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常世神話譚 ー夜姫と最高神の千年恋譚ー   作者: 福山蓮
【第一部 星を見上げる少女】
12/31

【第11話】 初恋

 中央殿から少し離れた高台に、

 石造りの静かな居場所があった。


 そこが、太陽神・天照の住まう場所。


 剥き出しの石枠にはガラスがなく、

 初夏の風が素通りする。


 空が近く、光の息遣いが聞こえる。

 天照の加護が強い、

 黄昏都たそがれとだからこそ許された開けた造りだ。


 夜姫は足を踏み入れた瞬間、胸が少し震えた。


 床や窓際には、生活の跡がある。

 あちこちに積み上げられた本の山。

 果実の籠。

 磨かれた銀の杯。

 燭台、酒瓶。


 乱雑ではない。


 ――ただ、

「ひとりの青年の暮らし」があった。


(……アマテラス様も、生きている)


 少しだけ、それが嬉しい。


 天照は夜姫の視線など気にするふうもなく、

 窓際に連なる石の長椅子へ腰を下ろす。


 いつもより少し行儀悪く脚を組み、

 こちらを見て笑った。


「ほら。いつまで突っ立ってる。

 早く来いよ」


 天照が叩いた隣の席にだけ、

 柔らかなクッションが用意されている。


 夜姫はそこへ、

 ちょこんと腰を下ろした。


 その距離。


 手を伸ばせば、触れられるほど近い。


 心臓がひどくうるさい。


久遠くおんの件は気にするなよ。

 あいつは昔から、ただ過干渉なんだ」


「……はい」


 琥珀の瞳が覗き込む。

 夜姫の灰青の瞳は、逃げ場を失った。


 風がそっと頬を撫でた。


 視線を逸らした先には――


 眼下に広がる、果てしない大自然。


 白い雲が柔らかく漂い、

 その隙間からこぼれた光が、

 標高の高い山々を照らしている。


 常世草の白い花々が、

 麓一面に咲き誇っていた。


「……すごい」


 天照は、

 林檎のように色づいた愛らしい横顔を見つめ、微笑んだ。


「夜はもっと綺麗だ。

 夜空には星が輝いて……眩しい」


 いつもより、天照の声が柔らかい。

 夜姫の胸が、きゅっと鳴った。


 天照が首を傾げる。


「何か飲むか?」


 部屋に並ぶ美しい瓶の数々へ自然と目がいき、

 夜姫は尋ねてみる。


「アマテラス様は……

 お酒がお好きなのですか?」


 その問いに、

 天照の眉がわずかに上がる。


 そして照れ隠しのように、唇が緩んだ。


「まあな。あまり酔えないから、

 楽しみ方は下手だが……」


 瓶を選びながら語るその姿は、

 少年のように純粋で――

 少し嬉しそうにも見えた。


 やがて一本の細い瓶を光に透かし、

 ぽつりと告げる。


「これは甘い貴腐酒だ。

 飲み頃は、まだまだ先だな……」


 天照は何かを閃いたように、

 琥珀の瞳を輝かせた。


「お前が飲める頃には……

 ちょうどいいかもな」


 夜姫の胸が――跳ねた。


 天照は貴腐酒を傍らに置き、

 別の酒瓶と果実を手に取った。


 慣れた手つきで刃を走らせる。


 大きな掌。

 煌めく刀身。

 滴る甘露。


 銀の杯に果汁を絞り、氷を落とす。


 カラン――


 風の音さえ、祝福に聞こえた。


 天照は悪戯っぽく微笑むと、

 夜姫の杯へひと滴だけ、

 瞳と同じ琥珀色の酒を垂らす。


 自分の杯には、その酒を半分ほど注いだ。


「飲んでみろ」


「でも……」


「これくらい大丈夫さ。祝杯だ」


 低く響く声。

 命令のように甘い。


 夜姫は、一気に飲み干した。


 ――瞬間、世界が開いた。


 頬が熱い。

 胸が弾む。

 灰青の瞳が宝石のように輝いた。


「おいしい!!

 すっごく……おいしい!!」


 天照が、ふっと笑う。


 その笑みに、夜姫は無邪気に応えた。


 大きな窓からひらりと、

 常世草の白い花びらが舞い込んだ。


 天照は舞う花びらの行方を見つめ、

 傍らの貴腐酒へ指先を触れる。


「いつか……

 これを、このまま飲もうな」


 その言葉が、

 夜姫の胸を破裂させた。


 ――止められなかった。


 夜姫は弾かれるように身を乗り出す。

 震える手で、天照の装束の端を掴んだ。


「…………

 アマテラス様!」


 少し驚いたように、

 天照が石椅子へ手をついた。


 灰青の瞳は、潤み、熱を帯びていた。


「私……

 私ね、


 いつか……

 アマテラス様の……お嫁さんになりたい……!」


 琥珀の瞳が大きく見開く。


「初めて会った時から……

 ずっと……大好き……」


 灰青の瞳が、

 真っ直ぐに天照を離さない。


「今も……すごく……好き……

 だから……っ」


 空気が止まった。


 天照は、固まったまま夜姫を見る。


 小さな神体に宿る、

 揺るぎない本気。


「…………」


 どれほど時が止まっていたのかは分からない。

 数分だったかもしれない。


 その沈黙は、

 夜姫には永遠のようにさえ感じられた。


 天照の表情は、いつもと同じ。

 冷静で、何も読めない。


 ただ、肩がほんの少しだけ震えている気がした。


 やがて少年めいた笑みを浮かべる。


「……そっか。夜姫、

 ありがとな」


 そっと頭に触れる。


「なら……早くここまで登ってこい。


 俺を夢中にさせるくらいの、

 女になってみせろ」


 夜姫は心臓が爆発しそうなくらい、

 この恋を確信した。


 自分の一生を、この神に捧げる。


 そう思った。


 しかし天照は、

 すぐに悪い顔をする。


「ま……

 俺は結構モテるけどな?」


 くくく、と少年のように笑っている。


 酒を前にして、

 機嫌がいいのだろうか。


 どちらでも構わない。


 優しかった。

 優しすぎて、夜姫は泣きそうだ。


「はい。


 ……ぜったい、

 ……ぜったい頑張ります!!」


 桃色に染まった夜姫の小さな顔が、

 天照を覗き込む。


「……だから、

 そばにいても……

 いい?」


 天照は吹き出す。


「このませガキ。

 仕方ないな……


 考えておく」


 そして、

 潤んだ灰青の瞳へ顔を近づける。


「特別だぞ?」


 ――彼のいる世界は、美しい。


 初夏の風が、

 眼下に広がる常世の大自然から舞い上がり、

 銀の髪を揺らす。


 その一筋が、夜姫の唇に触れた。


 天照はそれを静かに整え、

 灰青の瞳を真っ直ぐに受け止める。


 光と夜。

 太陽と影。


 二柱の神が、

 初めて同じ鼓動を鳴らした日。


 ――その瞬間。


 夜姫の初恋は、

 永遠に息をし始めた。


 若い太陽と若い夜が、

 互いの存在を

 初めて愛おしいと知った記憶。


 天照の人生で

 最も明るかった、


 たったひとつの、

 まだ青い夏の午後。


 二人だけの、

 取り返しのつかない始まり。


 その恋が、

 のちに世界を壊すとも知らずに。



挿絵(By みてみん)

 

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