五日目(上)
やっと時差ボケを完全に克服できた。最終日だけど。
由美はぐっと伸びをして輝く太陽に目を細めた。それから念の為かけていた目覚ましの設定を解除する。
さっとシャワーを浴びて、先に水着を、その上に大きなハイビスカスがプリントされたワンピースを着る。それからいつもよりゆったりと朝食を済ませた。
その後部屋に戻った由美は、ぐっぐっとスーツケースに服を押し込んで、必要そうな物を肩掛けカバンに詰め込む作業を始めた。最後に小ぶりの麦わら帽子を被って、流れるように部屋を後にする。
チン、という音と共にロビーに降り立ち、ホテルマンに会釈をしながらフロントへ。すぐにチェックアウトをして、手慣れたように黒塗りの高級車に乗り込んだ。
「おはよう、キース。スーツケースって此処に置いといて大丈夫?」
よっこらせ、とスーツケースを車内に持ち込んだ由美に、キースは少し口角を上げて頷いた。
「おはよう、由美さん。それはどこに置いてくれても構わないが……トランクを開けるか?」
「んー……いや、大丈夫」
由美は首を振って、スーツケースと共にキースの向かいに座った。それからしげしげと彼を見つめる。いつものように固いスーツではなくて、Tシャツにジーパンというカジュアルな服装だ。
「キース、ずるい」
首を傾げたキースに、由美は薄く笑って何でもないと伝える。何でも似合う。ずるい。そう、心臓に悪い。ただそれだけの話だ。
「でさ、キースも勿論、泳ぐよね?」
「そのつもりだ」
疑問符もあったものじゃない由美の言葉。その言葉に頷きながら返答したキースに、由美はうわあ、と目をきらきらさせた。それから少し興奮気味に捲し立てる。
「じゃあ、じゃあね、砂のお城作ったりとかビーチバレーしたりとかしようね。浮き輪でちょっと遠くまで行ってみる、とかも、ね?」
その一つ一つに頷きながら、キースは由美の言葉に重ねるように呟いた。
「スコップも、ビーチボールも、浮き輪も、全部揃えてある」
「さっすが! キース、有能。褒めてつかわす!」
けらけらと冗談を言って、晴れやかに笑った。そんな由美に、キースは目に鮮やかなマンゴージュースを差し出した。礼を言って受け取った由美は、ストローを挿して飲みながら、いっそうわくわくする気持ちを増長させた。
「夏って感じで良いなあ、このジュース。……あ、それで、ビーチまであとどれくらいで着きそう?」
「そろそろだ。九時半には着く」
「そっかあ!」
そっかそっか、と子供のように無邪気に笑った彼女に呼応するように、キースも目元を緩ませた。それから数十分後、静かに止まった車に、由美は早速立ち上がった。車窓に広がる絵画のような景色に、虹色のため息を一つ。
「素敵、ちょー素敵。ほら、キース、早く、早く!」
The紳士という外見の運転手がドアを開けると、待ちきれなかったように肩掛け鞄とキースの手を掴んで由美は外に飛び出た。目の前に広がるアクアマリンを溶かし込んだような美しい海に興奮が抑えられない。
「sooooo beautifulだね、キース」
「そうだな」
キースは初めてではないのか、思いの外温度差のある声色に由美はキースを窺い見た。
「もう! まあ、仕方ないか。……それで、スコップとか浮輪とかは車の中? 運ばなきゃね」
冷静さを取り戻した由美が尋ねるが、キースはそっと首を振った。
「いや、既に全て運んである」
今度はキースが由美の手を掴んで、砂浜に足を踏み込んだ。さらさらした砂がサンダルを侵食する。顔を歪めながら周りを見渡した。
大勢の人、人、人。すぐそこにナイスバディのお姉さんと、筋肉ムキムキなお兄さんがパラソルの下で優雅にお酒らしき何かを嗜んでいる。ああ、あっちには砂の城が、向こうの方にはイルカ型の浮輪で海を漂う人が。夏真っ盛りの今日、サンタモニカビーチは喧騒の真っ只中であった。
「うわ、特等席!」
二人が立ち止まった場所で、由美は叫んだ。大きな白いパラソル。その近くにはバーベキューセットにビーチチェアが二脚。数種類の浮輪、バケツにスコップ、ビーチボール。海から連想できるあらゆるものが揃っている。何より岩場が近くにあり、そこまで人目もなく、なおかつ海も目前にあるという好立地。
