第8話:自宅キッチンの錬金術師と、緑の奇跡
霧島第一ダンジョンから帰還した翌日。
学校は、ダンジョン出現に伴う全国的な安全確認とカリキュラム調整のため、臨時休校となっていた。
昨夜、国分駐屯地から送迎車で送り届けられた際、赤城燈主任は本当に約束を果たしてくれた。
「はいこれ、研究の初期配分サンプル! あと私の個人私物の蒸留器と遠心分離機ね!」と、頑丈な段ボールに詰め込まれた大量の機材と素材。
玄関先で出迎えた両親は、トラックから次々と運び込まれる銀色の理化学機器を見て完全に腰を抜かしていたが、兄の晃だけは違った。
そして、今――午前十時。
笹貫家の対面式キッチンは、すっかり怪しげな魔術工房へと変貌を遂げていた。
「おい、あかね! 『月光苔』の計量は終わったか!? 誤差はコンマ一グラム以下に抑えろよ!」
「もう終わってるってば! ほら、きっかり五・〇グラム!」
換気扇がけたたましく回る下で、晃が腕まくりをして叫んでいた。
無駄に整ったイケメンの顔立ちに、赤城主任から譲り受けた保護メガネを装着し、手にはステンレス製の乳棒。
普段は昼過ぎまでベッドで惰眠を貪っている男が、朝の六時に私を叩き起こしてきたのだ。
その理由が、晃の目の前に浮かび上がっている淡い青のウィンドウにあった。
『名前』:笹貫晃
『年齢』:18歳(高校三年生)
『ジョブ』:【錬金術師】
『スキル』:【等価抽出】、【薬理配合】、【触媒融合】
「……まさか兄ちゃんのジョブが、錬金術師だったなんてね。」
「『まさか』とは何だ! 見ろ、この天から授かりし至高の天職を! 毎期欠かさずクラフト系ファンタジーを履修し、調合レシピの変遷を考察し続けてきた俺のオタク魂が、システムに選ばれたんだよ!」
晃は胸を張って高笑いした。
昨日の学校ガイダンスでクラス中がステータスオープンした際、晃は一人だけ【錬金術師】という超希少な生産職を引き当てていたらしい。
戦闘スキルは皆無。筋力も体力も一般人並み。だが、物質の魔素構造を組み替え、新たなアイテムを生み出す能力に関しては、初期段階からプロ級の適性を秘めていた。
「いいかあかね、冷静に考えろ。現代医学とファンタジー薬学の融合だぞ? 霧島ダンジョン産のフレッシュな霊草を、俺の【薬理配合】でお前の【万象識別】のナビゲート通りに錬成する……! これで初級ポーションが作れなきゃ、男が廃るってもんだ!」
「はいはい、わかったから。お母さんが買ってきたばかりのすり鉢を割らないでよ?」
私は苦笑しながら、キッチンの丸椅子に腰掛けた。
尻尾は背もたれのないスツールのおかげで快適にゆらゆらと揺れている。
テーブルの上には、昨日持ち帰った戦利品の一部が並べられていた。
湿らせたペーパーの上で淡く青白く発光する『月光苔』。
そして、泉のほとりで採取してきた、清涼な芳香を漂わせる『浄魔草』。
「よし、じゃあプロセスに入るぞ。【等価抽出】の術式起動……あかね、観測頼む!」
「了解。【万象識別】、展開。」
私が瞳を凝らすと、晃が手に持った月光苔の周囲に、微細な光の粒子が立ち上るのが見えた。
文字情報が視界に流れていく。
『対象』:月光苔(乾燥未処理)
『魔素濃度』:安定(72%)
『有効成分』:局所細胞活性素、弱発光体
『最適抽出温度』:摂氏42度〜45度
『注意点』:50度を超えると活性素が熱変性し、効果が60%低下する。
「兄ちゃん、火を止めて! 沸騰させちゃダメ! 四十五度以上になると薬効が死ぬ!」
「なにっ!? ぬるま湯抽出か! クソッ、湯煎に切り替えるぞ、温度計持ってこい!」
晃が慌ててIHヒーターの出力を下げ、ボウルに張った湯の温度を微調整する。
