美しい」
気付けば――
いつの間にか二人を囲むように、人々が集まり始めていた。
「見て…あの髪…銀色?」
「天使?…違う、神様…?」
「隣の男なんて、彫像みたいだ…」
夜姫の銀の絹髪は陽光を受けて、星屑のように煌めいている。
灰青の瞳は、昼の光を含んだ湖面のように澄み渡っていた。
そして、その隣に立つ男――
天照は、人の男より頭ひとつ高く見える長身に、
光を受けるたび黄金にも見える短い髪。
琥珀の瞳は深く、鋭い。
首元まで隠した人の装いをしていても、肩の広さも、背筋の通り方も、そこに立つだけで周囲の空気を変えてしまう。
どれほど人の姿へ落としたとしても、隠しきれる存在ではなかった。
息を呑む気配が、二人の周囲で膨らむ。
「ほら、見ろよ……あの雰囲気、普通じゃない」
「触れたら消えそうな……」
「いや、触れたら焼かれそうだ」
ざわめき。
畏怖。
憧れ。
それぞれが入り混じった視線が、二人へと注がれる。
夢中になって夜姫の手を握る青年が、ふと気付いた。
広場を切り裂くように落ちる、夜姫のすぐ背後から伸びる長い影。
ゆっくりと顔を上げた青年の瞳に映ったのは、
恐ろしいほど静かな、
圧倒的な存在。
――天照だった。
「ど、どうも……」
彫像のようなその男の表情に、感情は見えない。
天照が、口を開きかける。
ふと、背後に高圧的な澄んだ神気が弾けた。
「あら……やっぱり、天照様?」
夜姫の知らない、透き通った神の声。
天照は面倒そうに目を細める。
「……水波女ミズハメか」




