【第13話】 翡翠湖――十四歳の夏
夜姫が常世へ来て、八年。
十四歳の夏。彼女の一日は、今日も光の中で始まる。
神々の住まう黄昏都の空には、夏の陽光がゆらゆらと漂っている。
薄雲の切れ間と山脈の稜線から金色の光芒が差し込み、神殿を中心に、街全体をゆるやかに包み込んでいた。
今日も祝福された一日の気配が、風に溶けている。
神々の装束はさまざまだ。
多くはお気に入りの布を一枚、ドレープ状に羽織り、宝石や装飾で留め、肌を自由に見せたり隠したりして楽しんでいる。
夜姫も初めは、粗末な布と外套しか持ち合わせていなかった。
けれど、天照の“対”であるというだけで、神々は競うように上質な布や宝石を差し出してくる。
だが――
まだ走り回りたい年頃の夜姫には、重たい装飾も、眩しい宝石も、少しも必要なかった。
灯火市で見つけた薄く軽い布で仕立てた、頭からすっぽりとかぶれる一枚衣だけを纏い、幾つも枝分かれする石畳の階段を駆け抜ける。
十四歳の夏の風が、肺いっぱいに広がった。
今日も神殿街には、夜姫の澄んだ笑い声が響いている。
針葉樹の梢が揺れる下を、コックルたちが夜姫を追いかけ、石畳を必死に踏み鳴らす。
「夜姫様! 待って! 早い……っ!」
コックルが息を切らしながら叫ぶ。
「そんなに走らなくても、時間は逃げないよ!」
隣を走るトックルも、すでに足元がふらついている。
遅れていた三柱も、ぜいぜいと肩を上下させながら、どうにか追いついてきた。
「僕ら、武神系じゃないから無理……」
サットルが胸を押さえる。
「もう少し優しく扱ってほしい……」
ファッタルが涙目で訴えた。
「……しぬ……」
最後尾のテックルは、今にも石畳へ倒れ込みそうだ。
列柱の陰からその様子を見ていた神々が、思わず微笑む。
この都が、今日もまた明るくなる――そんな気配がする。
幾つも分岐する階段は、もう彼女の頭の中に地図がある。
最後の曲がり角を抜けると、待ち合わせ場所へ続く長い石段が見えた。
夜姫は夏の光を受けて銀髪を大きくなびかせ、駆け上がり、最後の数段を一気に大きく跳び越える。
軽やかに着地した。
肺へ流れ込む夏の風。
汗ばんだ肌を撫でる、山からの冷気。
そして――
夜姫の目の前に、影がひとつ落ちた。
見上げた瞬間、白い歯がきらりと光る。
「よぉ!! 待ってたぜぇ、オレの可愛いハニー!」
須佐男の小麦色の肌が、夏の陽光を照り返して眩しい。
たまに――本当にたまに。
この神は、どうしようもなくいい男に見える。
今日の須佐男は、まさにそれだった。
夜姫の灰青の瞳が微かに揺れ、夏の光を宿したようにきらめく。
夜姫は大きく微笑み、声を弾ませた。
「お待たせっ!!」
その声は空高く響き渡り、黄昏都の神殿街上空で、鳥たちが一斉に舞い上がる。
今日の冒険を祝うように――
常世の夏が、二柱へ降り注いでいた。
✦ ✦ ✦
夜姫と須佐男、それに五柱の使い神は、神殿街を北へ外れ、黄昏都の喧騒から遠ざかっていった。
やがて、ひっそりとした深い森が見えてくる。
そこではシダや草木が好き勝手に生い茂り、神殿街では見られないほど大きな、光る蝶や虫たちが群れていた。
神々の手が入らない森は、草木が頭上を覆うほどに茂っている。
夜姫たちは枝葉を懸命にかき分け、跳ねるように奥へ進んだ。
至るところに、小さなベリーが甘く熟している。
夜姫は歩きながら一粒摘み、口へ放り込んだ。
ぎゅっと、酸味と甘さが舌の上で弾ける。
