二日目
セットしていた目覚し時計の音で由美は飛び起きた。時差ボケきつい、と心の中で小さく悪態をついて顔を洗う。ほんわりとした桃色のロングワンピースを着て朝食会場へ向かった。このホテルの朝食はビュッフェ形式になっている。所謂バイキングだ。
会場に行き、思いの外カジュアルな他の宿泊客の格好に安心感を覚えつつ、美味しそうなパンを手に取っていく。ジャムや卵料理と一緒に食べて、ふと周りを見渡した。キースの姿が無い。きっとああいう人は、自室で優雅にいただくんだろう、と想像して少し残念だと思った気持ちを掻き消した。
それから部屋に戻った由美は、スーツケースの中から一冊のノートを取り出してぱらぱらと捲る。ロサンゼルス近郊の観光地の情報や地図を貼り付けて纏めた謂わば観光ノートだ。ハリウッド、ダウンタウン、ビバリーヒルズ、サンタモニカビーチ。某夢の国、という文字はない。一人旅の由美には考えられなかったからだ。
どこに行こうか、と考えるも、思い浮かぶのは『十八時、ロビー』の単語。昨日のことを思い出すと、少しだけ体が熱を帯びる。彼を一目見れただけで満足な旅行だった、と言い切れるくらいの勢いだ。
緩く首を振り、ビバリーヒルズのページで手を止めた。彼はお金持ちだろうから、そういう雰囲気を学ぶのも良いかもしれない。そう考えてホテルでタクシーを手配してもらい、ビバリーヒルズに向かった。
午前中はロデオドライブという、高級店が連なる通りをウインドショッピングして楽しんだ。見たこともないような高級車が停まっていて、こっそり持ち主を盗み見ては、ぽかーんと口を開けていた。
昼食はホットドッグで済ませて、午後は有名人の豪邸巡りバスツアーに参加。お腹がはちきれそうなくらいのお屋敷ばかりだった。
十六時にホテルに戻った由美は、とりあえず汗を洗い流すためにシャワーを浴びた。それからスカイブルーの半袖に白いズボンという、シンブルイズザベストな格好に着換え、思いの外緊張している自分を落ち着かせた。
十八時の二十分前にロビーに行き椅子に座った。数分も経たない内に、一人のホテルマンが近付いてくる。
「こんにちは。相馬由美様で御座いますか?」
「は、はい」
「キース・ラングフォード様がお待ちで御座います」
「あ、はい」
日本語に安心感を覚えつつもどもりながら頷く由美に、ホテルマンは優しく微笑んで「ご案内致します」と頭を下げた。それから彼はいくつか由美の好みに対する質問をしながら由美の半歩先を歩いた。
チン、という音。三十八の文字が点灯する。扉を開くと屈強そうな男性が数人待ち構えていた。びくりと一瞬身をこわばらせたが、彼らが一斉に頭を下げたことに拍子抜けした。
開かれた大きな扉。中には更に女性スタッフが何人か並んでおり、彼女たちにも頭を下げられる。恐縮しながらその部屋を抜けて、やっとキースの姿が見えた。
彼は机に向かってペンを走らせていたようだが、扉の開いた音で顔を上げて、立ち上がった。同時に背後に聞こえる扉の閉まる音。どうやらこの部屋には由美とキース以外の人間はいないらしい。
「あーえっと……こんばんは」
ディナーに招かれた時の挨拶なんて知らない。由美はそっと頭を下げた。
「ああ。こんばんは、由美さん」
彼は薄く微笑んで由美に手を差し出した。骨ばっていて、細くて長い指をちらりと見て一瞬戸惑いが走るも、そこに自分の手を乗せる。
「こんな感じで合ってる? 全然わかんないの。敬語使ったほうが良い? キース……様?」
「そう気にしなくていい。敬語もいらないし、キースで構わない」
「うん、そっか、安心した。……じゃあ遠慮しないからね。リラックスさせてもらうよ」
「そうしてくれ」
彼は頷いて、由美をふかふかの椅子にエスコートした。そこからちょうど直角の位置にある大きめのカウチソファにキースも腰掛ける。
手に触れる何もかも、目にするあらゆるものが高級品であることは疑いようもないが、ここまでとなると感覚が麻痺してくるらしい。由美は、汚したり壊したりすることなど考えず、ただ目をキラキラさせて部屋中を見ていた。
そうこうしている内に一本のボトルが運ばれてくる。
「クリュッグのクロ・ダンボネです」
「そうか」
男が恭しくコルクを外すと濃厚な香りが広がった。それから彼は一礼をして静かに部屋を出て行く。
「酒はどうだ? 飲めなければ遠慮なく言ってくれ」
「私、二十歳になったばっかりであんまり強いか弱いかわかんないの。……でも、ちょっと飲んでみたい」
そう言った由美に頷いて、ことこととキースは二つのグラスに透明の液体を注いだ。シュワシュワとした泡が楽しげに踊っている。彼は一方を由美に手渡した。
「ありがとう。……じゃあ、乾杯?」
「そうだな」
キースはくいっとグラスを持ち上げて、こくりと酒を飲んだ。それにならい、由美も一口飲んでみる。
「うわあ……美味しい! 凄い。これなら何杯でも飲めちゃいそう」
甘口とも辛口とも言い難い、絶妙な味わい。厚みがあるにも関わらず、喉を通るときは爽やかささえ感じる。
「それは良かった。……由美さん、日本食かフレンチかイタリアン、もしくは中華、どれが良い?」
「んー、じゃあイタリアン!」
目の前にいる天然タラシっぽい生き物にイタリアを連想させただけだが、元気よく答えた由美に、キースは深く頷いた。
「すぐに食べるか?」
「まだいいかな。私、今お腹あんまり空いてないの」