「そうだな、なかな……由美さん、ちょっと、待ってくれ」
「んー?」
由美はワンピースをたくし上げていた手を止め、横目でキースを見やった。彼は片手で目を覆い、顔を由美から背けている。彼の耳が仄かに赤いことから、由美は彼に誤解を与えたことに気が付いた。
「あ、待って、違うってば。この下に水着を着てるの! こんなとこで下着姿になるとかそんなはしたないこと流石にしない!」
「……ああ、そうなのか。いや、だがそれはそう大した問題じゃない」
そう言って尚も由美から目を背けているキース。そんな彼の姿を数拍見つめて、由美はワンピースから手を離した。
「……なるほど」
長い沈黙の後、シャーロックホームズさながらに由美は重く呟いた。
「ビーチに行くってキースが言ってくれたでしょ。だから大丈夫なのかと思ってた。あっちにもこっちにもお姉さんがいっぱいいるけど今の今まで平気そうだったし」
そんな落ち着いた由美の声に、キースは目を覆っていた手を離して、由美と目を合わせる。彼女はピンと人差し指を突き出して続けた。
「つ、ま、り。女嫌いのキースに間近の水着は酷だって話。……だよね?」
それからキースの同意を得るまでもなく頷いた由美は、急に悪戯っぽく微笑んだ。それからワンピースに手をかけ、キースの制止を聞く前に脱ぎ捨てる。
「でもまあキース、慣れよ慣れ!」
一歩間違えればキースのトラウマをぐりぐりとえぐるような事をやってのけた由美は、それでもこの日にぴったりな笑顔を浮かべていた。
「あい、びりーぶ、ゆー」
わざとらしいまでのカタカナ英語を言い放ち、屈託なく笑った由美は、シンプルな黒の水着と共に海に駆け出した。彼女の後ろ姿を呆然と見送ったキースは、自嘲気味にため息を吐いた。
「Not exactly」
ぽつりと由美の推理に難癖をつける。別にあそこで寛いでいる女や、あそこで浮輪に寄りかかっている女を見ても何も感じない。きっと間近で見たとしても。無論、まとわりつかれると嫌悪感を抱くが。逆に、彼女の肌を自分の目に晒すとどうにかなってしまいそうで……。言うなれば、心の準備が出来ていなかっただけだ。
そのままキースはどさりとビーチチェアに腰を下ろした。用意されていた、傍にある青色のジュースを一口飲む。日光の鋭さに一瞬眉を顰めて、ゆっくりと海に目をやる。そこでは、由美が無邪気に海と戯れていた。
二人は時間の許す限り何だってした。由美がキースにcome hereのハンドサインをすると、観念したようにキースは水着姿になった。思いがけず同じ色、黒一色だったことに二人ははにかんだ。想像以上にいい体をしているキースに、由美の心臓はとくりと音を立てることを忘れなかった。
キースが引っ張ってくれる浮輪に乗り、ぷかぷかと浜辺から離れた。いくら足を伸ばしても海底につかない何とも言えない恐怖感に襲われる。それを拭うためにそっとキースの腕をつかんで、由美はからからと笑ってみせた。強がりだ、とはばれていたようだが。
砂遊びは言わずもがな、由美の不器用さが浮き彫りに出た。キースが細部にまでこだわり始めた為、由美は何も言わずに手を止めた。平和的である。
昼食はいつのまにか用意されていたバーベキューを堪能した。お肉なんて、値段が訊けないくらい美味しくて、ほっぺたが落ちそうだった。
それからビーチバレーもどきの玉遊びをして、振り出しに戻るように海に入った。
それから。
燃える様に赤い太陽が、海の底に消えようとしている。砂浜が黄金色に輝き、しばし見惚れながら由美もその瞳を茜色に染め上げた。そっとキースの隣に座り込む。髪を撫でる潮風が、信じられないくらい気持ち良い。
「すっごい。……綺麗」
海の彼方を見つめながら、ため息と共にとろける様に彼女はそう言った。
「由美さん、これ」
キースは由美に上着を差し出し、そっと彼女の肩に掛けた。いくら真夏と言っても、濡れた身体を打つ強い風は、少々の肌寒さを呼び起こす。キースはそのまま由美の左隣に座った。
