第2話:校門前の黒塗り車両と、耳と尻尾のフィッティング
午後三時四十五分。
放課後を告げる終業のチャイムが校舎に響き渡ると同時に、教室内の空気が一気に弛緩した。
……はずだったのだが、私の周囲だけは依然として異様な緊張感と、隠しきれない好奇の視線に包まれていた。
「あかね、ホントにそのまま帰るの? 一緒にファミレス寄ってポテトでもつまみながら、その耳の毛並みについて小一時間語り合わない?」
丸眼鏡をクイと押し上げながら、前の席のサキが名残惜しそうに私の頭上を見つめてくる。彼女の目は完全に獲物を狙うそれだ。
「ダメだよサキ。今日は……ほら、約束があるから。」
「自衛隊の人たちと? えー、減るもんじゃないしちょっとくらいモフらせてくれてもよくない? あ、そうだ、さっきのガイダンスで出た私のジョブ【見習い細工師】なんだけどさ、もしかしてアンタの尻尾用のリボンとか作れるんじゃない!?」
「それはちょっと魅力的だけど……また明日ね!」
私は苦笑いしながら、机の横にかけてあった通学リュックを背負った。
教科書の重みに混じって、昨晩こっそり忍ばせた小型スコップやチャック付き保存袋のシャカシャカとした音が耳に届く。鋭敏になった聴覚のせいで、自分の持ち物の音すら以前の三倍くらいクリアに聞こえてしまうのがまだ慣れない。
ブレザーの後ろ襟を正し、スカートのスリットから通した尻尾が引っかかっていないか手で確かめる。
教室を出て廊下を歩くだけで、すれ違う他クラスの生徒たちが一斉に壁際へ寄り、ヒソヒソと囁き声を交わすのが聞こえてきた。
「おい、見たか……? あれ、二組の笹貫だろ。」
「マジで本物の狐耳じゃん……ニュースの進化者ってホントにいたんだ。」
「写真撮りたいけど、なんか自衛隊が見張ってるって噂だしヤバいかな……。」
(うう……目立つ。目立ちすぎる……!)
昨日までは教室の隅でラノベを読んでいても誰も気に留めない、空気のようなモブ女子高生だったのだ。それが一夜明けただけで、歩く天然記念物のような扱いである。恥ずかしさで耳がペタリと寝てしまいそうになるのを必死に堪えながら、私は早足で昇降口へと向かった。
ローファーに履き替え、校舎の外へ出る。
冬の澄んだ空気の中に、微かに混じる排気ガスの匂い。そして、校門の前に鎮座する異様な光景が目に飛び込んできた。
校門のすぐ脇に、ピカピカに磨き上げられた漆黒の大型SUV――自衛隊の業務車が、アイドリング音を響かせて停まっていた。
その車の前には、パリッとした迷彩服に身を包んだ、長身の凛々しい女性が仁王立ちしている。ショートカットの黒髪を風になびかせ、鋭い眼光で周囲を警戒するその姿は、のどかな地方都市の高校の前にはあまりにも不釣り合いだった。橘一尉だ。
校門を出入りする生徒たちが遠巻きに立ち止まり、ざわざわとスマホを構え始めている。
「……目立ちすぎですよ、橘さん。」
私が小走りで駆け寄ると、橘一尉は表情を崩さないまま、しかし瞳をわずかに和らげて小さく敬礼した。
「お疲れ様です、あかねさん。周囲の耳目を集めてしまい申し訳ありません。ですが、貴女の身の安全を確保するための最低限の措置です。さあ、車内へ。」
橘一尉が後部座席の重厚なドアを開けてくれた。
私が滑り込むように乗り込むと、運転席からぬっと振り返る巨大な影があった。
「よう、お嬢さん! 学校はどうだったよ? 耳引っ張られたりしなかったか?」
熊倉二曹だ。相変わらず熊のように分厚い身体で、運転席のシートが心なしか窮屈そうに軋んでいる。強面なのに、口元には人懐っこい笑みが浮かんでいた。
「引っ張られはしませんでしたけど、友達にめちゃくちゃモフられました……。」
「がはは! そりゃそうだろ、こんな見事な毛並み見せられたら誰だって触りたくなるぜ!」
