第5話 石の町
森川弥七郎は、石でできた道を踏むたびに落ち着かなかった。
土ではない。
敷き詰められた石の上を、荷車が当たり前の顔で走っている。
道の両側には石造りの建物が続き、屋根の向こうから煙が上がる。人が多い。兵だけではない。女も老人も子どももいる。籠を抱えた者、皿を売る者、布を担ぐ者、樽を転がす者。
異国であることは変わらない。
だが、化け物の国ではなかった。
むしろ弥七郎が困ったのは、人があまりに普通に暮らしていることだった。
「見ろ」
井上新六が顎で先を示した。
道の脇に、石で囲われた水槽がある。上から水が流れ落ち、女が器へ汲んでいる。
「川まで行かずに水が出る」
「山から引いておるのか」
「さあな。だが昨日より楽そうだ」
弥七郎は答えながら、つい足を止めた。
背後からローマ兵に肩を押される。
止まるな、という意味くらいはもう分かる。
一行は全員ではなかった。輝政、宗右衛門、弥七郎、佐吉、勘定方数人、馬方と大工の代表だけが、監視つきで都市と軍営の一部を見せられている。
残りは仮営にいる。
「きょろきょろするな」
河合主膳が低く言った。
「物見遊山ではないぞ」
「物見をせねば、何があるか分かりませぬ」
新六が返した。
「黙れ。家中の恥を晒すな」
輝政は振り返らなかった。
「見ておけ」
一言だった。
「恥は、見ぬふりをして知らぬままでいることだ」
主膳の口が閉じる。
市場へ入ると、佐吉が突然立ち止まった。
鼻をひくつかせている。
「殿」
「なんだ」
「腹が鳴ります」
弥七郎は思わず笑いそうになった。
佐吉が睨む。
「笑え。だが、あれを見ろ」
積まれているのは、穀物袋だった。
小麦。大麦。見慣れぬ種類もある。隣にはパンの山。樽には葡萄酒らしいもの。干した豆。玉葱。塩漬け肉。鼻につく発酵した魚の匂い。
米はない。
だが食べ物はある。
五日という数字に首を締められていた弥七郎には、その事実だけで市場が宝蔵に見えた。
佐吉はパンを一つ指し、売り手へ何か言おうとした。
当然通じない。
そこでセウェラが前へ出た。
彼女は硬貨を一枚示し、パンを指した。売り手が指を二本立てる。セウェラが首を振り、別の小さな硬貨をいくつか並べる。
値切っているらしい。
佐吉が目を丸くした。
「言葉が通じても、銭の話は同じですな」
「通じておるのは向こう同士だ」
弥七郎が言うと、佐吉は「分かっておる」と鼻を鳴らした。
買ったパンを一片ずつ分けてもらう。
固い。
弥七郎は前歯で噛み、顎が疲れた。
佐吉は中身を割って匂いを嗅ぎ、次に魚醤らしい小壺へ鼻を近づけ、ものすごい顔をした。
「これは腐っておる」
セウェラが笑った。
笑われたと分かり、佐吉は悔しそうに壺を指す。
「くさる」
セウェラは首を傾げた。
彼女は別の語を言った。
弥七郎は耳で拾う。
「ガルム……?」
「がるむ」
佐吉は不承不承繰り返した。
セウェラが頷く。
弥七郎は、その瞬間に妙な喜びを覚えた。
一つだけ、言葉が増えた。
次に連れて行かれた倉庫では、喜びより先に圧倒された。
天井近くまで樽と袋が積まれている。荷の出入りを、板へ記録する者がいる。出すたびに印をつけ、戻るたびに別の印を刻む。
主膳が黙り込んだ。
「どうした」
輝政が訊く。
「いえ」
「申せ」
「……帳面の国にございますな」
その声には、わずかな敗北感があった。
日本人の荷車を都市の道へ入れた時にも、違いが出た。
道そのものはよい。ぬかるまず、車輪が沈まない。
ところが二台が並ぼうとすると、こちらの車輪と荷の張り出しが邪魔になる。曲がり角では、ローマ側の車が軽く回るのに、日本側の車は大きく膨らんだ。
新六が舌打ちする。
「道は負けたな」
「車の方かもしれぬぞ」
宗右衛門が言う。
「それを負けと言うのでしょう」
新六はあっさり返した。
宗右衛門が苦い顔をした。
軍営へ近づくにつれ、兵の数が増えた。
弥七郎は城壁を見上げた。
石。
石。
また石。
日本の城にも石垣はある。だがここでは、町そのものが石に包まれているようだった。
「殿」
弥七郎は思わず訊いた。
「この国は……昔なのでしょうか」
輝政が足を止める。
その問いに答えられる者はいない。
そもそもここがどこで、いつなのかさえ知らない。
「昔か先かは知らぬ」
輝政は石壁を見上げた。
「だが、少なくとも我らより知らぬ者どもではない」
その時、軍営の外から掛け声がした。
兵が土を掘っている。
一列が溝を切り、別の一列が土を盛り、木杭を立てている。測量する者が線を引き、次の組がその線どおりに動く。
作業は速かった。
宗右衛門の足が止まる。
今度は主膳も「物見遊山」とは言わなかった。
異国の兵たちが、目の前で城を作っていた。
都市を歩くうち、弥七郎は自分たちが見られていることにも気づいた。
子どもが日本人の髷を指す。商人が刀の鞘を見る。女たちが着物の袖を見て囁く。こちらがローマの町に驚くのと同じだけ、向こうも三百二十人の異邦人を珍しがっている。
その視線に河合主膳はますます不機嫌になった。
「見世物ではない」
「向こうも同じことを思っているかもしれませぬ」
弥七郎が言うと、主膳は返事をしなかった。
倉庫の前では、穀物の袋に印が押され、出入りの数が記されていた。弥七郎は日本の勘定方が同じように荷札を確認している姿を思い出す。文字も単位も違う。だが、数えなければ物が消えるという道理は同じらしい。
セウェラは一枚の硬貨を弥七郎へ渡した。
表には男の横顔。裏には見慣れぬ印。
弥七郎が自分の銭と並べると、セウェラは笑った。彼女は二つを指し、それぞれ別の言葉を言う。
貨幣の名前。
弥七郎は復唱した。
一語増えるたびに、世界がほんの少しだけ怪異ではなくなる。
それが怖くもあった。
慣れてしまえば、本当に帰れなくなるような気がした。
そんな思いを抱えたまま軍営へ出ると、今度は兵たちが土を掘っていた。
そこで宗右衛門の顔から、残っていた優越感が消えた。