そのあとに不思議な刺激が残り、舌先がわずかに痺れた。
隣では、須佐男が口いっぱいにベリーを詰め込んでいる。
「ひぃ~~! すっっっっっっぱ!!」
須佐男は涙を浮かべながら、大声で笑っていた。
――彼といる時間は、ただただ楽しい。
✦ ✦ ✦
森を抜けた瞬間、目の前に光が開けた。
須佐男の瞳のような翡翠色の湖面が、光を砕くようにきらきらと揺れている。
湖畔には青い花々が風にそよぎ、岩山から流れ落ちる滝の水音が、身体の奥まで響いてきた。
鮮やかな羽を持つ鳥たちは水面に揺れる魚影を追い、宝石のような蝶が岩陰で戯れている。
あらゆる生命が息づく、楽園だった。
「ジャジャジャーン!!! どうだ! オレ様の秘密の場所!!」
須佐男は湖を背にして両手足を広げ、自分のものでもないのに誇らしげだ。
夜姫は吹き出した。
「須佐男のじゃないでしょっ!?」
お腹を抱えて笑いながら、彼の隣へ並ぶ。
「本当に綺麗……」
「だろ~? めっちゃくちゃ最高だろ!?」
夜姫が瞳を輝かせて頷く。
その唇に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「じゃあ――始める?」
「よっしゃあああ!!!」
須佐男は大声を上げて駆け出した。
バッシャーーーーンッ!
豪快に湖へ飛び込み、濡れた前髪をかき上げて、にかっと笑う。
今日の須佐男は、本当に、かっこいい。
驚いた鳥たちが空へ飛び立ち、蝶は散り散りに舞い上がる。
コックルが夜姫の一枚衣の裾をつかみ、青ざめた。
「よ、夜姫様。本当にやるんですか!?」
夜姫は灰青の瞳をきらりと光らせ、ゆっくりと息を吸い込む。
次の瞬間――
ふわり。
夜姫の身体は軽やかに宙へ舞い上がり、滝の上に突き出た岩棚へ、柔らかく着地した。
一歩、大きく下がる。
そして、お気に入りの一枚衣をさらりと脱ぎ、コックルへ向かって放った。
「ひゃあっ!」
慌てたコックルたちが、五柱まとめて布の下敷きになる。
その下では、淡い水の膜が胸元から腰まわりまでを覆い、ひと続きの水衣を形作っていた。
今日のために、密かに仕込んでいた水の護り。
十四歳の細くしなやかな身体を、水の光がきらきらと縁取っている。
遥か下から、須佐男の叫び声が響いた。
「いいぞぉぉぉ、夜姫ちゃん!!!
常世一! いや宇宙一、かわいいぞぉぉぉ!!!」
夜姫は弾けるように笑い、銀髪を束ねた髪紐を、きゅっと結び直す。
そして――飛んだ。
銀の閃光が、滝の白銀の帯を斬り裂くように落ちていく。
眩い飛沫が星のように弾け、翡翠の湖に虹を描いた。
「ヒャッハーーーーッ!!!」
須佐男は水面を叩き、ばしゃばしゃと大騒ぎしている。
岸では、コックルたちがタオルを抱えて走り回り、互いにぶつかり合って転んでいた。
須佐男も負けじと滝上へ舞い上がり、岩棚を蹴って飛び込む。
ドォン!!!
湖面が真っ二つに割れた。
魚たちが行き場を失い、何匹も水面から跳ね上がる……。
湖はすぐに穏やかさを取り戻したが、夜姫はおかしくて、楽しくて、声を上げて笑った。
何度も。
何度も。
夜の神と嵐の神は、日が暮れるまで、神であることも忘れ、ただの子どものように飛び、笑い合った。
夜に生まれた少女の、
あの頃にはなかった翼は――
この翡翠の湖で、確かに育っていた。
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