「熊倉二曹、軽口はそのくらいにして車を出してください。予定時刻より三分押しています。」
「へいへい、了解ですよ橘一尉どの。」
重低音を響かせて車が発進する。校門前に集まっていた生徒たちが小さくなっていくのを見届けて、私はようやく深く息を吐き出した。座席の背もたれに体を預けようとして――ハッと気づく。
「あ、痛っ……。」
「どうしました、あかねさん!?」
助手席の橘一尉が素早く振り返る。
「あ、いえ……尻尾が背もたれに挟まって……。」
座席に深く座ると、お尻の付け根から生えた太い尻尾が押し潰されてしまうのだ。痛覚というよりは、自分の腕を体重で踏んづけているような鈍い圧迫感がある。
「なるほど、座面の構造が人類の標準仕様のままですからね……。」
橘一尉は真剣な顔で手元のタブレットに何かをメモした。『至急:特務車両の座席に獣人種用スリットの導入を具申』とでも書いているのだろうか。真面目すぎてツッコミが追いつかない。結局、私は体を少し斜めに傾け、尻尾を横に逃がすような不恰好な体勢で座ることにした。
「あかねさん、霧島へ向かう前に、支給品のフィッティングと確認を行います。足元のジュラルミンケースを開けてください。」
促されて足元の頑丈な黒いケースを開けると、そこには見たこともない装備品が綺麗に収められていた。
マットな質感の濃紺のジャケットとパンツ、軽量のタクティカルベスト、そして通信機や小型のポーチ類だ。
「防衛省が緊急で試作した、最新の対魔素・防刃タクティカルスーツです。特殊繊維で編まれており、小口径の拳銃弾やモンスターの爪牙をある程度防ぎます。……ただ、急造品ゆえに標準的な人型を想定して作られていまして。」
橘一尉が申し訳なさそうに眉を寄せた。
見れば、ジャケットのフードには耳を通す穴などなく、パンツの腰回りにも尻尾用のスリットは存在しない。
「これ……耳と尻尾、どうすればいいですかね?」
「現場で改造します。」
橘一尉は迷いのない手つきで、マルチツールから鋭利なハサミと特殊な熱融着テープを取り出した。
「えっ、切っちゃうんですか!? 国の予算で作った装備を!?」
「貴女の身体機能と快適性を損なう方が、国家にとって遥かに大きな損失です。熊倉二曹、後部座席をシェードで遮蔽しろ。」
「了解っす。お嬢さん、遠慮なく着替えてくれや。」
運転席と後部座席の間に遮光カーテンが引かれ、私は揺れる車内で支給されたスーツに袖を通した。
生地は驚くほど軽くて滑らかで、肌に吸い付くようにフィットする。だが、やはり下半身を履こうとすると尻尾がつっかえ、フードを被れば耳が窮屈に押し潰されてしまう。
カーテンの隙間から手渡し、橘一尉に位置を合わせてもらいながら、ジョキジョキと躊躇なくハサミが入れられた。
ほつれ止めに熱融着テープが手際よく貼られ、わずか数分で『霊狐専用カスタムスーツ』が完成した。
「……どうでしょうか?」
着替えてカーテンを開けると、橘一尉が満足げに頷いた。
パンツの腰のあたりからふさふさと揺れる黄金色の尻尾が綺麗に外へ伸び、フードの左右からはピンと立った狐耳が顔を出している。濃紺の特殊スーツに白い耳と尻尾。
「おっ、すげえ似合ってるじゃねえか! なんていうか、特殊部隊の秘密兵器って感じがプンプンするぜ!」
ミラー越しに熊倉二曹が親指を立てる。
鏡代わりに窓ガラスに映った自分の姿を見て、私は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
オタクなら誰しも一度は夢見る『専用装備』。しかも機能美に溢れたミリタリーテイスト。テンションが上がらないはずがない。
その時、ポケットの中でスマホがけたたましく震えた。
画面を見ると、発信者は『兄貴』。
「もしもし、兄ちゃん?」
『あかねっ!! 無事か!? 今どこだ!? 学校の裏掲示板で「笹貫が黒塗りの高級車に拉致された。」ってスレが立って祭りになりかけてるぞ!!』
