一日目
ロサンゼルス国際空港に降り立った由美は、強い日差しを帽子で遮りながら、列を成すタクシーの一番前に乗り込んだ。
優しそうな初老の運転手が、気を利かせてゆっくりと話してくれる。機内でぱらぱらと英会話の本に目を通していた由美だが、結局地図を広げてホテルの場所を指差すに留めた。
運転手は一つ頷き、タクシーのトランクに由美のスーツケースを入れてからアクセルを踏み込んだ。流れ行く町並みに、由美の胸が高鳴る。
数十分後、辿り着いたホテルを前に、思わず歓声を上げた。ホテルだけは奮発したのだ。結局ホテルが一番長く過ごす場所で、このホテルは日本語にも対応する、と書いてあったから。
そんな由美に、運転手はスーツケースを丁寧に渡してくれた。
「あり……thank you」
「You're welcom. Have a wonderful day!」
ぺこりと頭を下げた由美は、去っていくタクシーを見つめた後、ドアマンに迎えられ、四十階弱のホテルに足を踏み入れた。日本人のフロントに鍵をもらい、ベルマンと一緒にエレベーターに乗り込む。点灯する二十一階の文字を見ながら強い浮遊感に襲われた。
チン、という無機質な音と共にエレベーターを出た二人は、『2133』という部屋の入り口で別れた。チップを払う時にスムーズにいかなかったのはご愛嬌だ。
一番安い部屋だから窓から見える景色は良いとは言えなかった。中途半端な階が一番安い、とはこういうことか、と納得する。内装は由美好みのシンプルなものだった。ふう、とソファに座り込み、ズボンのポケットに入っていたキャンディをぺろり。
十五時。機内食でお昼は済ませたからお腹は空いていないけれど、折角此処まで来たのだから外を練り歩いてみよう、と肩掛け鞄に水や財布などを入れて、早速ホテルを後にした。ホテル周辺をぐるりと歩き、美味しそうなジェラートの屋台があったから、読める英単語を広いあげ、塩キャラメル味を買って堪能した。
一時間もすれば飛び交う英語にも慣れてきて、ちょうどホテルの入り口まで戻ってきた由美は、そのままエレベーターに乗り込んだ。かちり、と二十一階のボタンを押す。それから青年が入って来て、すぐに扉が閉まった。二人きりという状況にほんの少しびくびくしながらちらりと彼を見た由美は、ぽかりと口を開けた。
(うっわ……美形)
暗めの金髪に青みの強いグレーの目。理知的な雰囲気が、更に良い男感を出している。固まった由美だが、目の前の階層のボタンの羅列に我に返って彼に尋ねた。
「すみません、あの、えっと、which floor?」
「The last floor, please」
「……え?」
数詞らしき単語は、拾えなかった。そればかりか、とんでもない単語を聞いてしまった気がする。由美の困惑顔に、青年はまた口を開いた。
「三十八階です」
ああ、三十八階ね、とボタンを探して気付く。三十九という数字が見当たらないことに。恐る恐る三十八階のボタンを押してから、さらに由美を違和感が襲った。一時間も英語を聞き続けたから気付いたのかもしれない。
「日本語……?」
呟いた由美に青年が口を開きかけたとき、がこん、という音と共にエレベーターが止まった。それと同時に光が消える。
「うっそ、ちょっと待って! 停電?!」
海外ではよくあることだと聞いていたが、それなりに高級なホテルでもそうなのか、と妙に冷静な部分で考えながらため息をついた。それから青年の方を見て目を見開く。
「……え? え、なに、ねえ、どうしたの?」
青年は、荒い息を吐きながら座り込んでいた。彼の背中をさすりながら肩掛け鞄の中を思い描くが、使えそうなアイテムは何もない。どんどん浅くなる彼の呼吸に、由美は涙目になりながら囁き続けた。
「大丈夫だから、ね、安心して。きっとすぐに戻るから。大丈夫」
例えばお化け屋敷で、自分よりも恐怖に震えている人がいると逆に冷静になれるというのは本当のようだ。少なくとも、由美のパニックはすぐに収まった。
「Don't worry……ごめん、わかんない。大丈夫。……大丈夫」
ぽんぽんと規則正しく背中を叩き、半ば抱き締めるように青年に身をすり寄せた。人肌でどうにか落ち着いてくれるなら、羞恥心なんて捨てて上等だ。
そのとき、唐突に光が戻り、再びエレベーターが動き出した。青年はびくりと体を震わせて、どうにか体を起こそうとしている。顔色が悪い。由美は青年に肩を貸しながら話しかけた。
「あの……わ、私の部屋、エレベーターから出てすぐだったから、そこで休んで」
馬鹿だ。由美は内心自分のことを罵った。初対面の人間を部屋に連れ込むなど、恥ずべきことだ。旅行という非日常感がそうさせたのかはわからないが、残念ながら、一度口にした言葉には責任がつきまとう。
断ってくれ、という由美を嘲笑うかのように、青年はあっさりと頷いた。よっぽど気分が悪いようだ。チンという音で開いた扉の奥に、ゆっくりと足を踏み出した。部屋の前まで移動して、鞄の中から鍵を探り、中に入る。ベッドまで辿り着くと、彼は倒れこむように崩れ落ちた。
どうにか彼の頭を枕に乗せることに成功した由美は、はあと息を吐く。彼の着ている一目で高級な物だと分かるスーツにそっと手をかけて、ネクタイを緩ませ、シャツのボタンを二つほど外した。彼の汗ばむ肌を見て、ポケットに入っていたハンカチを濡らして拭うことにした。
少し赤みを取り戻した肌に安心感を覚えながら、フロントに電話しようと立ち上がる。けれど、そんな由美の行動が、他でもない青年に拒まれた。由美の右腕を掴む彼の左手。由美は、そうっと彼の指を一本ずつ離しにかかるが、青年は許してくれなかった。
