【第11話】 初恋
中央殿から少し離れた高台に、
石造りの静かな居場所があった。
そこが、太陽神・天照の住まう場所。
剥き出しの石枠にはガラスがなく、
初夏の風が素通りする。
空が近く、光の息遣いが聞こえる。
天照の加護が強い、
黄昏都だからこそ許された開けた造りだ。
夜姫は足を踏み入れた瞬間、胸が少し震えた。
床や窓際には、生活の跡がある。
あちこちに積み上げられた本の山。
果実の籠。
磨かれた銀の杯。
燭台、酒瓶。
乱雑ではない。
――ただ、
「ひとりの青年の暮らし」があった。
(……アマテラス様も、生きている)
少しだけ、それが嬉しい。
天照は夜姫の視線など気にするふうもなく、
窓際に連なる石の長椅子へ腰を下ろす。
いつもより少し行儀悪く脚を組み、
こちらを見て笑った。
「ほら。いつまで突っ立ってる。
早く来いよ」
天照が叩いた隣の席にだけ、
柔らかなクッションが用意されている。
夜姫はそこへ、
ちょこんと腰を下ろした。
その距離。
手を伸ばせば、触れられるほど近い。
心臓がひどくうるさい。
「久遠の件は気にするなよ。
あいつは昔から、ただ過干渉なんだ」
「……はい」
琥珀の瞳が覗き込む。
夜姫の灰青の瞳は、逃げ場を失った。
風がそっと頬を撫でた。
視線を逸らした先には――
眼下に広がる、果てしない大自然。
白い雲が柔らかく漂い、
その隙間からこぼれた光が、
標高の高い山々を照らしている。
常世草の白い花々が、
麓一面に咲き誇っていた。
「……すごい」
天照は、
林檎のように色づいた愛らしい横顔を見つめ、微笑んだ。
「夜はもっと綺麗だ。
夜空には星が輝いて……眩しい」
いつもより、天照の声が柔らかい。
夜姫の胸が、きゅっと鳴った。
天照が首を傾げる。
「何か飲むか?」
部屋に並ぶ美しい瓶の数々へ自然と目がいき、
夜姫は尋ねてみる。
「アマテラス様は……
お酒がお好きなのですか?」
その問いに、
天照の眉がわずかに上がる。
そして照れ隠しのように、唇が緩んだ。
「まあな。あまり酔えないから、
楽しみ方は下手だが……」
瓶を選びながら語るその姿は、
少年のように純粋で――
少し嬉しそうにも見えた。
やがて一本の細い瓶を光に透かし、
ぽつりと告げる。
「これは甘い貴腐酒だ。
飲み頃は、まだまだ先だな……」
天照は何かを閃いたように、
琥珀の瞳を輝かせた。
「お前が飲める頃には……
ちょうどいいかもな」
夜姫の胸が――跳ねた。
天照は貴腐酒を傍らに置き、
別の酒瓶と果実を手に取った。
慣れた手つきで刃を走らせる。
大きな掌。
煌めく刀身。
滴る甘露。
銀の杯に果汁を絞り、氷を落とす。
カラン――
風の音さえ、祝福に聞こえた。
天照は悪戯っぽく微笑むと、
夜姫の杯へひと滴だけ、
瞳と同じ琥珀色の酒を垂らす。
自分の杯には、その酒を半分ほど注いだ。
「飲んでみろ」
「でも……」
「これくらい大丈夫さ。祝杯だ」
低く響く声。
命令のように甘い。
夜姫は、一気に飲み干した。
――瞬間、世界が開いた。
頬が熱い。
胸が弾む。
灰青の瞳が宝石のように輝いた。
「おいしい!!
すっごく……おいしい!!」
天照が、ふっと笑う。
その笑みに、夜姫は無邪気に応えた。
大きな窓からひらりと、
常世草の白い花びらが舞い込んだ。
天照は舞う花びらの行方を見つめ、
傍らの貴腐酒へ指先を触れる。
「いつか……
これを、このまま飲もうな」
その言葉が、
夜姫の胸を破裂させた。
――止められなかった。
夜姫は弾かれるように身を乗り出す。
震える手で、天照の装束の端を掴んだ。
「…………
アマテラス様!」
少し驚いたように、
天照が石椅子へ手をついた。
灰青の瞳は、潤み、熱を帯びていた。
「私……
私ね、
いつか……
アマテラス様の……お嫁さんになりたい……!」
琥珀の瞳が大きく見開く。
「初めて会った時から……
ずっと……大好き……」
灰青の瞳が、
真っ直ぐに天照を離さない。
「今も……すごく……好き……
だから……っ」
空気が止まった。
天照は、固まったまま夜姫を見る。
小さな神体に宿る、
揺るぎない本気。
「…………」
どれほど時が止まっていたのかは分からない。
数分だったかもしれない。
その沈黙は、
夜姫には永遠のようにさえ感じられた。
天照の表情は、いつもと同じ。
冷静で、何も読めない。
ただ、肩がほんの少しだけ震えている気がした。
やがて少年めいた笑みを浮かべる。
「……そっか。夜姫、
ありがとな」
そっと頭に触れる。
「なら……早くここまで登ってこい。
俺を夢中にさせるくらいの、
女になってみせろ」
夜姫は心臓が爆発しそうなくらい、
この恋を確信した。
自分の一生を、この神に捧げる。
そう思った。
しかし天照は、
すぐに悪い顔をする。
「ま……
俺は結構モテるけどな?」
くくく、と少年のように笑っている。
酒を前にして、
機嫌がいいのだろうか。
どちらでも構わない。
優しかった。
優しすぎて、夜姫は泣きそうだ。
「はい。
……ぜったい、
……ぜったい頑張ります!!」
桃色に染まった夜姫の小さな顔が、
天照を覗き込む。
「……だから、
そばにいても……
いい?」
天照は吹き出す。
「このませガキ。
仕方ないな……
考えておく」
そして、
潤んだ灰青の瞳へ顔を近づける。
「特別だぞ?」
――彼のいる世界は、美しい。
初夏の風が、
眼下に広がる常世の大自然から舞い上がり、
銀の髪を揺らす。
その一筋が、夜姫の唇に触れた。
天照はそれを静かに整え、
灰青の瞳を真っ直ぐに受け止める。
光と夜。
太陽と影。
二柱の神が、
初めて同じ鼓動を鳴らした日。
――その瞬間。
夜姫の初恋は、
永遠に息をし始めた。
若い太陽と若い夜が、
互いの存在を
初めて愛おしいと知った記憶。
天照の人生で
最も明るかった、
たったひとつの、
まだ青い夏の午後。
二人だけの、
取り返しのつかない始まり。
その恋が、
のちに世界を壊すとも知らずに。
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