耳元で炸裂した大声に、思わずスマホを耳から遠ざけた。車内が静かなせいで、橘一尉と熊倉二曹にも丸聞こえだ。
「拉致じゃないよ! 橘さんたちの車に乗せてもらってるの! 今、霧島に向かってるとこ。」
『霧島……! ついにダンジョンか……! おい、あかね、よく聞け。お前が学校に行ってる間、俺はネットの海外フォーラムと神話伝承を徹底的に洗い直した。』
兄の声のトーンが、オタク特有の早口かつ異様な熱を帯びたものに変わる。
『わかったことがある。いいか、ファンタジー系RPGにおいて、最初に潜るダンジョンで一番重要なのは何だと思う?』
「え? ……罠の解除とか、マッピング?」
『違う! 「ドロップの仕様」の確認だ!!』
断言する兄。助手席の橘一尉が「ほう……。」と微かに反応を示した。
『さっきの政府会見の補足資料を隅々まで読んだがな、モンスターを倒しても肉片や血痕が散乱するわけじゃないらしい。一定以上のダメージを受けて絶命した瞬間、身体が魔素の粒子に分解されて霧散する……いわゆる「消滅エフェクト」が発生するんだ。』
「えっ、消えちゃうの? じゃあ、お肉とか毛皮はどうなるの?」
『そこだよ! モンスターが消滅した後に、その場に「アイテム」としてドロップするんだ! 角とか、牙とか、魔石とかな!』
「ああ……! ゲームでよくあるやつだ!」
『そうだ! つまり、ナイフでチマチマ解体して皮を剥ぐ必要はない! だがな、ここからが重要だ。ステータス画面に【解体】とか【採取】の派生スキルがあるだろ? 海外の検証スレによると、あれは解体の作業効率を上げるスキルじゃない。「モンスター消滅時のドロップ率と、ドロップ品の品質を引き上げるパッシブスキル」なんだよ!!』
目から鱗が落ちる思いだった。
慌てて胸に手を当て、頭の中でステータスを呼び出す。
淡い光と共に展開された半透明のウィンドウ。
私のジョブ【風水士】のツリーの端に、確かに種族ボーナスとして初期付与されていたスキルがあった。
パッシブスキル:【万象解体(ランク1)】
効果:対象の構造を理解し、魔素還元の効率を最適化する。魔物撃破時のドロップ発生確率+30%。レア素材ドロップ率微小上昇。
「……あった。私、【万象解体】ってスキル持ってる。」
『ビンゴだ!!』
スマホの向こうで兄が机をバンと叩く音がした。
『やっぱりな! 霊狐は万物の理を見抜く神使系だ。お前が近くにいて術式で観測・干渉するだけで、ドロップの質が跳ね上がるはずだ! 自衛隊のお偉いさん方に無駄な戦闘をさせるなよ! お前が敵の弱点を見抜いて、綺麗にトドメを刺させれば、それだけ貴重な新資源が手に入るんだからな!』
「兄ちゃん……本当にただのオタク?」
『失礼なこと言うな! 俺は妹を無事に帰還させ、かつ未知のファンタジー素材を我が家へ持ち帰らせるための、専属のオペレーターだ! とりあえずスライムの粘液か薬草があったら最優先で確保しろ! じゃあな、生きて帰れよ!』
嵐のように一方的にまくし立てて、電話はブツリと切れた。
車内に気まずい沈黙が流れる。
「……あ、あの、すみません。うちの兄がオタク特有の妄想を垂れ流して……。」
「いえ、」
橘一尉が、真剣そのものの表情でタブレットを操作していた。
「極めて傾聴に値する分析です。防衛研究所の専門家たちも、ドロップ現象のメカニズムについては仮説の段階でした。『消滅時の魔素還元の最適化』……あかねさんのスキルがそれに寄与するのであれば、今回の調査の価値は当初の想定を遥かに超えます。」
「へへっ、さすがはお嬢さんの兄貴だな。ただのアニメ好きじゃなさそうだ。」
熊倉二曹が豪快に笑いながら、ウィンカーを出した。