まだ十八時だし、とこくりとグラスを傾けた由美に、キースが質問を始めた。
「二十歳なら、社会人なのか?」
「ううん、大学生。二回生なの」
「此処にはどれくらい滞在するんだ?」
「三泊五日の予定で来たから、今日入れて四日かな。……あ、昨日来たの、私」
「観光か?」
「そう。サンタモニカビーチで泳ぎたいなあって思って」
そう。元はといえば、旅行パンフレットに載っていた夕陽に照らされた美しい海に一目惚れしたのだ。
「楽しめそうか?」
「んー……元々楽しみに来てないっていうか、何て言うのかな。一回自分のこと殴りつけてやりたくなって、英語もそう得意じゃないのに無茶して来ちゃった」
そう言ってけらけらと無邪気に笑う由美に暫し沈黙して、キースもまた喉を潤した。
「何かあったのか?」
その問いに一瞬目を伏せた由美は、自嘲気味の笑みを浮かべる。そう聞いてくれるのを待っていた。女ってずるい。喉から出たがっている言葉たちが暴れ出す。その衝動そのままに口を開いた。
「愚痴になるけど、聞いて。……結論から言うと、高校生の頃から付き合ってた彼氏に振られたの。しかも二股されてて。その上二股相手が私の親友。まじ意味分かんない。でも、一番意味分かんないのがそういう人を好きって思ってた自分と、そういう子が親友って思ってた自分」
さっぱりとけれど黒い感情を持て余しながら話す由美に、キースは一瞬息を呑んで「そうか」と呟いた。
「あいつなら、こういう時すぐに頭撫でに来るだろうなとかさ、そう思う自分が嫌。あいつ基準で考えちゃうのがもうね、その基準ぶち壊したい、みたいな。ごめん、過激で。いや嘘。ごめんとは思ってないけど謝っとく。ごめんなさい」
「いや、大丈夫だ。同じ男として謝りたい」
「いいよいいよ。その気持ちが嬉しい。ありがとう」
それから、由美はキースから目をそらして天井を見上げた。
「あーなんか分かった気がする。アメリカまで来てしたいことってこれだったのかも」
由美はくつりと笑いながら言った。
「凄い軽くなった。知らない町で知らない人に大声で叫びたかったのかも。遠い人だからこそ話せるって、よく言うでしょ」
そんな言葉に頷きかけたキースは、続く由美の言葉に固まった。
「だからキースも、私で良かったら聞くよ。嫌なこととか……小さい頃のトラウマ、とか」
由美は昨日のキースを思い浮かべていた。尋常ではない取り乱し方。彼女の言葉には、軽い口調を装いつつ、どこか深い抑揚があった。
目を見開いたキースは、由美を凝視して、彼女の澄んだ黒い瞳に吸い込まれそうになる。
「勿論、無理になんて言わないし、好きに」
「いや、聞いてくれるか」
グラスを置いたキースは、短くない沈黙を挟んで語り出した。
「僕は、ラングフォード財閥の社長の一人息子なんだ。幼い頃から英才教育を仕込まれ、常に周りから完璧を求められた」
「うん」
「そんな期待に応えるので必死だった。今から思えば、正直自分でも褒めてやりたいくらいに頑張っていた」
「うん」
「だが、七歳のときだ。あるとき目が覚めたら暗闇で、狭い場所に閉じ込められていた。僕は覚えていないが、下校中の車を襲われたらしい。つまり、誘拐だ」
由美は、はっと息を呑んだ。誘拐。耳慣れない言葉だ。
「周りから数人の男の声が聞こえた。死ぬんだろうな、と思った。僕は怖かった。……本当に、怖かったんだ」
彼の手が震えだす。その手を包み込むように握り締めて、由美は口を開いた。なんて言えばいいかなんて、考えるまでもない。
「大丈夫。辛かったよね、怖かったよね、キースは頑張ったよ。もう大丈夫」
キースの震えが収まるまで、由美はずっと囁いていた。傍から見ればただの傷の舐め合いかもしれないけれど、それでも慰められたのは事実だ。
「由美さん、ありがとう。……情けない姿を見せてしまった」
「いいよいいよ。お互い様」
そう言う由美に頭を下げてから、キースは食事を持ってこさせた。前菜もパスタも、絶品だった。飲み物が赤ワインに変わり、ロースステーキを食べているときに、ふとキースが由美に尋ねた。
「それで、何か欲しい物はあるか?」
「……ん? なにそれ?」
「いや、礼をすると言わなかったか?」
「この食事じゃないの?」
「いや、これはその話をする場だと思っていた」
「……あらま」
他人事のようにそう言った由美は、一旦ナイフとフォークを置いて、頭をぐるぐると動かし始めた。欲しい物。そう急に言われても分からないし、正直愚痴を聞いてくれたことで十分だった。
でも、もし、叶うならば。
「キースって、仕事で此処にいるの?」
「一応休暇だが、まあ仕事をしていないと言えば嘘になる」
「じゃあ、もし時間あるなら、ロサンゼルス案内してくれない? 一人旅って、結構寂しいから」
こんなに良い男を前にして、妄想しない女の子はいないのではないか、と考えながら由美は悪戯っぽく笑った。もし断られたらすぐに冗談だと言って、鞄の一つでも要求しよう。
「ああ、分かった」
しかし、かくして由美は賭けに勝ってしまった。あっさりと頷いたキースに面食らった由美は、すぐに顔を綻ばせた。
「良いの? お仕事邪魔しない程度で良いからね」
「勿論構わない。……それなら、由美さんが帰るまで三日とも僕がエスコートしよう」
そう言うキースの目が真っ直ぐに由美を見ていて、由美は一瞬目を見開いた。それから、花開くように微笑んで頷いた。




