四日目(下)
キースは何歳だろう。そんな疑問が湧き上がる。外国人の年齢は測り辛いけれど、多分自分よりも少し年上で、きっと由美が想像出来ないような重圧をその身に背負っている。
アメリカに来て良かった、と思った。一生忘れない思い出になった。もしかしたら、彼の活躍をテレビなんかで目にする機会があるかもしれない。そんなことにちょっぴり期待する。
途方もなく遠い存在だから、ここまで気楽に過ごせているのだな、とぽつりと考えた。もし、彼が同じ大学の友人だったり、バイト先の上司だったりしたら、すぐに回れ右をするだろう。
遠い存在だからこそ、近付ける。理学部の友人に言ったら矛盾だ、と笑うだろうか。文学部の友人に言ったら詩的だ、と褒めてくれるかもしれない。
でも、私と彼の関係は、そんな危うい前提の上で成り立っている、と由美は顔を歪めて苦笑した。
「キース、ちょっとお部屋見てまわってもいい?」
キースは片手を上げて了承の意を示した。由美は颯爽と立ち上がり、広大な最上階、スイートルームを遠慮なく、カメラをぶら下げて、部屋の探検に繰り出た。
バスルームのアメニティグッズ一つに圧倒されたり、寝室に格の違いをみせつけられたり、と由美は全部の部屋を見て回った。ちょっとくらいなら構わないだろう、とパシャリと写真を数枚撮っておく。
由美が部屋を堪能して戻ってくると、キースは仕事を終えたのか、ワイングラス片手に寛いでいた。
「楽しめたか?」
「うん。やっぱ凄いね、スイートルームは」
満面の笑みで答えた由美がキースの左隣にすわるやいなや、いつも通り豪華な食事が運び込まれてくる。彩り鮮やかな食事に少しだけ顔を近付けた拍子に、ことりと由美の手をカメラが打った。
「……あ、写真、見る?」
まずはさっぱりしようと大粒の葡萄を齧りながら尋ねた由美に、キースもまたよく熟れたメロンを頬張りながら頷いた。
「これね、桜」
由美は首にぶら下げていたカメラを外し、キースに画面がよく見えるように少しだけ右に差し出すように持つ。
彼は体ごとカメラに近付けた。こつり、と頭と頭がぶつかる。その瞬間、彼の上品で爽やかな香りがふわりと由美の鼻腔をくすぐった。
「ああ……cherry blossomか」
彼の艷やかで澄んだ低い声が吐息と共に由美の耳元を包み込む。背筋がぞくりと震えた。急に五感が鋭くなって、体中が敏感になる。
「綺麗だな」
そう言った彼は、そっと由美の手からカメラを取り上げ、花びらがひらひらと舞う桜並木の写真をまじまじと見た。
由美は、浅くため息をついた。少し触れ合った指先から熱が体中に広がっていく感覚を覚える。心臓が持たない。
「綺麗でしょ」
だが由美は、何でもないように言ってみる。
「cherry blossomだと満開の桜を想像するけど、桜だと舞い散る花びらを想像する」
語感というのは不思議なものだ。その言葉の響きに、本質的な何かが隠されているような気がする。
「私は、桜のあの儚さが美しいと思う」
どくん、どくん、と鳴る心臓の音が聞こえないように、少し大きめの声で言葉を紡いだ。
「それがわびさびか?」
「あー残念。わびさびとはちょっと違うかな。……日本に来たら龍安寺とか銀閣なんかに行ってみたら分かるかも。京都にあるよ」
「りょうあんじ、ぎんかく……」
懐から手帳とペンを取り出したキースが、由美にそれらを差し出した。彼女は訳知り顔で頷いて、さらりとペンを走らせる。ふむ、と頷いたキースは手帳を仕舞い込み、更に写真を確認し始めた。
由美は、そんなキースの姿を淡い光に包み込まれているような気分でじっと見つめていた。ちょうど一年前の夏祭りの写真を物珍しそうに見る彼を、由美はまるで絵画を見るかのように観察する。
完全に彼が絵の中の住人と化したとき、由美はぽつりと言葉を落とした。
「……明日だね」
返事はなかった。ただキースは由美に目線を寄越さないで囁くように尋ねる。
「二十一時にロサンゼルス空港発、だったか」
そんなことも話していたか、と由美はそっと頷いた。煽るようにワインを飲んで、更に言葉を重ねた。
「お土産買わなきゃなあ。……空港に売ってるよね? 十九時前くらいに空港に着きたい」
急に現実に引き戻されたような錯覚を覚える。冷水を浴びせられた感覚が体を貫いた。ここ数日忘れていた家族や友人の存在が、鮮明に迫ってくる。観光ノートの最後のページに書いたお土産リストが脳裏を過ぎった。
そんな記憶を消し去るように滑らかな座り心地のソファを一度手で確かめて、由美は苦笑した。もう夢が覚めかけている。住む世界が違いすぎる、と。
最初は身に降りかかった幸運を存分に享受してやるつもりでいたけれど、どうにもそうならないみたいだ。まるで帳尻を合わせるように、マイナスの部分がだんだんと露呈していく。
つまり、キースとの別れがこんなにも辛く思えてしまうのだ。
「……何かやり残したことはないか?」
そう言うキースに、由美は数日を振り返った。
初日に停電のハプニングでキースと出会って、二日目は夜食事をして、三日目はロデオドライブまで行って服や靴をプレゼントしてもらって、それから、今日。
くすり、と由美は笑ってみせた。
「旅行の目的は、あの時言ってたみたいに、自分を殴ってやる、みたいな感じの……まあ、そういうのだったんだけど」
まだ達成できていない。その言葉をごくりとワインと一緒に飲み込んで、明日の今頃を思い浮かべた。
「……明日達成できるみたい」
キースに涙を見せずに別れられるだろうか。飛行機の中で号泣するかもしれない。チケットはあまり詳しく確認していないけれど、窓際だったらいいな、と希望的観測をする。
何故こんなに別れが辛いのか、と由美は自問自答した。それから浮かんできた答えに、参ったなあ、と心の中で呟く。
何回も思った。キースのことが好きなのかもしれない、と。その度に好きの文字をことごとく粉砕してきた。
勿論、一目惚れとかひと夏の恋とかいう言葉が示している通り、恋心は期間ではないということは分かっているつもりだ。ましてや由美は傷心中で、慰めが欲しいときに理想が服を着たような良い男が現れた。
恋をするな、というほうがおかしいだろう。それでも、由美は自分のそんな恋心をどこか浅ましいとも思ってしまっていた。
認めるしかない時期が来たのかもしれない。ぷちりと葡萄を噛んで自分の気持ちを冷静に把握する。それから、この気持ちのけりをどう付けるかを一人で考えよう、と由美はすくりと立ち上がった。
「ご馳走さま、キース」
「まだ何も……」
並べられた贅沢な料理を横目で見ながら由美は微笑んだ。
「ワイン一杯に葡萄を少し。……十分、戦が出来ると思うんだよね」
キースの手にあるカメラを柔らかく強奪して、由美はしなやかに部屋を後にした。