「あり……あ!」
上着のポケットに手を入れた拍子に指先に当たった例の物に、由美は思わず声を上げた。不思議そうに由美を見つめるキースに、彼女はのろのろとそれを取り出す。
「はい、あげるよ」
彼の髪色の紐を摘み、彼女はそれをゆらりと振った。左手を出したキースの手のひらにぽとりと落とす。彼は紐に人差し指を引っ掛けてしげしげとそれを観察している。
「これは……」
「何だと思う?」
「匂袋、か?」
由美は微笑みながら首を振った。残念、違う、と小さく呟く。
「英語ではcharmって言うのかなあ……お守り。キースの仕事が成功しますように、って祈っといたから」
キースは目線を由美から手の中のお守りに落とした。何も言わない彼にむくむくと羞恥心が湧き上がってきた由美は、早口で口走る。
「まあ、さ。肌身離さずなんて言わないから、部屋の小物入れにでも置いといてよ、ね?」
そんな由美に、キースは柔らかく笑った。無言で、慈しむようにお守りを撫でている。沈黙に耐えかねた由美が口を開こうとしたとき、彼は静かに宣言した。
「大切にする」
「あ…………うん」
そう言って初々しい恋人のように、由美はキースから目をそらした。赤く色づく砂浜が焦燥感に似た何かを呼び起こす。
「由美さん」
ふいにキースが硬質な声色で由美に話しかけた。水色の貝殻を手に取ろうとした動きを止めて、由美はゆっくりと彼に顔を向ける。
由美は息を呑んだ。キースはその灰緑色の瞳に炎を宿して由美を見据えている。ひりひりと由美の心臓を焼き尽くすような力強さに、由美は一度目を閉じた。深呼吸一つ分の後、そっと目を開いて、口元に微笑みを浮かべる。
「なーに?」
「後ろを向いてくれないか」
頷いて由美は彼の言うとおりにした。ああ、左頬を染める太陽がやけに熱く感じられる。背後にキースの気配を感じ、由美は身をこわばらせた。
「何もしない。そんなに怖がるな」
逆効果だ。由美は叫びそうになった。耳元で囁かれる彼の声ほど、身を固まらせるものはないだろう。悶々とする由美に追い打ちをかけるように、首筋に彼の少し低めの体温を感じる。それは由美の髪をそっと撫で上げた後、一度離れた。
ねえ、何するの? そう尋ねるほど空気の読めない女ではないが、無言だと心臓が先にやられる。ぐっと目を閉じて両手を心臓の上にやった。
ふわりとキースの匂いが一瞬濃くなったかと思えば、首にひんやりとした冷たさを感じる。思わず目を開けた。
「動かないでくれ」
そう言うキースに顔を下に向けようとしたのを止めて、手だけでそれに触れる。
「……ネックレス?」
「ああ」
彼の体温が首から離れた。その瞬間由美は付けられたネックレスを見やる。ほんのりとピンクがかったシルバーの、桜をモチーフにしたネックレス。ちらちらと照る太陽が、ネックレスを輝かせている。
由美はじんわりと胸に広がる甘い感情を享受した。太陽の光をいっぱいに浴びながらキースの方を向く。思った以上に近い距離に驚きながら、由美は口を開きかけた。
そう、礼を言おうとしていたに違いない。礼を言う為に、キースを見上げて、彼の瞳を見て……それで、意識が奪われたのだ。
吸いこまれる、と思った。不思議な色合いの、燃えるような煌めきを放つ彼の瞳に。だから、咄嗟に目をそらしたけれど、そらした場所がいけなかった。
キースの薄い唇をぼんやりと見る。触れたい、という欲求が脳を貫く。由美はぼう、と顔を近づけた。何をしているんだろう。そんな疑問は桜の花弁のように儚く散っていく。彼も由美に応えるようにゆっくりと首を曲げた。息のかかりそうなほどの近さになった。しとりと目を閉じる。
そのとき、ふいに海鳥の甲高い声が海岸を襲った。はっとした由美が体制を整える。
「…………あの、ありがとう、このネックレス」
二人の間の空気を断ち切るように、由美はネックレスを持ち上げた。キースは間を空けて、一度目をぐっと閉じてから立ち上がった。
「そろそろ時間だ」
「うん、そうだね」