「電話しなきゃ……」
そんな由美のつぶやきに答えてくれる人はいない。由美は観念して、むしろ彼の手をぎゅっと握り締めた。この場所から動けなくなっても、別段暇にはならなかった。彼の思ったより筋肉質な腕や白い肌に感嘆したりと、彼を見ていると飽きが来ない。
「大丈夫だよ、大丈夫」
未だ辛そうに眉根を寄せている彼に声を掛けながら、由美はぼーっと彼を見ていた。窓から差し込む光が、淡いオレンジ色に成った時、ピクリと彼の目が開いた。
「あ……」
急に現れたグレーの瞳に吸い込まれそうに成りながら、由美は微笑みかけた。
「気分はどう?」
「……君は」
ぼんやりと部屋を見回しているが、日本語を喋っている辺り頭はそれなりに回っているようだ。そう結論付けた由美は、それでもゆっくりと話した。
「エレベーターで……覚えてる? あなたがエレベーターの中で倒れたから、此処で休んでもらったの」
青年は、固まったまま動かなくなった。手は握られたままだ。由美は更に言った。
「でも、電話とか出来てなくって。……あなたが、手を放してくれなかったから」
「……す、すまない」
青年は、はっと息を呑んでばっと手を放した。反応の速さに由美は吹き出した。
「お水持ってくるね」
「ああ、頼む」
簡易キッチンのような所にあるコップに、こぽこぽと水を注ぐ。そんな由美に、彼から疑問の声が上がった。
「ずっとそばにいてくれたのか?」
「あ、うん、そうだよ。辛そうだったし、手、振り払っちゃ駄目っぽいなーって思ったから」
コップを持って現れた由美に、彼は「そうか」と呟いた。
「はいこれ。水。ただの水」
「ああ。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
ゆるりと柔らかな顔をした由美に、青年は水を飲んでからもう一度由美に礼を言った。
「いいよ、お互い様」
寝顔をじろじろ見てごめんなさい、とは言わなかった。ひらひらと手を振る由美から顔を逸した青年は、そっと頭を下げた。
「迷惑を掛けてすまない。……この事は、黙っていてくれると助かる」
「ああ、そんなの、全然大丈夫」
そう言って一度口を閉ざした由美だが、一拍ののち、静かに彼に尋ねた。
「いつもはどうしてるの? 一人で対処してるの?」
「極力、そういう場所に行かないように心掛けているが、そうなってしまったときは……そうだな、一人でどうにかしている」
由美の脳裏に、エレベーター内での彼の行動が浮かび上がった。きっとあれは突然で、心の準備も出来ていなかったからあんなに酷くなってしまったのだろう。
「誰かに言ったりはしないの?」
「……利用される」
今度こそ、由美は返事を返せなかった。何と言っても彼は最上階の人間だ。由美とは違う世界で生きている。どう声を掛けたらいいのか、てんで検討が付かない。
「だが、君がそばにいてくれたから、今回は不快感が残らなかった。……君の声に救われた」
「……口説いてる?」
外国人は、恋愛に積極的だとよく聞くが、こんなにナチュラルに口説かれるとは思わなかった。由美は賞賛の意を込めて尋ねたが、彼は即座に、大きく首を振った。
「いや、違う。すまない。本当の事を言っただけだ。そういうつもりではない」
喜んでいいのか悪いのか分からなかったが、彼の慌てぶりに無邪気に笑った由美は、素直な気持ちで口開いた。
「なら、受け止めてくれる人を作れば良いんだよ。……例えば奥さんとか。ピッタリでしょ?」
こんなに美形で、真面目そうな彼のことだから、女性なんて選り取り見取りだろう、と声を掛けた由美だが、彼は一瞬で表情を暗くして呟いた。
「女は嫌いだ」
ひっと声上げた由美はベッドから離れて、確認の為に話しかけた。
「えっと、……男の人が好き、とか?」
「そういう訳じゃない! 着飾って、香水を振り掛けて、言い寄ってくる女に呆れているだけだ」
「……なるほど」
きっと自分とは比べ物にならないくらいの美女達なのだろう。想像した由美は、少しげっそりとした顔で頷いた。
「あー……着飾ってるつもりない。香水付けてない。近寄って良い?」
「ああ、大丈夫だ」
了承を得た由美は、彼のコップを回収した。キッチンに置いて戻ると、彼は立ち上がり、ネクタイを締めている所だった。彼に声をかけようとした由美は、そんな光景に立ち竦んでしまう。変に情が芽生えてしまったなあ、と苦笑した。
「もう帰るの?」
「ああ。……礼がしたい。名前を教えてくれるか?」
「相馬由美だよ。相馬が名字で、由美が名前。……あなたは?」
「キース・ラングフォードだ」
キース・ラングフォード。名前までクールだ。口の中で噛み砕くように彼の名前を呟く。
「じゃあ、またね。……かな?」
「そうだな。明日のディナーでも一緒にどうかと思っている」
あまりに突然の申し出に、頭が一瞬白くなる。キースと食事をする。そんな光景を思い浮かべて由美は青褪めた。
「……ごめん、ドレス持ってない」
「僕の部屋で食べよう。ラフな格好で良い」
そう言ったキースは、そのまま部屋のドアまで行ってしまう。思ったよりアグレッシブな彼にどぎまぎしつつ、そっと尋ねた。
「ど、どこで待ってたら良いの?」
「……どこにいても迎えを寄越すが、気になるなら十八時くらいにロビーにいてくれ」
「OK. 分かった」
十八時、ロビー。と、そう頭に刻みつけて、由美はキースをにこやかに見送った。