すり鉢で丁寧にペースト状に擂り潰された月光苔が、ガラスビーカーの中の蒸留水へと投入された。
緑色の濁った液体が、熱を帯びるにつれて徐々に青みを帯びていく。
「ここだ……! スキル発動――【等価抽出】!」
晃がビーカーに右手をかざすと、手のひらから黄金色の幾何学模様――錬金術の魔法陣がポッと浮かび上がった。
ビーカーの中の液体が、まるで生き物のように渦を巻き始める。
不純物である葉の繊維や土の微粒子がスゥーッと底に沈殿し、上澄みの液体だけが、息を呑むほど透き通ったエメラルドグリーンへと染まっていく。
「すげえ……! 魔法陣から魔力が浸透して、成分が分離されていく……!」
「兄ちゃん、今度は『浄魔草』の葉を一枚だけちぎって入れて! 【万象識別】によると、浄魔草の成分が防腐剤と魔力安定剤の役割を果たすって出てる!」
「了解! 触媒投入――【触媒融合】ッ!!」
ちぎられた浄魔草の葉がビーカーに落とされた瞬間、液体がシュワシュワと心地よい炭酸のような音を立てた。
柑橘類とミントを混ぜ合わせたような、驚くほど爽やかな香りがキッチンいっぱいに広がる。
「あかね、魔力波形はどうだ!?」
「安定してる……不純物ゼロ。魔素結合、完了したよ!」
晃が息を止め、スポイトを使って慎重に液体を吸い上げ、赤城主任から貰ったコルク栓付きの耐熱ガラス小瓶へと移し替えた。
トポトポ……と澄んだ音を立てて満たされた、五十ミリリットルほどの緑の液体。
テーブルの上に置かれた小瓶は、部屋の明かりを吸い込んで、まるで溶かしたエメラルドのように自ら淡い光を放っていた。
「……できた。」
晃が保護メガネを外し、額の汗を拭った。
「できたぞ……! 俺たちの手で……本物の回復ポーションを作っちまった……!」
「鑑定してみるね。」
私は小瓶に指先を添え、【万象識別】の意識を送り込んだ。
『名称』:低級治癒薬
『品質』:上質(B+ランク)
『製作者』:笹貫晃/笹貫あかね
『効果』:軽度の外傷、擦り傷、裂傷の即時治癒。患部に塗布、または経口摂取により発動。魔素による細胞分裂の超加速を促す。
『副作用』:なし(極めて純度が高い)
「……B+ランク。『上質』だって」
「よっしゃああああああっっ!!」
晃がキッチンの天井に頭をぶつけそうな勢いでガッツポーズをキメた。
普段のクールぶったイケメンの面影は微塵もない。完全な狂喜乱舞だ。
「見たかあかね! 俺の錬金術と、お前のチート鑑定! この兄妹タッグ、完全に世界を獲れるぞ!!」
「ちょっと兄ちゃん、声が大きいってば! 近所に聞こえたらどうするの!」
「いいんだよ! 歴史的瞬間だぞ!? 自衛隊の研究所ですらまだ遠心分離機で成分分析してる段階なのに、俺たちは自宅のキッチンで完成品を錬成しちまったんだからな!」
晃は小瓶を太陽の光にかざし、うっとりと見つめている。
だが、オタクとしての探求心はそこで止まらなかった。
「……よし。効果の検証をするぞ。」
「えっ? テストって……どうやって?」
私の問いに、晃はキッチンカウンターの隅に置いてあった段ボール箱へと歩み寄った。
昨日、赤城主任から届いた機材が入っていた頑丈な段ボールだ。
「これを見ろ。」
晃が差し出した左手の人差し指の腹には、段ボールの角でスパッと切ったばかりの、生々しい赤い傷口があった。血がじわりと滲み出ている。
「さっき荷解きしてる時に切っちまったんだよ。地味にズキズキ痛む、絶好の被験対象だ。」
「バカなの!? わざわざ切ったわけじゃないよね!?」
「当たり前だろ! 地味に痛くてテンション下がってたんだよ! ほら、いくぞ……!」
