甘い疼き
それから一週間が経って。
正人は朝の2時くらいに、いきなり帰ってきた。
私はもちろん寝てて。
ガチャと鍵がすんなり開く音がしたから、枕元にあった携帯を110番にセットしてゆっくりと寝室から玄関に移動した。
携帯の画面をそのまんま玄関にパッと向けると。
不意打ちを食らったみたいに彼がドタッと座り込んで。
「びっくりさせないでよ、ただいま」
とか、へらっと笑って言った。
なんだか、そんな彼の何でもないような顔を見てると。
私のこの一週間がぶくぶくと体に溶けていくように、消えていく気がした。
正人にとってはたったの一週間でも。
私にとっては何年にも感じられるくらい、どうしようもない一週間だったのよ。
なんで、何にもなかったみたいな顔してるの。
なんで、心配じゃなかったの。
心配しないとでも思ったの。
寂しくないとでも思ったの。
そんな言葉が取り留めもなく頭に流れてきたけど。
私はその喉まで出かかった言葉を、無理やり押し戻して。
「おかえり」
ただ、それしか言えなかった。
「なんで、いなくなったの」
彼が顔を洗い終わったのを見計らって、私は彼に問いかけた。
正人は私にテーブルに着くように促して、これから死んじゃうのかと思うくらいの真剣な顔をした。
「ダメだと思ったんだ」
彼は下を向いたまま、そう答えた。
よく見ると、彼の髪は軽くワックスをつけてて。
その見慣れない髪のテカリ具合が、どうしようもなく馬鹿みたいに見えてしょうがなかった。
「こんなのダメだって思ったんだ」
正人は、もう一度。
まるで自分の身体にその言葉を染み渡らせるように言った。
私は知ってる。
彼がこんな風に言うときは、一言も言わずに黙って聞いたほうがいいって。
彼のこの話し方は私に自分のことをちゃんと見て欲しいって思ってる時だから。
「俺は、夏奈ちゃんに男として見て欲しいんだ。頼れるって思ってもらえるような」
そこまで言うと、決意が固まったみたいな真っ直ぐな瞳で私のことを見つめた。
「だから、出版社に持ち込みをしてたんだ」
門前払いがほとんどだったけど。
彼は一言、そう続けると、へらっと笑った。
「だけど、小さな会社が興味を持ってくれて。電子媒体で出版できるようになったんだ。
それまでも電子媒体で出版しようかと思ってたけど、それを広告する手段がなかったでしょう?
俺のペンネームなんて無名に等しいし、言ってみれば素人だし。
だから、その会社に俺の小説を宣伝してもらうように頼んだんだ。
もちろん、お金はかかるけど、持ち金全部これですって出したら、協力してくれるって」
こんな積極的な奴、初めて見たって言われたよ。
彼は、そのために一週間も帰ってこなかったのだ。
彼と私のために。
「俺さ、夏奈ちゃんに釣り合う人になるから。だから、別れようなんて言わないで。
絶対に、幸せにするから」
安っぽい言葉ばっかり並べて。
私の気なんて知りもしないで。
なんで、そんな風に言い切ったみたいな満足気な顔してるのよ。
「誰が言ったのよ、別れるとか釣り合わないとか、そんなこと。
私、そんなこと言ってないし。思ってないし。
正人がいないとやってけないの。
分かってよ、そんな気持ち知りもしないくせに。
勝手にどっかに行ったりしないでよ、私も連れてってよ。
一人にしないでよ」
ポスッ。
私は自分が抱きしめていた、クッションを彼に弱々しく投げつけた。
私が泣かないって思ったの。
そんなに強くないよ、私は。
なんで、そんな意外そうな顔してるのよ。
私だって。
「正人の馬鹿」
彼は不意に顔にストレートのパンチを食らったみたいに、私の顔を穴が開くかと思うくらいに腑抜けた顔でじっと見つめた。
「ごめん、夏奈ちゃん、ごめん」
なんだか、私が正人をいじめてる気分だよ。
彼は、絞り出すみたいなか細い声で、一言だけ言った。
そして、いつもしてくれてたみたいにテーブル越しにキスをする。
凄く、凄く優しいキス。
まるで壊れやすい陶磁器を扱ってるみたいに、繊細な手つきで。
唇に彼のふっくらした唇と、温かさを感じて。
頭から意識が遠ざけられていくようだった。
ピリピリとした小さな電流が私の中を駆け巡るようにして、力もだんだん入らなくなってしまう。
だんだんしゃがみ込もうとする私を正人はぐいっと引き上げて抱きしめる。
その間も続く長いキスに、彼も寂しかったのだと気づくと。
それまでの彼にぶつけたかった言葉とかも全部全部、私の意識から締め出されていく。
それが締め出されていけばいくほど、私は彼に深く深くハマってしまって。
彼はようやく、唇を離したと思ったら。
私の首筋に顔を埋めて、服に隠れて見えないところを吸った。
そこについた跡を愛おしそうに何度も何度も撫でて。
跡がつかない程度に、たくさんのところにキスをした。
首筋、耳、鼻、手首、薬指、爪の先、足首。
彼の目に触れるところ全て。
久しぶりに襲ってくる甘い疼きに、今日は何も考えずに身を任せる。
私の上に重なる彼の顔が、いつもよりも凛々しく見えた気がした。