車窓の外の景色が、鹿児島市街のビル群から、徐々に緑豊かな山あいの風景へと移り変わっていく。遠くに見える霧島連山の稜線が、夕暮れの空に黒々と浮かび上がっていた。
「見えてきたぞ。あそこが霧島規制区域の第一検問所だ。」
熊倉二曹の声から、先ほどまでの冗談めかした色が消えた。
高速道路を降り、霧島神宮へと続く山道に入ると、道路脇には何重ものバリケードと有刺鉄線が張り巡らされていた。
自動小銃を構えた自衛隊員たちが鋭い視線を行き交わせ、上空を哨戒ヘリが重い爆音を立てて旋回している。
「地球がファンタジーになった」という言葉の、もう一つの側面だ。
未知の脅威に対する、国家の厳戒態勢。
車が検問を通過し、鬱蒼とした杉林の奥へと進んでいくにつれて、私の狐耳が不快なノイズを拾い始めた。
キーン、と頭の奥を細い針で突かれるような感覚。
空気の匂いが変わった。湿った土と木々の匂いの奥に、焦げたオゾンと、甘ったるい重金属が混ざり合ったような――異質な『魔素』の匂い。
「……くっ。」
運転席の熊倉二曹が、わずかに顔を顰めた。
助手席の橘一尉も、額に薄っすらと汗を滲ませている。
「ここが、境界線か……。」
「お二人とも、大丈夫ですか?」
「ああ……問題ない。だが、やはりこの辺りまで来ると、空気が鉛のように重く感じるな。隊員の中には、これ以上奥へ進むと酷い乗り物酔いのような症状で動けなくなる者もいる。」
未覚醒の人間に対する、高濃度魔素の影響。
だが、私の身体は全く違っていた。
むしろ、不快な刺激を感じた瞬間、胸の奥の霊核がトクンと脈打ち、全身の毛穴から淡い燐光が立ち上ったのだ。
『パッシブスキル:【霊狐の加護】が発動しました。周囲の魔素を自動浄化します』
ふわり、と車内を満たしていた重苦しい空気が霧散した。
まるで新緑の森の中で深呼吸をしたかのような、清涼な風が車内を駆け抜ける。
「……え?」
熊倉二曹が目を見張り、自分の胸元を押さえた。
「おい……息苦しさが、消えたぞ?」
「あかねさん、今のは……。」
驚いて振り返る橘一尉に、私は自分の手を見つめながら答えた。
「私のスキルみたいです。私の周りの空気を、綺麗にしてくれるみたいで……。」
「素晴らしいな……!」
橘一尉の瞳に、強い光が宿った。
「これなら、前線の隊員たちの魔素障害を完全に防げる。あかねさん、貴女の存在は私たちが考えていた以上に、この国の希望です。」
車が大きく開けた広場へと滑り込んだ。
そこはかつて観光客用の大型駐車場だった場所詰所やプレハブの研究施設、無数の大型テントが設営され、まるで前線の軍事基地のようになっている。
そして、その広場の最奥――かつて登山道へと続いていた森の入り口に、それはあった。
空間が、縦に裂けていた。
高さ五メートル、幅三メートルほどの、空間の裂け目。
その裂け目の向こう側には、現実の景色ではなく、青白く脈動する鉱石が壁一面に輝く、底知れない巨大な洞窟が口を開けていた。
『霧島第一ダンジョン』。
車を降りた瞬間、冷たい山の風が私の頬を撫でた。
頭上の狐耳が、ピンと前方を向く。
背中の尻尾が、緊張と――そして抑えきれない興奮で、ふわりと大きく膨らんだ。
「あかねさん、これより第一層への潜入調査を開始します。準備はよろしいですか?」
橘一尉が防護マスクを首にかけ、凛とした声で問う。
熊倉二曹が大型のショットガンをガシャリと構え、私の斜め前に立って背中を庇うように位置取った。
私は通学リュックの代わりに背負ったタクティカルバッグのベルトを締め直し、腰に下げた園芸用スコップの柄を握りしめた。
「はい。行きましょう、橘さん、熊倉さん。」
未知の世界が、すぐ目の前で私を待っている。
どんな植物が生えているんだろう。どんな鉱石が眠っているんだろう。
恐怖よりも遥かに大きな知的好奇心を胸に、私は世界で最初のダンジョン探索へと、確かな一歩を踏み出した。