晃はコルク栓を抜き、スポイトでポーションをたった一滴だけ吸い上げた。
キッチンの緊張感が一気に跳ね上がる。
私も思わず身を乗り出し、狐耳をピクピクと震わせながら兄の指先を凝視した。
ポトリ。
透明なエメラルドグリーンの雫が、晃の指の赤い傷口へと落ちた。
ジュウ……ッ。
微かに、焼けた鉄に水を垂らしたような小さな蒸発音がした。
次の瞬間、傷口の周囲がフワッと淡い緑色の燐光に包まれる。
「……うおっ!?」
晃が息を呑んだ。
信じられない光景が、目の前で繰り広げられていた。
傷口から滲み出ていた血液がスッと吸い込まれるように消え、パックリと開いていた皮膚の断面が、まるでビデオの巻き戻し映像を見るように、急速に引き合って塞がっていく。
細胞が目に見える速度で再生し、わずか二秒後――。
光が消えた。
晃の指先には、血の一滴も、傷跡の赤い線すら残っていなかった。
そこにあるのは、完全に元通りになった、すべすべの指の腹だけだった。
「……消えた。」
晃が指を曲げたり伸ばしたりしながら、呆然と呟いた。
「痛みが……一瞬で消えたぞ。傷口が塞がっただけじゃない、さっきまでのズキズキした拍動感が、綺麗さっぱり無くなってる……。」
「嘘でしょ……、本当に、一滴垂らしただけで……。」
私も息を呑んだ。
頭の知識では分かっていた。『細胞分裂を超加速させる』。だが、それを現実の肉体で目の当たりにすると、背筋に戦慄が走るほどの衝撃だった。
現代医学なら、消毒して絆創膏を貼り、治るまでに数日はかかる切り傷。
それが、たった一滴の液体で、数秒で完治したのだ。
「あかね……これ、ヤバいぞ。」
晃が小瓶を握りしめ、真剣な眼差しで私を見た。
「これが世界に知られたら、医療業界どころか世界経済がひっくり返るぞ。銃創や刀傷を負った前線の兵士や警察官が、これ一本で即座に現場復帰できるようになる。……いや、それどころか、ダンジョン探索の生存率が文字通り桁違いに跳ね上がる。」
「うん……HPのない世界だからこそ、このポーションの価値は計り知れないよ。」
当たり所が悪ければ死ぬ。失血死のタイムリミットが迫る。
そんな極限状態において、傷口を即座に塞いで出血を止めるこの緑の液体は、文字通りの『命の雫』だ。
「兄ちゃん、これ……橘さんたちに渡そう。」
「ああ、勿論だ。俺たちは私腹を肥やすために隠し持っておくようなタマじゃないしな。……それに、お前が霧島ダンジョンに潜る時の命綱になる。」
晃は優しく私の頭の狐耳のあいだをポンと叩いた。
「お前を前線に連れて行く自衛隊の連中には、最高の装備を持たせなきゃ安心できないからな。おい、あかね! まだ材料はあるぞ! 残りの月光苔と浄魔草で、あと何本作れる!?」
「えっと……配分を計算すると、あと四本はいけるよ!」
「よし、量産体制に入るぞ! 我が笹貫工房の第1ロット、気合い入れて錬成するぞッ!!」
「おーっ!」
再びキッチンの換気扇が唸りを上げ、兄妹のオタク魂が炸裂する。
すり鉢の音とビーカーの触れ合う音が、休日の静かなリビングに心地よく響き渡っていた。
その時、リビングのテレビがピピッとお知らせ音を鳴らし、画面の下部に緊急テロップが流れた。
『――速報。国連総会において、世界ダンジョン資源管理条約の締結に向けた緊急協議が開始。一方、米国および北欧のダンジョン周辺において、高エネルギー反応を伴う小規模な空間振動を観測。防衛省は警戒レベルを――』
テレビの向こうで、確実に世界が軋み始めている。
けれど、キッチンに立ち込める爽やかなミントの香りと、兄の頼もしい背中を見つめながら、私は自分の手の中に確かな希望の光を感じていた。




